餓神

よん

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後ろに立つもの

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 翌日、黒崎は原田和夫の自宅を訪ねた。

 尾ノ道市の東端。古い住宅地の一角にある平屋。庭の草が伸び放題で、ポストに新聞が何日分も溜まっている。
チャイムを鳴らした。応答がない。三度鳴らした。

 ドアに鍵はかかっていなかった。

 「原田さん。真照会の黒崎です。入りますよ」

 玄関から上がると、居間に原田がいた。畳の上に正座している。テレビは点いていない。部屋の照明も消えている。カーテンの隙間から差す朝の光だけが、原田の姿を照らしていた。

 「原田さん」

 黒崎は声をかけた。原田は動かなかった。
 
 正面に回った。

 原田の目は開いていた。

 しかし——見ていなかった。瞳孔が開いたまま固定されている。光を当てても収縮しない。黒崎の顔が目の前にあるのに、焦点が合わない。壁の向こうの、ずっと遠くの、何もない場所を見ている。

 「原田さん。聞こえとるか」

 返事がない。黒崎は原田の肩に触れた。体温はある。呼吸もしている。胸が上下している。心臓も動いている。医学的には「生きている」。

 しかし中身がなかった。目に光がない。知性の光も、感情の光も、人格の光も——何一つない。硝子玉のように透明で、空っぽだ。原田の口から涎が垂れていた。止まらない涎だった。唇の端から透明な液体が糸を引き、顎を伝い、膝の上の手に落ちている。拭いても拭いても出てくる。体の中の何かが溶けて、口から流れ出しているかのように。

 涎は微かに甘い匂いがした。

 黒崎は原田の前にしゃがみ込んだ。

 「原田さん。名前は。自分の名前は分かるか」

 瞬きすらしない。

「ここがどこか分かるか。自分が誰か分かるか」

 何も。空っぽだった。人間の体に必要な機能はすべて動いている。心臓は血液を送り、肺は空気を吸い、消化器は食物を処理する。だが、それだけだ。人間を人間たらしめている何か——人格、記憶、感情、意思——そのすべてが、きれいに抜き取られている。

 喰われたのだ。昨夜見た「あれ」に。あの口の中で舐められていた、原田の膜。あれが原田の——魂とでも呼ぶべきものだったのか。黒崎は立ち上がり、部屋を出た。玄関で靴を履きながら、手が震えていた。

 怖い。認めるしかなかった。黒崎剛、三十二歳、丹生組若頭補佐は、怖かった。刃物も銃も怖くなかった男が、目の前で正座する老人の空っぽの目を見て、膝が笑っていた。人間の暴力には対処法がある。殴られたら殴り返す。刺されたら刺し返す。撃たれる前に撃つ。暴力は暴力で相殺できる。

 しかし、あれには——

 殴れない。刺せない。撃てない。人間の手が届かない場所から来て、人間の中身だけを喰っていく。車に乗り込み、ハンドルを握った。エンジンをかけない。しばらくそのまま座っていた。

 煙草に火をつけた。煙を深く吸い込み、吐いた。

 考えろ。黒崎は自分に命じた。怖いのは分かった。認めた。次はどうする。逃げるか。逃げてどうなる。教団を畳むか。畳んだところで、あれが消える保証はない。そもそも教団を畳めるのか。丹生組長が許すか。月に五百万の収入源を、「お化けが怖い」で閉じさせてくれるか。

 許すはずがない。ヤクザの論理は単純だ。金を生む仕組みは維持する。金を失う行動は許さない。恐怖は個人の問題であり、組織の判断材料にはならない。黒崎は二つの力に挟まれていた。背後に丹生組。逆らえば破門。最悪、殺される。

 目の前に——あれ。名前も正体も分からない、人の中身を喰うもの。どちらに転んでも地獄だった。煙草を揉み消し、エンジンをかけた。

 まず原田を病院に連れていく必要がある。それから——古書店。あの古書店に行かなければならない。あの祝詞のことを、店主に訊かなければならない。

 黒崎は車を発進させた。バックミラーに映った自分の顔は、蝋のように白かった。

***

 その日の午後、もう一つの事件が起きた。神城組の介入だった。

 神城組は尾ノ道市の東部を縄張りにする暴力団で、丹生組とは長年の競合関係にある。規模は丹生組の半分ほどだが、組長の神城竜二が攻撃的な性格で知られ、たびたび摩擦を起こしていた。

 真照会が金を生んでいるという噂が、神城組の耳にも入ったらしい。黒崎が施設に戻ると、駐車場に見覚えのない黒いベンツが停まっていた。ナンバーを見て舌打ちした。神城組の車だ。施設の玄関に、男が三人立っていた。スーツ姿。サングラス。筋者の出で立ち。先頭に立っている大柄な男は、神城組の若頭・真鍋だった。

 「おう、黒崎さんやないですか。繁盛しとるそうやのう」

 真鍋がサングラスの奥で笑った。

 「何の用じゃ、真鍋」
 「用て。挨拶に来ただけよ。このシマでおたくが新しい商売を始めたいう話を聞いてな。こっち側のシマに客が出入りしとるんで、ちいとばかしショバ代の相談をと思いまして」
 「ここは丹生組のシマじゃ。おたくに払うもんはない」
 「まあまあ、そう固いこと言わんと。客の何割かはうちのシマから来とるんでしょう。その分の挨拶料ぐらい——」
 「帰れ」

 黒崎は一言で切った。真鍋の笑顔が消えた。背後の二人が一歩前に出た。

 空気が張り詰めた。黒崎は動かなかった。腕を組み、真鍋の目を見据えた。ここで引いたら終わりだ。ヤクザの世界では、一度引いた者は際限なく踏み込まれる。

 「黒崎さん。あんた一人でイキがっても、組の看板に泥を塗ることになりますよ」
 「おたくこそ、丹生組のシマで好き勝手やって、神城の親父に叱られんのか」

 数秒の沈黙。真鍋が舌打ちして踵を返した。「覚えとけよ」と、捨て台詞を残してベンツに乗り込む。タイヤを鳴らして去っていった。

 黒崎は拳を解いた。手のひらに爪の跡がついていた。この件は丹生に報告する必要がある。神城組との関係は組長同士の問題だ。黒崎の一存で処理できる範囲を超えている。

 化け物と暴力団。二つの脅威に同時に対処しなければならない。黒崎は施設の中に入った。大広間の襖の前で足が止まった。昨夜の記憶がフラッシュバックする。咀嚼音。甘い匂い。額に落ちた温かい粘液。


 意を決して襖を開けた。大広間は——何事もなかった。

 畳は乾いている。粘液の痕跡もない。祭壇は昨日のまま。蝋燭が並び、御神体の真照石が鎮座している。
夢だったのか。いや、違う。黒崎のシャツの袖口に、粘液の染みが残っている。甘い匂いが微かにする。夢ではない。あれは現実だった。「それ」は昼間はいないのか。夜だけ現れるのか。あるいは——見える者にだけ見えるのか。

 分からないことだらけだった。黒崎は祭壇の前に立ち、御神体を見下ろした。黒い石。白い縞模様。角度によって目のように見える。石が——見返しているような気がした。

 気のせいだ。この台詞を使うのが、もう何度目だろう。

***

 神城組の件を報告するため、黒崎はその夜、丹生組長の自宅に向かった。

 丹生の自宅は尾ノ道市の高台にある二階建ての和風建築で、庭に松の古木がある。組長の自宅に直接乗り込むのは本来、緊急時に限られる。しかし黒崎には緊急だという判断があった。神城組を放置すれば、施設に手を出してくる可能性がある。

 応接間に通され、丹生と向かい合った。神城組の介入を報告すると、丹生の目が据わった。

 「真鍋が来たか」
 「はい。ショバ代を寄越せと」
 「舐めた真似しよるのう」

 丹生は煙草に火をつけた。紫煙の向こうで目が光っている。

 「真鍋を呼べ。話をつける」
 「親父が直接ですか」
 「直接じゃないと分からん男じゃけぇな。お前はええ。わしがやる」

 三日後の夜、丹生組の別宅——尾ノ道港近くの倉庫に、真鍋が呼び出された。黒崎は立ち会わなかった。丹生が「来るな」と言ったからだ。しかし事後の処理は黒崎の仕事だった。

 翌朝、倉庫に行くと、コンクリートの床に水が撒かれていた。水ではない。水で薄めた血だ。排水溝に向かって薄い赤の筋が伸びている。壁際にパイプ椅子が一脚倒れており、脚に結束バンドの切れ端が残っていた。

 山根が報告してきた。

 「真鍋、歯を四本持っていかれたそうです。あと左手の薬指」
 「親父自ら?」
 「親父と、木村の兄貴と。ドラム缶に水張って、沈めて上げて、沈めて上げて。それから親父がペンチで。真鍋は 途中から声も出んかったそうです」

 黒崎は倉庫の床の血を見つめた。人間の暴力。歯を折り、指を詰め、水に沈める。痛みと恐怖で人を制する。黒崎自身がやってきたことと同じだ。暴力はこの世界の共通言語であり、通貨であり、法律だ。

 しかし——大広間で見たあれは、暴力ではなかった。暴力は対象を壊す。骨を折り、肉を裂き、血を流す。痛みを与え、恐怖を植えつける。

 あれは壊さない。喰う。中身だけを、きれいに、丁寧に、喰う。

 殻は残す。原田は生きている。心臓は動いている。しかし中に誰もいない。ヤクザの暴力の方がまだましだ、と黒崎は思った。殴られれば痛い。痛いということは、自分がまだ自分だということだ。ペンチで歯を折られた真鍋は、痛みに叫び、恐怖に震えた。しかしそれでも真鍋は真鍋のままだ。

 原田は原田ではなくなった。倉庫の血を洗い流しながら、黒崎は腹の底が冷えていくのを感じた。

***

 十月に入って、信者は百名を超えた。儀式は週に二回。大広間は毎回ほぼ満席になった。山根のSNS戦略が当たり、県外からも問い合わせが来るようになった。しかし黒崎の心中は穏やかではなかった。大広間のあれ以来、施設には一人で行かないと決めた。必ず山根か絹江と一緒に行動する。夜間は施設に近づかない。儀式は昼間に行い、日没前に撤収する。

 山根もまた、あの夜から変わっていた。軽口が減った。目の下に隈が出ている。酒量が増えた。

 「兄貴。あれから——あの大広間に、夜中一人で入れますか」
 「入れん」
 「ですよね」

 山根がハイボールの缶を呷った。事務所の裏手、駐車場に並んで座っている。午後九時。夜風が潮の匂いを運んでくる。

 「俺、ホストん時にヤバい客に刺されたことあるんですよ。腹を。包丁で」
 「知っとる」
 「あん時もビビりましたけど、こんなんやなかった。刺された時は、痛えってことは分かる。血が出とるってことは分かる。自分に何が起きとるか理解できる。でもあれは——」

 山根が言葉を切った。

 「理解できんのです。頭がついていかん。見たもんが処理できん。目で見て、確かにそこにおるのに、脳味噌が 『ありえん』言うて拒否する。その——ズレが、一番きつい」

 黒崎は黙って煙草を吸った。山根の言語化は正確だった。恐怖の本質はそこにある。殴られる恐怖は「殴られるかもしれない」という予測可能性の中にある。だから対処できる。逃げるか、殴り返すか。しかし、あれに対処する方法が分からない。分からないことが、分からないこと自体が、恐怖の根幹にある。

 「山根。教団を畳みたい」
 
 口に出したのは初めてだった。山根が黒崎を見た。

 「……親父が、許しますかね」
 「許さんやろうな」
 「ですよね」

 沈黙が落ちた。臥竜山の稜線が闇に溶けている。山の頂あたりに、薄い霧が見えた。

***

 異変は儀式の中にも現れ始めた。十月の第二週。大広間での定例儀式。信者約七十名が座り、黒崎が祝詞を唱えている。三巡目に入ったとき、絹江がおかしくなった。

 いつものように舞っていた絹江の動きが止まった。両腕を広げたまま、固まっている。顔が上を向き、白目を剥いた。打ち合わせにはない動きだ。しかし信者たちは「神懸かり」の演出だと思っている。何人かが小さく声を上げた。黒崎は祝詞を唱えながら、横目で絹江を見た。

 絹江の首が後ろに折れていた。

 折れた、という表現は正確ではない。のけぞっている。しかし人間がのけぞる角度を超えている。首が九十度以上、背中の方に傾いている。天井を見ているのではない。自分の背中を見ている。頸椎がそんな角度で曲がれば、脊髄が断裂するはずだ。しかし絹江は立っている。膝も曲がっていない。

 絹江の口が開いた。そこから泡が出た。

 唾液の泡ではない。薄いピンク色の気泡だ。血の混じった泡が、唇の間からぶくぶくと溢れ出し、顎を伝い、首筋を流れ落ちた。白い着物の胸元に、ピンクの染みが広がっていく。

 絹江の胸元が濡れていた。

 汗ではない。着物の合わせ目から透明な液体が滲み出している。量が増えている。着物の白い生地が透け、下の肌が見える。肌もまた濡れている。全身の毛穴から、あるいは皮膚そのものから液体が滲み出している。

 甘い匂いが広間に充満した。

 信者たちが動揺し始めた。しかし動揺の質が、黒崎の想定と違った。恐怖ではない。興奮だ。信者の何人かが身を乗り出し、目を見開き、頬を紅潮させている。絹江の体から発散される何かに、信者たちが反応している。

 黒崎の隣に座っていた五十代の男性信者が、荒い呼吸を始めた。額に汗が浮いている。両手が膝の上で握り締められ、腰が微かに動いている。性的な興奮だった。

 反対側の女性信者も同様だった。目が潤み、唇が半開きになり、胸の上下が速くなっている。

 大広間全体が、集団的な恍惚に呑まれつつあった。

 黒崎は祝詞を止めた。

 「本日の儀式はここまでです」

 声を張った。教祖の声。冷静で、厳かで、有無を言わせない声。信者たちが我に返った。何人かが自分の状態に気づき、気まずそうに目を伏せた。

 山根が手際よく信者を退出させた。黒崎は絹江のもとに駆け寄った。絹江は床に崩れ落ちていた。首は元の角度に戻っている。着物は汗のように濡れ、体に張りついている。

 「絹江さん。大丈夫か」

 絹江の目がゆっくり開いた。焦点が合うまでに数秒かかった。黒崎を見上げた絹江の顔に、恐怖はなかった。

 恍惚があった。性交の直後に似た、弛緩した表情。瞳孔が開き、唇が緩み、頬が上気している。

 「——気持ちよかった」

 絹江が呟いた。

 「何が入ったんか分からん。でも——あたしの中に何かが来て、あたしの体を使って、踊った。あたしは見ていただけ。体の中から、自分を見ていた。それが——ああ」

 絹江が自分の体を抱いた。両腕で自分の肩を掴み、身を縮めた。しかしそれは恐怖の仕草ではなかった。離したくない、という仕草だった。

 「もう一回。もう一回、あれを——」
 「絹江さん」

 黒崎の声が鋭くなった。

 「今日はもう帰れ。体を休めろ」

 絹江の目が、一瞬、黒崎を睨んだ。その目には、怒りがあった。快楽を中断された者の、生理的な怒り。しかしすぐに消え、絹江はゆっくり立ち上がった。

 「……ごめんなさい。ちょっと、おかしくなっとったわ」

 絹江が帰った後、黒崎は大広間の窓を全開にした。甘い匂いを換気で追い出す。冷たい秋風が吹き込み、蝋燭の蝋が固まっていく。

 蝋はまた、赤黒く変色していた。

***

 鏡を見たのは、その夜の風呂上がりだった。自宅のマンション。浴室から出て、洗面台の鏡に向かった。
タオルで顔を拭いている途中で、手が止まった。

 鏡の中の自分の口が、動いていた。自分は口を閉じている。タオルを顔に当てている。しかし鏡の中の黒崎は——口を開けていた。

 ゆっくりと。顎が下がっていく。普通に口を開ける角度を超えて、さらに下がっていく。顎が胸につくほど開いている。人間の顔ではなくなっていた。顎から上と顎から下が、蝶番の壊れた扉のように分離して、口腔の暗闇だけが顔の大半を占めている。

 暗闇が——こちらを見ていた。目ではない。口の暗闇そのものが、意思を持ってこちらを見ている。黒崎は自分の口の中から覗き返されていた。

 鏡の中の黒崎の目が、本物の黒崎を見た。同じ顔だ。自分の顔だ。しかし目の奥にあるものが違う。鏡の中の目には——飢えがあった。

 黒崎は鏡を叩き割った。拳が鏡面にめり込み、破片が飛び散った。手の甲から血が出た。赤い。温かい。人間の血だ。洗面台に散らばった鏡の破片に、自分の顔が幾つも映っている。どの破片の中でも、口は閉じていた。
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