餓神

よん

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信者という金脈

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 真照会の信者は、黒崎の予想を超える速度で増えていった。

 最初の儀式に参加した二十名のうち、十五名が継続を希望した。サクラの五名を除いても十名。歩留まり率としては驚異的だ。山根が得意げに報告した。

 「普通のセミナーやと、初回から継続する率はせいぜい二割ですよ。うちは五割超え。兄貴の話術が効いとるんでしょうね」

 話術か。黒崎は自嘲した。ヤクザの脅し文句を練り上げてきた口先が、こんなところで役に立つとは。

 二回目の儀式を翌週に行い、三回目はその十日後。回を追うごとに参加者が増えた。山根のSNS戦略が功を奏していた。信者に体験談を書かせ、ハッシュタグをつけて拡散する。「#真照会」「#魂の浄化」「#人生が変わった」。インターネットの海に撒いた餌に、孤独な人間が食いつく。

 七月末の時点で信者は三十名を超えていた。

 その中で、宮本朋美は特別な存在になりつつあった。

***

 朋美が「個人浄化」を受けたのは、三回目の儀式の翌日だった。

 個人浄化は黒崎が考案した追加メニューだ。信者と教祖が一対一で向き合い、信者の「穢れ」を直接浄化する。グループ儀式では救いきれない深い苦しみを抱えた者のために、と説明している。実態は、高額の祈祷料を取るための口実だった。一回五万円。三十分。

 朋美は施設の小部屋に通された。六畳ほどの和室。蝋燭が四隅に灯され、白檀の香が漂っている。

 黒崎が向かい合って正座した。

 朋美の顔を見た。四十歳。化粧は薄く、目の下の隈が濃い。唇が乾いて皮が剥けている。痩せている。頬骨が浮き、首筋の腱が目立つ。眠れていないのだろう。心療内科の薬を飲んでいるとプロフィールシートに書いてあった。
この女から五万円を取るのか、と黒崎は一瞬思った。夫を亡くし、幼い子供を抱え、心を病んでいる女から。
一瞬だった。その感情を、黒崎は腹の底に沈めた。感傷はシノギの邪魔になる。丹生組長の言葉が脳裏に浮かぶ。信者は金を運んでくる羊や。

 「宮本さん。目を閉じてください」

 朋美が目を閉じた。睫毛が震えていた。

 黒崎は朋美の額に右手を当てた。手のひらに朋美の体温が伝わる。微かに汗ばんでいる。緊張しているのだ。
祝詞を唱え始めた。あの祝詞を。低く、ゆっくりと。

 朋美の体が揺れ始めた。打ち合わせも仕込みもない。朋美は本気で揺れている。

 涙が流れた。

 閉じた目から、大粒の涙が頬を伝った。朋美は声を上げずに泣いていた。唇を噛み、顎を震わせ、こらえようとしている。しかし涙は止まらなかった。頬を伝い、顎から滴り、膝の上の手に落ちた。

 鼻水が出た。朋美はそれを拭わなかった。両手を膝の上に置いたまま、じっと耐えている。鼻水が上唇を濡らし、口の端に達した。

 涎が垂れた。

 朋美の口が半開きになり、涎が糸を引いて顎から落ちた。涙と鼻水と涎が混じり、朋美の顔は体液で覆われた。顔中から水が噴き出しているようだった。人間の顔にはこんなにも多くの穴があり、そのすべてから液体が溢れ出すのだと、黒崎は妙に冷静な目で観察していた。

 朋美が声を上げた。

 「あなた——」

 夫を呼んでいた。

 「あなた、ごめんね。ごめんね。何もしてあげられんかった。あんたが苦しんどるとき、あたし、何もできんかった——」

 嗚咽。言葉にならない声が、薄暗い部屋に満ちた。

 黒崎は祝詞を唱え続けた。手のひらが朋美の額に触れている。朋美の体温が上がっている。額だけではない。朋美の体全体から熱が発せられ、汗が噴き出している。衣服が汗で濡れ、背中に張りついている。

 異常な発汗だった。

 朋美の首筋から滴る汗を見て、黒崎はわずかに眉をひそめた。汗が——色づいている。無色透明であるはずの汗に、灰色がかった濁りがある。まるで体の中の澱が、汗と共に排出されているかのように。

 演出の効果だ、と黒崎は判断した。薄暗い部屋で蝋燭の光に照らされているから、汗の色が変わって見えるのだ。そうに違いない。

 十五分で儀式は終わった。朋美は涙を拭き、何度も頭を下げた。

 「ありがとうございます。ありがとうございます。なんだか、体の中の重いものが、出ていった気がします」

 黒崎は穏やかに微笑んだ。教祖の顔だ。

 「それは良かった。穢れが浄化された証です。これからも、一緒に清めていきましょう」

 朋美が出ていった後、黒崎は部屋を片づけた。

 朋美が座っていた座布団を持ち上げると、裏が湿っていた。汗が染みたのだ。座布団を裏返すと——灰色の染みができていた。汗の形。人が座った形。しかし汗の痕にしては色が濃すぎる。灰色というより、黒に近い灰。

 鼻を近づけた。微かな匂い。甘い。

 腐りかけの果物の、あの甘さ。

 昨夜、蝋燭の蝋から嗅いだ匂いとは違う。もっと生々しい。人の体から出たものの匂い。

 黒崎は座布団をゴミ袋に入れた。考えないことにした。考えたところで意味がない。宗教はインチキであり、超常現象など存在しない。朋美が大量に発汗したのは、感情の昂ぶりによる自律神経の乱れだ。汗の色は照明の加減だ。匂いは線香と蝋が混じったものだ。

 すべてには合理的な説明がある。

 黒崎はそう自分に言い聞かせた。

 翌朝、朋美から黒崎の携帯にメッセージが届いた。

 「昨夜、一年ぶりに朝まで眠れました。薬を飲まずに。本当にありがとうございます」

 黒崎はメッセージを見つめた。それから、額に残った朋美の体温の記憶を、意識的に振り払った。

***

 八月。猛暑。信者は五十名を超えた。丹生組長への上納金は月に三百万。黒崎の取り分が百万。山根と絹江にそれぞれ五十万。施設の維持費と雑費を差し引いても、十分な利益が出ていた。

 「信者五十人で月の収入がざっと六百万か。百人になったら倍。三百人で二千万は固い」

 山根が電卓を叩きながら言った。

 「金額だけ見たら、風俗よりよほど効率がええですね。しかも暴力も違法薬物もいらん。法に触れるんは宗教法人の私的流用くらいのもんで、それかてバレにくい」
 「調子に乗るなよ」

 黒崎は低い声で言った。

 「調子に乗ったら足元をすくわれる。信者を増やすのはええが、急ぎすぎるな。外から目をつけられたら終わりじゃ」

 外とは、警察のことだ。暴力団が宗教法人を隠れ蓑にしている——そう認定されれば、組織犯罪処罰法の適用対象になりかねない。

 しかし黒崎の慎重さとは裏腹に、真照会は勝手に膨張し始めていた。

 信者の口コミが予想以上の効果を発揮した。朋美のように「本当に救われた」と感じる者が、家族や知人を連れてくる。一人が二人を、二人が四人を。とくに効いたのが、「除霊」のパフォーマンスだった。

 除霊は山根のアイデアだった。

 「信者をステージに上げて、兄貴が祝詞を唱えて、背中から『悪いもの』が出てくる演出をやりましょう。視覚的にインパクトがあるやつ」
 「どうやる」
 「血糊パックです。信者の背中に薄いビニールパックを貼りつけておく。中には赤い液体。儀式の最中に絹江さんが背後から信者の背中を叩く。パックが破れて、赤い液が出る。『悪い血が出た!』——こういう段取りです」

 下品な手品だ、と黒崎は思った。だが効果は確かだ。目の前で「何か」が出てくれば、人は信じる。理屈より視覚。論理より体験。新興宗教の常套手段だった。

 最初の除霊は八月半ばに行われた。

 対象は新規信者の中年男性。腰痛に悩んでいるという。ステージに上げ、上半身を脱がせ、うつ伏せに寝かせた。山根が事前に背中の中央に血糊パックを貼りつけてある。肌色のテープで固定し、薄暗い照明の下では見えない。

 黒崎が祝詞を唱え始めた。

 絹江がステージに上がり、男の背後に立った。白い着物。長い髪が蝋燭の光を受けて揺れている。絹江は両手を男の背中にかざし、

 「——出なさい」

 低い声で言った。

 打ち合わせにない台詞だった。しかし場の空気に合っていた。信者たちが息を呑む。絹江が手を振り下ろし、男の背中を強く叩いた。パチン、と乾いた音。

 血糊パックが破れ、赤い液体が男の背中を流れた。

 「おおっ」と声が上がった。信者たちが身を乗り出す。

 「悪い血です」黒崎が厳かに言った。「魂の穢れが、血となって排出されている。大丈夫、痛みはありません。これで宮本さん——いや、田中さんの腰の痛みは和らぐでしょう」

 名前を間違えかけた。なぜ朋美の名前が先に出たのか、黒崎自身にも分からなかった。田中という男の名前がとっさに出てこなかったのだ。しかし信者たちは気にしていない。赤い液体に目を奪われている。

 男が泣き出した。「ほんまに、ほんまに楽になった気がします」。まだ液体が流れている最中だというのに。プラシーボ効果とはこういうものだ。

 儀式の後、黒崎と山根は裏手の台所で片づけをした。血糊の材料——食紅を溶いた水——を排水口に流しながら、山根が笑った。

 「兄貴、大成功ですね。あの田中さん、次回も除霊受けたい言うてましたよ。五万出すって」
 「ああ」

 黒崎は手を洗っていた。食紅は水溶性で、石鹸を使わなくても落ちる。さっと流せば指は綺麗になる。

 しかし——匂いが残った。食紅に匂いはないはずだ。無味無臭の合成着色料。それなのに、指先にあの匂いが残っている。鉄の匂い。いや、違う。鉄に似ているが、もっと生々しい。温度のある匂い。

 血の匂いだ。本物の血の匂いが、指先に残っていた。

 黒崎は手を鼻に近づけて確かめた。間違いない。食紅ではない何かの匂いが、爪の間に染みている。

 裏手の排水口を見た。赤い水が排水溝に消えていく。その赤が、食紅を溶いた水よりも——濃い。

 黒崎は目を閉じ、深く息を吐いた。

 気のせいだ。この台詞を、自分に言い聞かせるのが、もう何度目か分からなかった。

***

 九月に入り、信者は八十名を超えた。

 丹生組長は満足していた。月の上納金は五百万に達し、組の収入源として無視できない規模になっている。

 「ようやっとる、剛。わしの目に狂いはなかった」

 料亭での定例報告。丹生は上機嫌で冷酒を傾けた。

 「年内に信者二百は目指せ。二百ありゃあ、月の収入は一千万を超える。そうなったら、この町で丹生組の右に出る者はおらん」

 黒崎は「はい」と答えた。それ以上の言葉は出なかった。

 言えなかった。

 施設で起きている「異変」のことを、丹生には報告していない。蝋燭の変色。座布団の灰色の染み。除霊の血糊が本物の血の匂いに変わること。壁に現れる濡れた手形。トイレの便器に張る虹色の膜。

 一つ一つは些末なことだ。合理的な説明がつく。いや、つくと信じたい。

 だが頻度が上がっていた。

 八月の終わりから、異変は毎日のように起きるようになった。施設の壁紙が、特定の場所だけ剥がれる。剥がれた下の石膏ボードに、染みがある。水漏れかと思ったが、配管に異常はない。染みは人の手形の形をしていた。五本の指がはっきり見える。染みの表面に触れると——温かかった。壁の中に、体温のある何かが、手を押しつけている。
黒崎がその手形に手を当ててみた。大きさが合わない。手形は黒崎の手よりも二回りほど大きい。指が異様に長い。黒崎が自分の手を当てると、手形の中指は黒崎の指先から手首まで届いた。人間の手ではない。

 それでも黒崎は、丹生に報告しなかった。「お化けが怖い」などとヤクザが口にすれば、正気を疑われる。最悪、使い物にならんと判断されて始末される。この世界では、弱みを見せた者から潰される。

 しかし——
 
 九月の第二週。事件が起きた。

***
 
 夜の十一時。儀式の後片づけをしていた山根から、黒崎の携帯に電話が入った。

 「兄貴。すぐ来てください。大広間に——何か、おります」

 山根の声が震えていた。この男が声を震わせるのを、黒崎は聞いたことがなかった。元ホストで、度胸だけは一人前。他所の組の鉄砲玉に囲まれても笑っていた男だ。

 黒崎は車を飛ばした。

 施設に着いたのは十一時二十分。駐車場に山根の車がある。エンジンはかかったまま、ヘッドライトが点いている。運転席に山根はいない。

 玄関の引き戸が開いていた。

 中に入ると、廊下の照明が消えている。ブレーカーが落ちたのか。懐中電灯を持ってきていなかったことを後悔しながら、黒崎はスマートフォンのライトを頼りに廊下を進んだ。

 大広間の前で立ち止まった。襖が二十センチほど開いている。

 中から音がした。

 くちゃ。くちゅ。くちゃ。

 咀嚼音だ。何かが何かを喰っている。湿った、粘りのある音。口腔の中で柔らかいものが潰されている音。それが暗闇の中から、等間隔に響いてくる。

 甘い匂いがした。

 施設に入ったときから微かに感じていた匂いが、大広間の前で一気に濃くなった。腐りかけの果物。乾ききる前の精液。肉が発酵するときの甘さ。それらが混じり合った、生温かい甘さ。匂いに温度がある。冷たい廊下の空気の中で、大広間から漂う空気だけが温かい。

 黒崎は襖に手をかけた。

 指が震えていた。自分の指が震えていることに、黒崎は驚いた。高柳の爪を剥いだとき、この手は震えなかった。ヤクザに刃物を向けられたとき、この手は震えなかった。しかし今——暗闇の向こうの音と匂いに、手が震えている。
 襖を開けた。
 
 大広間は闇だった。窓の外に月明かりがあるはずだが、カーテンを閉め切っているために何も見えない。スマートフォンのライトが白い円錐を作り、畳の上を照らした。
 畳が濡れていた。

 光の円が捉えた範囲だけでも、畳の上に液体が広がっている。水ではない。粘度がある。光を当てると、液体の表面がぬらりと反射した。色は——判別できない。暗すぎる。しかし黒ではない。赤でもない。その中間の、乾きかけた血のような色。

 くちゃ。くちゅ。くちゃ。

 音が近い。大広間の中央あたりから聞こえる。

 黒崎はスマートフォンのライトを持ち上げた。

 光の円が、畳の上を滑り、——足があった。

 人の足だ。裸足。畳の上に立っている。ただし立ち方がおかしい。足の甲が手前を向いている。つまり——膝が逆に曲がっている。人間の足が、鳥の足のように後ろ向きに折れている。

 黒崎は光を上に動かした。

 脛。膝。太腿。腰。胴体。

 人の形をしていた。人間の体格に近い。しかし細部がすべて間違っている。腕が長すぎる。膝まで届く腕。指も長い。あの壁の手形と同じ——中指が三十センチ近い。

 肌は白い。蝋のような白。しかし生きている。胸のあたりが微かに上下している。呼吸しているのだ。皮膚の下で血管が脈打つのが見える。だが血管の色がおかしい。青でも緑でもなく、黒い。墨汁のように黒い液体が、透ける皮膚の下を流れている。

 光を顔に向けた。

 顔がなかった。
 
 頭部はある。球形の、人間の頭蓋骨を一回り大きくしたような頭部。しかし顔面にあるべきもの——目、鼻、口——がない。のっぺらぼう。滑らかな白い皮膚が、頭部全体を卵の殻のように覆っている。

 いや。口はあった。頭頂部に。

 頭の天辺が裂けていた。熟れすぎた柘榴が割れるように、頭部がぱっくりと左右に開いている。割れ目の縁に歯がびっしりと並んでいた。人間の歯と同じ形。数えきれない。

 口の中は赤かった。粘膜の赤。人間の口腔と同じ、湿った赤。

 その口の中に——原田がいた。

 古参信者の原田和夫。六十三歳。退職後に妻に先立たれ、真照会に入信した男。二ヶ月前から体調を崩し、最近は儀式にも出てこなかった。その原田が、「それ」の口に上半身を呑み込まれていた。

 腰から下だけが口の外に出ている。裸足の足が畳の上に垂れ、力なくぶらぶらと揺れていた。呑み込まれているのに暴れていない。蛇が蛙を呑む映像を、黒崎は思い出した。蛙はある段階から抵抗をやめる。あれと同じだった。
湿った音が聞こえた。

 口の中で、舌が原田を舐めている。長い舌だった。口の縁から舌の先が覗くたびに見える。平たく、先端が蛇のように二つに割れている。その舌が、原田の体に巻きつき、ゆっくりと上下している。飴玉を口の中で転がすような、執拗な動き。

 原田の足が痙攣した。

 苦痛の痙攣ではなかった。足の指が開き、甲が反り、ぴんと伸びた。それは——快楽の痙攣だった。全身を舐め回されている原田の体が、口の外に出ている腰から下だけで、悦びを表現していた。

 原田の足が——力を失っていった。

 弾力が消えていく。張りのあった脹脛の肉が、見ている前で萎んでいった。中身を吸い出されるように、皮膚の下から筋肉の嵩が消えていく。骨と皮だけになった脚が、干物のようにぶら下がった。

 吸い尽くされている。舌で舐めて、中身だけを、溶かして、吸っている。

 黒崎の手からスマートフォンが落ちた。

 畳に落ちたスマートフォンが、光を天井に向けた。一瞬、天井が照らされた。天井にも染みがあった。人の形をした黒い痕が、何体も。天井に張りつき、蜘蛛のように四肢を広げて、こちらを見下ろしている——

 光が消えた。スマートフォンが液体の中に沈み、画面が黒くなった。

 闇。

 完全な闇の中で、咀嚼音だけが続いていた。

 くちゃ。くちゅ。くちゃ。
 
 そして——音が止んだ。
 
 沈黙。

 黒崎は動けなかった。暗闇の中で立ち尽くしていた。目が見えない。耳だけが過敏になっている。自分の心臓の音が聞こえる。呼吸の音が聞こえる。そして——

 足音が聞こえた。
 
 ぺた。ぺた。ぺた。

 裸足の足音。濡れた畳の上を歩く音。こちらに近づいてくる。

 黒崎は後ずさった。足が液体を踏む。ぬるりと滑る。転びそうになり、壁に手をついた。壁が——温かかった。そして濡れていた。粘液が手のひらに絡みつく。

 足音が止まった。

 目の前に、気配がある。

 黒崎の顔の、三十センチ先に、何かがいる。

 息が顔にかかった。温かい息。甘い匂い。あの甘い匂いが、至近距離から黒崎の顔を包んだ。匂いに物理的な圧力がある。顔の皮膚が匂いに押されている。

 闇の中で、何かが動いた。

 頭の上で。

 あの口が——開いている。黒崎の頭上で、左右に裂ける口が、ゆっくりと開いている。何百本もの歯が軋む音がする。

 温かいものが、黒崎の額に落ちた。
 
 涎だ。

 甘い匂いの粘液が、黒崎の額を伝い、眉を越え、目に入った。目を開けられない。粘液が目に染みる。痛みはない。ただ——温かい。


 そして黒崎は、闇の中で、——一瞬だけ、心地よいと感じた。

 その自覚が、恐怖を百倍にした。

 「——っ」

 声にならない叫びを上げ、黒崎は体ごと横に跳んだ。壁にぶつかり、その反動で廊下に転がり出た。這うようにして玄関に向かい、外に飛び出した。

 駐車場。月明かり。山根の車のヘッドライトが目に刺さった。山根が車の横に座り込んでいた。膝を抱え、体を丸めて、がたがたと震えている。

「兄貴——」

 黒崎は山根の横に膝をついた。山根の顔は蒼白だった。唇に色がない。目だけが異様に見開かれ、焦点が合っていない。

 「見た——んです。俺、あれを——あの大広間に——」
 「分かっとる」

 黒崎は自分の声が平坦であることに驚いた。体は震えている。背中のシャツが汗で張りついている。しかし声だけは平坦だった。十七年のヤクザ生活が、極限状態での声の制御を体に染み込ませていた。

 「見た。俺も見た」
 「あれは——何なんですか」
 
 黒崎は答えなかった。答えられるはずがなかった。

 夜空を見上げた。臥竜山の稜線が、星空を黒く切り取っていた。山の頂から、薄い霧が降りてきているのが見えた。額に残った粘液を手の甲で拭った。甘い匂いが、いつまでも消えなかった。
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