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7・海の底で見る雪は_1
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天花は余程具合が悪かったのか、布団に入るなりすぐに眠ってしまった。氷枕の類があるはずもないので、せめてもの気休めに額の上に冷やしたタオルを置く。恭一は天花の布団の横に腰を下ろして溜息を吐いた。
人を殺したことがある人間の頭の中には、殺すという選択肢が生まれる。それは先程言われたばかりの言葉だ。図らずもそれが真実であると思い知らされた。でも殺さなければ何をされるかわからなかったのも事実だ。天花の話を聞いて部屋を探した結果、天花が飲まなかったという薬が落ちているのを見つけた。本当に間一髪のところだったのだろう。もし未遂で終わらなければどうなっていたのか、天花は本当に理解しているのだろうか。落ち着いた寝息を立てている天花の頭をそっと撫でた。
暫くそのまま待っていると、インターホンが鳴った。橙の姿を確認してから扉を開ける。何とかするとは言ったものの、どうすればいいのか思い付かず、結局橙を頼ることにしたのだ。
「天花ちゃんは大丈夫そう?」
「今はとりあえず寝てる。暫く様子見て、熱が下がらないようなら病院かな……」
眠っている天花から離れ、橙と食卓の椅子に向かい合って座る。概要は既に伝えてあった。こんな状況になってしまった以上、ここもすぐに離れなければならない可能性もある。溜息をつきたくなくても溜息が漏れてしまう。
「お前はお前でひどい顔色だな」
「……だろうな」
「正直な話、ここらを潮時ってことにして大人しく自首する手もあるんだぜ?」
「それは――」
恭一はあくまで逃げ続けることを考えていた。天花の意思はまだ確認していなかったが、天花が自分から自首すると言わない限りは逃げるつもりだった。
「わりと意外なんだよな。むしろ自首を勧めるタイプかと思ってたからさ」
「それが正しいのはわかってる。俺もどうして逃げてるのかって言われるとうまく説明できないけど……だけどここで手を離せば、天花が二度と戻ってこないような……そんな気がするんだ」
天花は手を離せば消えてしまいそうな、ふらりとどこかに行ってしまいそうな、そんな雰囲気を昔から漂わせていた。それが何故かはわからないけれど、どうしようもなく不安になる。
「恭一には落ち着いてから言おうと思ってたんだけどな」
椅子の背もたれに思いっきり身体を預けて、橙が切り出す。
「あの月野とかいう女が入り込んで来ているのはわかってたんだ」
「え?」
「こうなってしまったから全部話すけどな、オレもここで生きていくためにケーサツとの繋がりとかは持ってんのよ。で、その知り合いの刑事ってのがたまたま月野深色の事件を追っていた」
橙は真面目な顔をしている。いつもは軽い調子の橙が真剣な顔をするときは大抵が良くない話だと知っていた恭一は、思わず身構えた。
「偶然……ではあるよな?」
「そうだな。向こうが事件を起こしたのは天花ちゃんが事件を起こす前だ。秘密裡に捜査していたから情報はあまり出てなかっただろうけど。そして逃亡して身を隠していた月野深色が動きを見せたのが、天花ちゃんが事件を起こしてからだったんだ」
「……そこまで隠れてたのに、天花が近くにいるってわかって動いたってことか」
その場所を選んだのは恭一だった。もし最初から橙を頼っていたら、この展開は避けられたのだろうか。そんなことを考えてしまう。
「天花ちゃんの事件は、名前こそ出てなかったけど結構報道されてたから、恭一がどこを選んでも接触してきた可能性はあるけどな。そして月野が動きを見せたことで、恭一たちの場所も割れたらしい。まあ芋蔓式ってやつだな」
「――お前、とんでもないこと黙ってたな」
橙は信用できる人物ではあるが、何もかも明け透けに言うような人間ではない。どちらかというと計算高く、裏で色々と策略を巡らせているタイプだ。
「それは後で謝ろうと思ってたんだよ。てか昭島さんが暴走して勝手に一人で行動しなきゃこんなことにはならなかったんだ」
元々、昭島と二人で捜査に当たっていた湧(わく)谷(や)という刑事と橙が知り合いで、湧谷から二つの事件の繋がりを聞いていたらしい。けれど湧谷は月野を逮捕するために恭一たちは泳がせるつもりだったようだ。
「接触してくれば両方一気にってことも出来るしってことだな」
「そういうこと。まあ必要悪じゃないけど、より効率的に事件を解決するための作戦だったんだな。でも、その作戦に異を唱えて勝手に昭島さんが動いちゃったってわけ。湧谷さんは天花ちゃんのことは放っておいても連続で事件を起こすことはないと考えてたけど、昭島さんは違っていたみたいだな」
「……あのとき、月野深色のことなんて一言も言ってなかった」
「それだけ天花ちゃんの方を危険視してたってことなんだろうな。刑事の勘ってのも全員が全員一致するわけじゃないし」
昭島がそれほどまでに天花を危険視していた理由は何なのだろうか。殺してしまった手前、もう聞くことも出来ない。けれど普通に考えれば、酒癖が悪くて時折暴力を振るうことさえあった父親を殺した人間よりも、患者を殺した看護師の方を危険視するだろう。
「本音を言うなら、その話をもう少し早くしてくれたらよかったんだけどな。天花が危ない目に遭ったのは事実だ」
「まさかこんな早いとは思わなかった……ってのは言い訳だな。それは本当に悪かった」
もし月野深色の行動が未遂に終わらなかったら――それを考えるだけで寒気がする。恭一は鮮やかな色の錠剤が入った袋を橙の前に放り投げた。
「……天花がやってなかったら、俺が殺していたかもしれないな」
大学生のときに橙の研究を手伝う過程で、何度か目にしたことがある。関わらない方がいいとわかっていたから触れなかったものだ。
「月野深色は薬物とか毒物とか……そういうのに非常に詳しいらしい。患者を殺した事件以外にも、若い子に薬物を横流ししてたんじゃないかとかそういう容疑もあった」
「よくそんな淡々と言えるよな」
「オレはオレでこんなところにいるから麻痺してんだろうな。お前の反応がきっと普通なんだ」
恭一は何度目かの溜息を吐いた。抑え込んではいるが、昂った気持ちを鎮めきれずにいる。天花が再び人を殺してしまったことよりも、もう少しでどうしようもなく傷つけられてしまうところだったことが恭一の頭の中を巡っていた。
「もう死んでる人に言っても何の意味もないのはわかってるけど、正直殺してやりたいとすら思った」
それをぶつけようにも、その相手は既に死んでいる。行き場のない怒りだけが渦巻いていた。握り締めた拳に爪が食い込んでいく。
「オレとしては、さすがに湧谷さんとの関係もあるし、死体の隠蔽とかはできない。まあこんな場所だから、どっかの茂みに死体が投げ込まれてるとかそういうことはないわけではないとしか言えないな。……そしてお前の友人として言うなら、天花ちゃんに自首させた方がいい。罪を重ねるよりは、まだ情状酌量で罪が軽くなる方に賭けるべきだと思う」
「それが本当は正しい答えだってのはわかってるんだよ。――でも」
思い出すだけで目が眩みそうな、ここ最近の記憶。天花と肉体関係を持っただけではない。その中でこれまで知らなかった天花に触れてしまった。見えなかったものが見えてきたのに、逆にそのせいで何もわからなくなった。
「……少し、時間をくれないか」
世間的には正しい答えが、天花にとっての正解とは限らない。
それにまだわからないことばかりだ。昭島が言っていた、同級生に毒を盛った話も真相は明らかになっていないし、母の死についても天花の口からは何も聞けていない。あやふやにしたまま手を離してしまえば、二度と天花の真実には辿り着けない。それどころか永遠に喪ってしまう可能性だってある。恭一は自分の額に軽く手を当てた。
人を殺したことがある人間の頭の中には、殺すという選択肢が生まれる。それは先程言われたばかりの言葉だ。図らずもそれが真実であると思い知らされた。でも殺さなければ何をされるかわからなかったのも事実だ。天花の話を聞いて部屋を探した結果、天花が飲まなかったという薬が落ちているのを見つけた。本当に間一髪のところだったのだろう。もし未遂で終わらなければどうなっていたのか、天花は本当に理解しているのだろうか。落ち着いた寝息を立てている天花の頭をそっと撫でた。
暫くそのまま待っていると、インターホンが鳴った。橙の姿を確認してから扉を開ける。何とかするとは言ったものの、どうすればいいのか思い付かず、結局橙を頼ることにしたのだ。
「天花ちゃんは大丈夫そう?」
「今はとりあえず寝てる。暫く様子見て、熱が下がらないようなら病院かな……」
眠っている天花から離れ、橙と食卓の椅子に向かい合って座る。概要は既に伝えてあった。こんな状況になってしまった以上、ここもすぐに離れなければならない可能性もある。溜息をつきたくなくても溜息が漏れてしまう。
「お前はお前でひどい顔色だな」
「……だろうな」
「正直な話、ここらを潮時ってことにして大人しく自首する手もあるんだぜ?」
「それは――」
恭一はあくまで逃げ続けることを考えていた。天花の意思はまだ確認していなかったが、天花が自分から自首すると言わない限りは逃げるつもりだった。
「わりと意外なんだよな。むしろ自首を勧めるタイプかと思ってたからさ」
「それが正しいのはわかってる。俺もどうして逃げてるのかって言われるとうまく説明できないけど……だけどここで手を離せば、天花が二度と戻ってこないような……そんな気がするんだ」
天花は手を離せば消えてしまいそうな、ふらりとどこかに行ってしまいそうな、そんな雰囲気を昔から漂わせていた。それが何故かはわからないけれど、どうしようもなく不安になる。
「恭一には落ち着いてから言おうと思ってたんだけどな」
椅子の背もたれに思いっきり身体を預けて、橙が切り出す。
「あの月野とかいう女が入り込んで来ているのはわかってたんだ」
「え?」
「こうなってしまったから全部話すけどな、オレもここで生きていくためにケーサツとの繋がりとかは持ってんのよ。で、その知り合いの刑事ってのがたまたま月野深色の事件を追っていた」
橙は真面目な顔をしている。いつもは軽い調子の橙が真剣な顔をするときは大抵が良くない話だと知っていた恭一は、思わず身構えた。
「偶然……ではあるよな?」
「そうだな。向こうが事件を起こしたのは天花ちゃんが事件を起こす前だ。秘密裡に捜査していたから情報はあまり出てなかっただろうけど。そして逃亡して身を隠していた月野深色が動きを見せたのが、天花ちゃんが事件を起こしてからだったんだ」
「……そこまで隠れてたのに、天花が近くにいるってわかって動いたってことか」
その場所を選んだのは恭一だった。もし最初から橙を頼っていたら、この展開は避けられたのだろうか。そんなことを考えてしまう。
「天花ちゃんの事件は、名前こそ出てなかったけど結構報道されてたから、恭一がどこを選んでも接触してきた可能性はあるけどな。そして月野が動きを見せたことで、恭一たちの場所も割れたらしい。まあ芋蔓式ってやつだな」
「――お前、とんでもないこと黙ってたな」
橙は信用できる人物ではあるが、何もかも明け透けに言うような人間ではない。どちらかというと計算高く、裏で色々と策略を巡らせているタイプだ。
「それは後で謝ろうと思ってたんだよ。てか昭島さんが暴走して勝手に一人で行動しなきゃこんなことにはならなかったんだ」
元々、昭島と二人で捜査に当たっていた湧(わく)谷(や)という刑事と橙が知り合いで、湧谷から二つの事件の繋がりを聞いていたらしい。けれど湧谷は月野を逮捕するために恭一たちは泳がせるつもりだったようだ。
「接触してくれば両方一気にってことも出来るしってことだな」
「そういうこと。まあ必要悪じゃないけど、より効率的に事件を解決するための作戦だったんだな。でも、その作戦に異を唱えて勝手に昭島さんが動いちゃったってわけ。湧谷さんは天花ちゃんのことは放っておいても連続で事件を起こすことはないと考えてたけど、昭島さんは違っていたみたいだな」
「……あのとき、月野深色のことなんて一言も言ってなかった」
「それだけ天花ちゃんの方を危険視してたってことなんだろうな。刑事の勘ってのも全員が全員一致するわけじゃないし」
昭島がそれほどまでに天花を危険視していた理由は何なのだろうか。殺してしまった手前、もう聞くことも出来ない。けれど普通に考えれば、酒癖が悪くて時折暴力を振るうことさえあった父親を殺した人間よりも、患者を殺した看護師の方を危険視するだろう。
「本音を言うなら、その話をもう少し早くしてくれたらよかったんだけどな。天花が危ない目に遭ったのは事実だ」
「まさかこんな早いとは思わなかった……ってのは言い訳だな。それは本当に悪かった」
もし月野深色の行動が未遂に終わらなかったら――それを考えるだけで寒気がする。恭一は鮮やかな色の錠剤が入った袋を橙の前に放り投げた。
「……天花がやってなかったら、俺が殺していたかもしれないな」
大学生のときに橙の研究を手伝う過程で、何度か目にしたことがある。関わらない方がいいとわかっていたから触れなかったものだ。
「月野深色は薬物とか毒物とか……そういうのに非常に詳しいらしい。患者を殺した事件以外にも、若い子に薬物を横流ししてたんじゃないかとかそういう容疑もあった」
「よくそんな淡々と言えるよな」
「オレはオレでこんなところにいるから麻痺してんだろうな。お前の反応がきっと普通なんだ」
恭一は何度目かの溜息を吐いた。抑え込んではいるが、昂った気持ちを鎮めきれずにいる。天花が再び人を殺してしまったことよりも、もう少しでどうしようもなく傷つけられてしまうところだったことが恭一の頭の中を巡っていた。
「もう死んでる人に言っても何の意味もないのはわかってるけど、正直殺してやりたいとすら思った」
それをぶつけようにも、その相手は既に死んでいる。行き場のない怒りだけが渦巻いていた。握り締めた拳に爪が食い込んでいく。
「オレとしては、さすがに湧谷さんとの関係もあるし、死体の隠蔽とかはできない。まあこんな場所だから、どっかの茂みに死体が投げ込まれてるとかそういうことはないわけではないとしか言えないな。……そしてお前の友人として言うなら、天花ちゃんに自首させた方がいい。罪を重ねるよりは、まだ情状酌量で罪が軽くなる方に賭けるべきだと思う」
「それが本当は正しい答えだってのはわかってるんだよ。――でも」
思い出すだけで目が眩みそうな、ここ最近の記憶。天花と肉体関係を持っただけではない。その中でこれまで知らなかった天花に触れてしまった。見えなかったものが見えてきたのに、逆にそのせいで何もわからなくなった。
「……少し、時間をくれないか」
世間的には正しい答えが、天花にとっての正解とは限らない。
それにまだわからないことばかりだ。昭島が言っていた、同級生に毒を盛った話も真相は明らかになっていないし、母の死についても天花の口からは何も聞けていない。あやふやにしたまま手を離してしまえば、二度と天花の真実には辿り着けない。それどころか永遠に喪ってしまう可能性だってある。恭一は自分の額に軽く手を当てた。
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