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古書店主の警告
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戸田書房の引き戸は重かった。午後四時。傾いた日差しが店内の埃を金色に照らしている。本棚の谷間を通って奥に進むと、カウンターの向こうに店主が座っていた。老眼鏡をかけ、何かの古書を読んでいる。
「いらっしゃい」顔を上げた店主が、黒崎を見て目を細めた。
「ああ、あんたか。この前の——宗教関係の本を買うたお客さん」
黒崎はカウンターの前に立った。「臥竜山縁起」を取り出し、店主の前に置いた。
「この本に載っとる祝詞のことを聞きたい」
店主の表情が変わった。老眼鏡の奥の目が、鋭くなった。黒崎を見る目つきが、古書店の主人のそれではなくなった。何かを——恐れている目だ。
「もしかしてあんた、あれを——人前で唱えたんか」
黒崎は答えた。
「唱えた。何十人もの前で。何十回も」
店主が椅子から立ち上がった。腰が曲がっているが、動きに力がある。店の入口まで歩いていき、引き戸の鍵をかけ、「準備中」の札を掛けた。
「座りなさい」
カウンターの横に丸椅子を引き出し、黒崎に勧めた。自分も座り直し、黒崎と向かい合った。
「あの祝詞は——招請の詞じゃ。臥竜山に封じられたものを、呼び出すための」
「封じられたもの。何が封じられとるんですか」
店主は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
「この町の人間は、もう誰も知らん。わしと、わしの女房だけが知っとった。女房は——もう語れんがの」
店主が立ち上がり、店の奥の書庫に消えた。数分後、桐の箱を持って戻ってきた。箱の蓋を開けると、中に古い写真と、黄ばんだ和紙の束が入っていた。
店主はまず写真を取り出した。モノクロームの、明治期の写真だ。小さな集落が写っている。木造の家屋が十数軒。その前に人が並んでいる。十五、六人。男女。大人。子供はいない。
全員が同じ方向を向いて座っていた。正座している。整然と。まるで集合写真のために並んだかのように。しかし表情がない。目は開いているが、光がない。口から白い筋が垂れている——涎だ。髪がすべて白い。子供もいない集落で、全員が白髪。
写真の右端に、黒い影が写り込んでいた。人の形をしているが、輪郭がぶれている。長い腕。長い指。頭部に顔がない。
「明治二十九年。臥竜山の北麓にあった集落——折居集落じゃ。一夜で滅びた」
「滅びた」
「誰も死んどりゃせん。ただ全員——空になった。生きとるが、中身がない。飯を口に入れてやれば飲み込む。水を飲ませれば飲む。しかし喋らん。動かん。自分が誰かも分からん。そのまま何十年も生きた者もおると記録にある」
黒崎は写真を見つめた。十五人の空っぽの人間が、同じ方向を向いて座っている。その方向は——臥竜山の頂だ。
「何が——あれは、何なんですか」
店主が和紙の束を取り出した。崩し字の筆記体で書かれた文書だ。
「これは江戸期の修験者の記録じゃ。臥竜山には古くから行場があってな、山伏たちが修行をしとった。しかしある時期から山に入る者が減った。山に入った者が戻ってこんようになったからじゃ。戻ってきた者も——空になっておった」
「山に何がおるんですか」
店主は黒崎の目を見た。
「名前があるのかどうかも分からん。この記録では——餓えた神、と書いてある。餓神」
「餓神」
「人の信仰を喰らうもの。祈りを喰う。願いを喰う。人間の心の中にある——何かを求める気持ち、縋りたい気持ち、信じたい気持ち。そういう渇望を、喰う。喰えば喰うほど強くなる」
黒崎は拳を握りしめた。信仰を喰う。
教団で、信者何十人もが祝詞を唱えている。信じている。縋っている。救いを求めている。その信仰が——餌になっている。
「中世の修験者たちが命がけで封じた。山中の磐座に、封印の術を施した。封印の条件は二つ。一つは、磐座を侵さぬこと。もう一つは——あの祝詞を唱えぬこと」
「唱えた」
「唱えたな」
「何十人もで。何十回も」
店主が目を閉じた。
「封印が綻びとる。綻びどころか——もう半分以上解けとるやろうな。あんたの教団の信者が増えれば増えるほど、あれに注がれる信仰の量が増える。信仰が増えれば、あれは太る。太れば封印を押し破る力が強くなる」
「止められるんですか」
「祝詞を止めるだけでは遅い。一度綻んだ封印は、勝手には閉じん。封じ直すには——山に登って、磐座で逆の詞を唱えるしかない」
「逆の詞」
「招請の詞が呼ぶための詞なら、逆の詞は還すための詞じゃ。この記録に書いてある」
店主が和紙の束をめくり、あるページを指差した。祝詞とは異なる文字列が記されている。音の並びが祝詞の逆順になっている——鏡像のような構造だ。
「ただし」
店主の声が低くなった。
「封印には代償がいる。中世の修験者は十二人で封じた。そのうち八人が空になった。残りの四人は——融けた」
「融けた?」
「この記録の原文を読むぞ。『四名ハ互イノ肉体ガ境ヲ失イ、溶ケ合ヒテ一ツノ肉塊ト成ル。肉塊ハ生キテオリ、四ツノ口デ同時ニ叫ビ、八ツノ目デ同時ニ泣ク。ソレハ七日七夜生キ続ケ、最後ニ自ラノ肉ヲ喰ヒテ死ス』」
黒崎は言葉を失った。
四人の人間が溶け合い、一つの肉塊になる。生きたまま。四つの口で叫び、八つの目で泣きながら、最後に自分自身の肉を喰って死ぬ。
「もう一つ。あんたに言うておかんならんことがある」
店主が黒崎を見た。
「餓神に喰われることは——苦しみだけではない」
「……どういう意味ですか」
「喰われた者は、悦んどるんじゃ。あれに喰われる瞬間、人間は生涯で最も深い快楽を感じるらしい。この記録にもある。『餓神ニ食ハルル者、至福ノ面持チニテ笑ミ、自ラ口ヲ開キテ喰ハレンコトヲ乞フ』。自分から口を開けて、喰ってくれと頼む」
黒崎は大広間でのことを思い出した。額に落ちた粘液。甘い匂い。そして一瞬——心地よいと感じた、あの感覚。
「だから逃げられん。痛みなら人は耐える。苦しみなら逃げられる。しかし快楽からは——逃げられん」
黒崎は店主に訊いた。
「あんた、なぜそこまで詳しいんじゃ。この記録を持っとるだけやない。あんた自身が——何か経験しとるんやないか」
店主は長い沈黙の後、口を開いた。
「五十年前のことじゃ」
店主は二十五歳だった。郷土史を研究する大学院生で、臥竜山の祭祀について論文を書いていた。妻の時江と二人で山に入り、文献にあった磐座を探した。
「見つけた。山の頂近く、杉林の中に、人の背丈ほどの岩がある。表面に梵字が刻まれとる。あれが磐座じゃ」
「磐座に触れたのか」
「触れた。拓本を取ろうとしてな。和紙を当て、墨を塗った。その瞬間——地面が脈打った」
「脈打った」
「心臓じゃ。土の下で、何かの心臓が動いとる。どくん、どくんと。靴底を通じて振動が伝わってきた。山全体が一つの生き物で、磐座がその心臓なんじゃと——そう感じた」
「それから——」
「振り向いたら、時江が立っとった。五メートルほど後ろに。口を開けて、突っ立っとる。『おい、どうした』言うて声をかけた。返事がない。近づいた。時江の口が開いとる。普通やない開き方じゃ。顎が外れとるんやないかいうほど開いとる。喉の奥が見えた」
店主の声が震えていた。五十年経っても、この記憶は戸田の喉を締める。
「喉の奥に——歯が並んどった。人間の口腔の、もっと奥に、もう一つ口がある。歯が並んどる。小さい歯が、びっしりと」
黒崎は鏡の中の自分を思い出した。同じだ。
「時江の体が——反った。背中が地面につくほど、のけぞった。立ったまま。膝は曲がっとらん。骨が軋む音がした。人間の背骨がそんな角度になったら折れる。しかし折れん。ぐにゃりと——飴みたいに曲がった」
「時江さんの全身から汗が噴き出した。汗やない。粘液じゃ。甘い匂いの粘液が、毛穴という毛穴から溢れ出して、衣服を濡らした。髪が粘液で顔に張りつき、目だけがこちらを見とる。しかしもう時江の目やなかった。別のものが、時江の目を使って、わしを見とった」
「時江の口から黒い霧が噴き出した。霧の中に——何かがおった。小さい人の形をしたものが、何十体も。霧の中を泳いどる。かつて喰われた者の残骸なんじゃろう。残骸がわしの方に手を伸ばしてきた」
「山を転がるようにして逃げた。時江を担いで。しかし山を下りたとき、時江は——もう時江やなかった」
「空っぽですか」
「空っぽじゃ」
店主が眼鏡を外し、目頭を押さえた。指が震えている。
「五十年。時江は今も病院のベッドにおる。退職金も年金も、古書店の売上も、すべてあの病室に注ぎ込んできた。心臓は動いとる。飯は管から入る。しかし中に——誰もおらん。五十年間、一度も目が合ったことがない。時江の目はずっと、同じ方向を見とる」
「臥竜山か」
「臥竜山じゃ。あれのおる方を、ずっと見とる」
店主が鼻をすすった。
「あんたに言いたかったんじゃ。あの本を買うていったとき、あの祝詞のことを。しかしあんたは先に帰ってしまった。わしは——追いかけんかった。追いかけて、説明する勇気がなかった。五十年間、この話を誰にもしとらんかった。怖かったんじゃ。口にすることが。口にすれば——あれがまた、近づいてくるような気がしてな」
黒崎は何も言わなかった。店主を責める気にはなれなかった。
怖かったのは黒崎も同じだ。認めたくなかった。蝋燭の変色も、手形も、甘い匂いも、すべてを「気のせい」で片づけようとした。見なかったことにしたかった。合理的な説明をつけて、知らない振りをして、金を稼ぎ続けたかった。
つまり黒崎も店主も、同じだ。怖いものから目を逸らした。その結果が、原田であり、折口であり——教団の信者百人の上に、今この瞬間もぶら下がっている脅威だ。
「店主さん。逆の詞を、写させてくれ」
「ああ。持っていけ」
店主が和紙の束から一枚を抜き出した。逆の詞が記されたページだ。
「ただし——」
店主が黒崎の手を掴んだ。老人の手は枯れ枝のように細いが、力があった。
「磐座に行くには、あれの領域に入らにゃならん。山の中は、もうあれの体の一部じゃ。山に入った者は、あれに喰われる。十二人の修験者のうち、無事だったのは——ゼロじゃ。全員が何かを失った。全員が」
黒崎は店主の手を見た。枯れた手の甲。浮き出た血管。
「それと——もう一つ。封じるためには、信仰を断たんといかん。あれに注がれとる祈りを止める。信者が祈り続ける限り、あれは力を持ち続ける。逆の詞だけでは足りん」
「信者を——止める」
「百人の信仰を、止める。あんたにできるか」
黒崎は答えなかった。信者を止める。百人の信仰を断つ。
そのためには——真実を言わなければならない。自分がヤクザであること。教団がインチキであること。すべてが嘘であること。
それは丹生組への反逆を意味する。
戸田書房を出た。夕暮れの空に、臥竜山の稜線が黒く切り取られていた。山の頂に霧が掛かっている。薄い白。夕焼けの赤を吸って、霧が微かに桃色に染まっていた。
携帯が鳴った。山根からだ。
「兄貴。折口さんが——」
「どうした」
「右半身だけやなくなっとります。左手も動かんようになった。それと——折口さんの右手が、自分の左腕を掻きむしっとります。爪で。血が出とる。左半分の折口さんが泣いとります。やめてくれ言うて。でも右手が止まらん」
黒崎は車のキーを握りしめた。時間がない。
「いらっしゃい」顔を上げた店主が、黒崎を見て目を細めた。
「ああ、あんたか。この前の——宗教関係の本を買うたお客さん」
黒崎はカウンターの前に立った。「臥竜山縁起」を取り出し、店主の前に置いた。
「この本に載っとる祝詞のことを聞きたい」
店主の表情が変わった。老眼鏡の奥の目が、鋭くなった。黒崎を見る目つきが、古書店の主人のそれではなくなった。何かを——恐れている目だ。
「もしかしてあんた、あれを——人前で唱えたんか」
黒崎は答えた。
「唱えた。何十人もの前で。何十回も」
店主が椅子から立ち上がった。腰が曲がっているが、動きに力がある。店の入口まで歩いていき、引き戸の鍵をかけ、「準備中」の札を掛けた。
「座りなさい」
カウンターの横に丸椅子を引き出し、黒崎に勧めた。自分も座り直し、黒崎と向かい合った。
「あの祝詞は——招請の詞じゃ。臥竜山に封じられたものを、呼び出すための」
「封じられたもの。何が封じられとるんですか」
店主は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
「この町の人間は、もう誰も知らん。わしと、わしの女房だけが知っとった。女房は——もう語れんがの」
店主が立ち上がり、店の奥の書庫に消えた。数分後、桐の箱を持って戻ってきた。箱の蓋を開けると、中に古い写真と、黄ばんだ和紙の束が入っていた。
店主はまず写真を取り出した。モノクロームの、明治期の写真だ。小さな集落が写っている。木造の家屋が十数軒。その前に人が並んでいる。十五、六人。男女。大人。子供はいない。
全員が同じ方向を向いて座っていた。正座している。整然と。まるで集合写真のために並んだかのように。しかし表情がない。目は開いているが、光がない。口から白い筋が垂れている——涎だ。髪がすべて白い。子供もいない集落で、全員が白髪。
写真の右端に、黒い影が写り込んでいた。人の形をしているが、輪郭がぶれている。長い腕。長い指。頭部に顔がない。
「明治二十九年。臥竜山の北麓にあった集落——折居集落じゃ。一夜で滅びた」
「滅びた」
「誰も死んどりゃせん。ただ全員——空になった。生きとるが、中身がない。飯を口に入れてやれば飲み込む。水を飲ませれば飲む。しかし喋らん。動かん。自分が誰かも分からん。そのまま何十年も生きた者もおると記録にある」
黒崎は写真を見つめた。十五人の空っぽの人間が、同じ方向を向いて座っている。その方向は——臥竜山の頂だ。
「何が——あれは、何なんですか」
店主が和紙の束を取り出した。崩し字の筆記体で書かれた文書だ。
「これは江戸期の修験者の記録じゃ。臥竜山には古くから行場があってな、山伏たちが修行をしとった。しかしある時期から山に入る者が減った。山に入った者が戻ってこんようになったからじゃ。戻ってきた者も——空になっておった」
「山に何がおるんですか」
店主は黒崎の目を見た。
「名前があるのかどうかも分からん。この記録では——餓えた神、と書いてある。餓神」
「餓神」
「人の信仰を喰らうもの。祈りを喰う。願いを喰う。人間の心の中にある——何かを求める気持ち、縋りたい気持ち、信じたい気持ち。そういう渇望を、喰う。喰えば喰うほど強くなる」
黒崎は拳を握りしめた。信仰を喰う。
教団で、信者何十人もが祝詞を唱えている。信じている。縋っている。救いを求めている。その信仰が——餌になっている。
「中世の修験者たちが命がけで封じた。山中の磐座に、封印の術を施した。封印の条件は二つ。一つは、磐座を侵さぬこと。もう一つは——あの祝詞を唱えぬこと」
「唱えた」
「唱えたな」
「何十人もで。何十回も」
店主が目を閉じた。
「封印が綻びとる。綻びどころか——もう半分以上解けとるやろうな。あんたの教団の信者が増えれば増えるほど、あれに注がれる信仰の量が増える。信仰が増えれば、あれは太る。太れば封印を押し破る力が強くなる」
「止められるんですか」
「祝詞を止めるだけでは遅い。一度綻んだ封印は、勝手には閉じん。封じ直すには——山に登って、磐座で逆の詞を唱えるしかない」
「逆の詞」
「招請の詞が呼ぶための詞なら、逆の詞は還すための詞じゃ。この記録に書いてある」
店主が和紙の束をめくり、あるページを指差した。祝詞とは異なる文字列が記されている。音の並びが祝詞の逆順になっている——鏡像のような構造だ。
「ただし」
店主の声が低くなった。
「封印には代償がいる。中世の修験者は十二人で封じた。そのうち八人が空になった。残りの四人は——融けた」
「融けた?」
「この記録の原文を読むぞ。『四名ハ互イノ肉体ガ境ヲ失イ、溶ケ合ヒテ一ツノ肉塊ト成ル。肉塊ハ生キテオリ、四ツノ口デ同時ニ叫ビ、八ツノ目デ同時ニ泣ク。ソレハ七日七夜生キ続ケ、最後ニ自ラノ肉ヲ喰ヒテ死ス』」
黒崎は言葉を失った。
四人の人間が溶け合い、一つの肉塊になる。生きたまま。四つの口で叫び、八つの目で泣きながら、最後に自分自身の肉を喰って死ぬ。
「もう一つ。あんたに言うておかんならんことがある」
店主が黒崎を見た。
「餓神に喰われることは——苦しみだけではない」
「……どういう意味ですか」
「喰われた者は、悦んどるんじゃ。あれに喰われる瞬間、人間は生涯で最も深い快楽を感じるらしい。この記録にもある。『餓神ニ食ハルル者、至福ノ面持チニテ笑ミ、自ラ口ヲ開キテ喰ハレンコトヲ乞フ』。自分から口を開けて、喰ってくれと頼む」
黒崎は大広間でのことを思い出した。額に落ちた粘液。甘い匂い。そして一瞬——心地よいと感じた、あの感覚。
「だから逃げられん。痛みなら人は耐える。苦しみなら逃げられる。しかし快楽からは——逃げられん」
黒崎は店主に訊いた。
「あんた、なぜそこまで詳しいんじゃ。この記録を持っとるだけやない。あんた自身が——何か経験しとるんやないか」
店主は長い沈黙の後、口を開いた。
「五十年前のことじゃ」
店主は二十五歳だった。郷土史を研究する大学院生で、臥竜山の祭祀について論文を書いていた。妻の時江と二人で山に入り、文献にあった磐座を探した。
「見つけた。山の頂近く、杉林の中に、人の背丈ほどの岩がある。表面に梵字が刻まれとる。あれが磐座じゃ」
「磐座に触れたのか」
「触れた。拓本を取ろうとしてな。和紙を当て、墨を塗った。その瞬間——地面が脈打った」
「脈打った」
「心臓じゃ。土の下で、何かの心臓が動いとる。どくん、どくんと。靴底を通じて振動が伝わってきた。山全体が一つの生き物で、磐座がその心臓なんじゃと——そう感じた」
「それから——」
「振り向いたら、時江が立っとった。五メートルほど後ろに。口を開けて、突っ立っとる。『おい、どうした』言うて声をかけた。返事がない。近づいた。時江の口が開いとる。普通やない開き方じゃ。顎が外れとるんやないかいうほど開いとる。喉の奥が見えた」
店主の声が震えていた。五十年経っても、この記憶は戸田の喉を締める。
「喉の奥に——歯が並んどった。人間の口腔の、もっと奥に、もう一つ口がある。歯が並んどる。小さい歯が、びっしりと」
黒崎は鏡の中の自分を思い出した。同じだ。
「時江の体が——反った。背中が地面につくほど、のけぞった。立ったまま。膝は曲がっとらん。骨が軋む音がした。人間の背骨がそんな角度になったら折れる。しかし折れん。ぐにゃりと——飴みたいに曲がった」
「時江さんの全身から汗が噴き出した。汗やない。粘液じゃ。甘い匂いの粘液が、毛穴という毛穴から溢れ出して、衣服を濡らした。髪が粘液で顔に張りつき、目だけがこちらを見とる。しかしもう時江の目やなかった。別のものが、時江の目を使って、わしを見とった」
「時江の口から黒い霧が噴き出した。霧の中に——何かがおった。小さい人の形をしたものが、何十体も。霧の中を泳いどる。かつて喰われた者の残骸なんじゃろう。残骸がわしの方に手を伸ばしてきた」
「山を転がるようにして逃げた。時江を担いで。しかし山を下りたとき、時江は——もう時江やなかった」
「空っぽですか」
「空っぽじゃ」
店主が眼鏡を外し、目頭を押さえた。指が震えている。
「五十年。時江は今も病院のベッドにおる。退職金も年金も、古書店の売上も、すべてあの病室に注ぎ込んできた。心臓は動いとる。飯は管から入る。しかし中に——誰もおらん。五十年間、一度も目が合ったことがない。時江の目はずっと、同じ方向を見とる」
「臥竜山か」
「臥竜山じゃ。あれのおる方を、ずっと見とる」
店主が鼻をすすった。
「あんたに言いたかったんじゃ。あの本を買うていったとき、あの祝詞のことを。しかしあんたは先に帰ってしまった。わしは——追いかけんかった。追いかけて、説明する勇気がなかった。五十年間、この話を誰にもしとらんかった。怖かったんじゃ。口にすることが。口にすれば——あれがまた、近づいてくるような気がしてな」
黒崎は何も言わなかった。店主を責める気にはなれなかった。
怖かったのは黒崎も同じだ。認めたくなかった。蝋燭の変色も、手形も、甘い匂いも、すべてを「気のせい」で片づけようとした。見なかったことにしたかった。合理的な説明をつけて、知らない振りをして、金を稼ぎ続けたかった。
つまり黒崎も店主も、同じだ。怖いものから目を逸らした。その結果が、原田であり、折口であり——教団の信者百人の上に、今この瞬間もぶら下がっている脅威だ。
「店主さん。逆の詞を、写させてくれ」
「ああ。持っていけ」
店主が和紙の束から一枚を抜き出した。逆の詞が記されたページだ。
「ただし——」
店主が黒崎の手を掴んだ。老人の手は枯れ枝のように細いが、力があった。
「磐座に行くには、あれの領域に入らにゃならん。山の中は、もうあれの体の一部じゃ。山に入った者は、あれに喰われる。十二人の修験者のうち、無事だったのは——ゼロじゃ。全員が何かを失った。全員が」
黒崎は店主の手を見た。枯れた手の甲。浮き出た血管。
「それと——もう一つ。封じるためには、信仰を断たんといかん。あれに注がれとる祈りを止める。信者が祈り続ける限り、あれは力を持ち続ける。逆の詞だけでは足りん」
「信者を——止める」
「百人の信仰を、止める。あんたにできるか」
黒崎は答えなかった。信者を止める。百人の信仰を断つ。
そのためには——真実を言わなければならない。自分がヤクザであること。教団がインチキであること。すべてが嘘であること。
それは丹生組への反逆を意味する。
戸田書房を出た。夕暮れの空に、臥竜山の稜線が黒く切り取られていた。山の頂に霧が掛かっている。薄い白。夕焼けの赤を吸って、霧が微かに桃色に染まっていた。
携帯が鳴った。山根からだ。
「兄貴。折口さんが——」
「どうした」
「右半身だけやなくなっとります。左手も動かんようになった。それと——折口さんの右手が、自分の左腕を掻きむしっとります。爪で。血が出とる。左半分の折口さんが泣いとります。やめてくれ言うて。でも右手が止まらん」
黒崎は車のキーを握りしめた。時間がない。
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