餓神

よん

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空っぽの人

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 十月の第三週。折口達夫が儀式を欠席した。

 折口は教団の中でも熱心な信者だった。五十五歳。元高校の国語教師。退職後に妻をがんで亡くし、鬱を患って教団に入信した。温厚で知的な人物で、教義の矛盾に気づいていそうな鋭さがあったが、口にはしなかった。居場所がほしかったのだ。

 二回続けて欠席した折口を心配し、黒崎は山根に様子を見に行かせた。

 山根から電話が入ったのは、訪問から二十分後だった。


 「兄貴。折口さん——おかしいです」
 「おかしいとは」
 「原田さんとは違います。全部が空っぽになったんやない。半分だけ——半分だけ空っぽなんです」

 黒崎は車を出した。

 折口の自宅は、尾ノ道市の南端にある集合住宅の三階だった。玄関のドアを山根が開けた。部屋の中は薄暗い。カーテンが閉め切られ、照明が消えている。テレビだけが点いていた。砂嵐のような画面がちらちらと明滅し、折口の姿を断続的に照らしている。

 折口はソファに座っていた。

 黒崎は数歩近づいて、足を止めた。

 折口の体の右半分と左半分が、別のものだった。左半分は折口達夫だ。左目がこちらを向き、焦点が合い、黒崎を認識している。左手がソファの肘掛けを握り、指先が微かに震えている。左の口角が引き攣り、何か言おうとしている。

 右半分が違う。

 右目は開いている。開いているが、見ていない。原田と同じ——瞳孔が開ききった、光のない目だ。右手は膝の上に投げ出され、指が開いている。力が入っていない。人形の手だ。右の口角は弛緩し、涎が垂れていた。

 顔の中心線——鼻梁を境にして、左が生きている折口で、右が空っぽの折口だった。

 「折口さん」

 黒崎が声をかけた。折口の左目が黒崎を捉えた。

 「黒崎……さん」

 声が出た。しかし不自然だった。左側の唇だけが動き、右側は弛緩したまま動かない。片側だけで喋っているために、言葉が歪んでいる。

 「右半分が……ない。右半分が、朝から、ない」
 「ないとは——」
 「感覚がないんです。右手も右足も、動かん。でもそれだけやない。右側が——冷たい。左半分はこうして汗もかいとるのに、右半分は冷たい。触ってみてください」

 黒崎は折口の右手に触れた。冷たかった。体温がない。触れた指先の感覚では、死体の手に近い。しかし折口の右腕には脈がある。手首の内側に触れると、脈拍を感じた。血は流れている。なのに冷たい。

 「もう一つ」

 折口の左目が、恐怖で見開かれた。

 「右目が——勝手に動くんです。自分では止められん」

 黒崎は折口の顔を見た。確かに、右目だけが異様な動きをしていた。左目は黒崎を見ているのに、右目は部屋の中を忙しなく追っている。壁から天井へ、天井から床へ。何もいない空間を、獲物を追う猛禽のような速さで視線が走る。

 「右目が追うとるもんが——おるんです。透明な、薄い、人の形をしたものが。右目だけに見える。左目を閉じたら——何十もおる。この部屋に」

 折口が唾を飲み込んだ。喉仏の左側だけが動いた。

 突如、折口の右手が動いた。黒崎の手首を掴んだ。空っぽのはずの右手が——黒崎の手首を、握っていた。力が強い。折口の体格に見合わない力だ。骨が軋むほどの圧力で、黒崎の手首を締め上げている。

 「折口さん——」
 「俺やない」

 折口の左目が恐怖で震えていた。

 「俺やない。右手は俺やない。俺は離したい。離そうとしとる。でも右手が——勝手に——」

 折口の右手が、黒崎の手首を掴んだまま、持ち上げた。黒崎の手を、折口自身の顔に近づけている。折口の右半分の口が開いた。

 顎が外れるほど大きく。人間の口がそこまで開くはずがない。開いた口が、犬が餌に飛びつくように、黒崎の指に向かって突き出された。歯がカチンと鳴った。空を噛んだ。もう一度。カチン。条件反射のように、繰り返し噛みついてくる。

 黒崎は左手で折口の右手首を掴み、引き剥がした。指が一本ずつ外れていく。力が必要だった。折口の右手は、離 すまいとしがみついている。最後の一本が外れたとき、折口の右手の爪が黒崎の手首の皮膚を引っ掻いた。三本の赤い筋が走った。

 折口が——泣いていた。左目から涙を流していた。右目は乾いたまま、何も映さず、虚空を見ている。顔の半分が泣き、半分が空っぽだった。

 「助けてください。右半分が——俺を、喰っとるんです。右から左へ、少しずつ、浸食しとる。今は右半分じゃが、明日には——もっと——」

 黒崎は折口の左肩に手を置いた。左肩は温かかった。

 「病院に行こう。脳の検査を——」
 「行きました。昨日。MRIも撮った。何もない言われました。脳に異常なし。神経にも異常なし。医者は『心因性でしょう』言うて、薬を増やしただけです」

 折口の左目が、黒崎を見据えた。

 「あんたは知っとるんでしょう。これが何なのか。教団で何が起きとるのか」

 黒崎は答えなかった。折口の右半分の口が、閉じたまま——笑った。右の口角だけが、ゆっくりと吊り上がった。空っぽの目はそのままに、右半分だけが笑っている。折口の意思ではない笑みだった。

***

 施設に戻った黒崎は、初めて祝詞の意味を調べようとした。事務室のデスクに戸田書房で買った「臥竜山縁起」を広げ、祝詞が記されたページを開いた。祝詞の前後に解説がないか、読み返す。

 祝詞の直前に、小さな文字で注記があった。買ったときには読み飛ばしていた一文だ。

 「此ノ詞ハ、臥竜山ニ鎮座マシマス神ヲ招クモノナリ。決シテ濫リニ唱フベカラズ」

 招く。浄化ではなく、祓いでもなく——招く。

 黒崎は本を閉じた。手が震えていた。この祝詞は何かを招くための詞だ。教団の儀式で、信者何十人もが繰り返し唱えているこの祝詞は——何かを、招いている。

 あれを。

 黒崎は立ち上がり、施設を出た。車に乗り、臥竜山の麓に向かった。戸田書房に行かなければならない。
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