餓神

よん

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山根の最期

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 山根太一が壊れ始めたのは、十月の最終週だった。

 最初に黒崎が気づいたのは、山根の首の後ろだ。事務所で書類を整理しているとき、山根が前屈みになり、襟元がずれた。首と背中の境目に、瘤があった。

 親指の先ほどの膨らみ。皮膚の色は周囲と変わらない。虫刺されか、粉瘤か。

 「山根。首の後ろ、何かできとるぞ」
 「え? ああ、これ。三日前くらいからあるんですよ。痒いんです、妙に」

 山根が後頭部に手をやり、瘤に触れた。指で押す。

 「硬いな。中に——何か入っとるみたいな」
 「皮膚科行け」
 「ですね」

 山根は行かなかった。翌日も、その翌日も。忙しかったのもあるが、それだけではない。山根の行動に、あの大広間の夜以来、鈍さが出ていた。判断が遅い。反応が重い。酒量が増え、目の下の隈が取れない。

 三日後。瘤が拳大になっていた。

 事務所のソファで眠り込んでいた山根を、黒崎が揺すって起こした。山根が首を振ると、襟が開き、瘤が見えた。明らかに大きくなっている。

 「山根。それ——でかくなっとるぞ」

 山根が自分の首の後ろに手をやった。触れた瞬間、顔をしかめた。

 「……動いとる」
 「何が」
 「中で。中で何か動いとる」

 黒崎は山根の背後に回り、瘤を見た。皮膚の下で、何かが蠢いていた。瘤の表面がもこもこと波打っている。中にいるものが体勢を変えているのだ。

 「病院に連れていく。立て」
 「待ってください兄貴。痒い。すげえ痒い——」

 山根の右手が首の後ろに伸びた。爪を立てて掻き始めた。

 「やめろ」
 「痒いんです、中から——中から痒い——」

 山根の爪が皮膚を引っ掻いた。赤い筋が走る。もう一度。さらに強く。皮膚が裂けた。

 瘤が——開いた。山根の爪が裂いた皮膚の下から、赤い肉が覗いた。脂肪の層を越えて、筋肉組織が見える。その中に——

 口があった。

 首の肉の中に、五センチほどの口が開いている。唇はない。裂けた肉の縁に、小さな白い歯がぎっしり並んでいた。赤ん坊の歯に似ている。口の中は濡れていて、人間の口腔と同じ粘膜の赤だった。

 口が——開閉した。

 ゆっくりと。呼吸するように。裂け目が広がり、粘膜が伸び、歯が露出し、また閉じる。口の中から粘液が滲み出し、山根の首筋を伝って襟を濡らした。粘液は甘い匂いがした。

 山根が悲鳴を上げた。自分の首の後ろに触れた指が、粘液を持ち帰ってきたのだ。指先にぬるりとした温かいものがついている。目の前に持ってきて——見た。透明な粘液。糸を引く。甘い匂い。

 「何じゃこれ——何じゃこれ兄貴——」

 山根の声が裏返った。百八十センチの元ホストが、膝から崩れ、床に座り込んだ。黒崎は動けなかった。山根の首の後ろで、口が、開閉を続けている。


 病院には行けなかった。行けるはずがなかった。首の後ろに口が生えた人間を、病院に連れていって何と説明する。

 黒崎は山根を自宅のアパートに連れ帰り、ベッドに寝かせた。山根の体温が上がっていた。額に触れると熱い。三十九度は超えている。全身から汗が噴き出し、シーツを濡らしている。汗が甘い匂いを放っていた。

 「兄貴。怖いんです」

 山根がベッドの上で膝を抱えていた。

 「怖い。でも——変なんです。体が。怖いのに体が——気持ちいいんです。首の後ろが。あの口が動くたびに、背骨に電気が走るみたいな——それが気持ちいい」

 山根の目に涙が溜まっていた。

 「気持ちええのが、一番怖い」

 黒崎は山根の手を握った。ヤクザが男の手を握ることなど、普段ならありえない。しかしそんなことを気にしている場合ではなかった。

 「寝ろ。明日、戸田のところに行く。あの爺さんなら何か分かるかもしれん」

 山根は頷いた。目を閉じた。数分で寝息を立て始めた。黒崎はベッドの横の椅子に座り、山根を見守った。
山根の首の後ろの口が、寝息に合わせて開閉していた。吐く息のたびに開き、吸う息のたびに閉じる。

 そして——口が、何かを呟いた。声は小さい。黒崎は耳を近づけた。

 祝詞だった。

 あの祝詞を、首の後ろの口が唱えていた。山根自身の口は閉じて寝息を立てているのに、首の口が別個に動き、祝詞を唱えている。声は山根の声ではなかった。もっと低い。もっと古い。洞窟の底から響いてくるような、反響を含んだ声だった。

 翌日。黒崎は朝一番で山根のアパートに向かった。ドアの前に立つと、中から匂いがした。甘い匂い。ドアの隙間から漏れ出している。濃い。今まで嗅いだどの場面よりも濃い。

 鍵を開け、ドアを押した。湿気が顔にぶつかった。部屋の中が、異様に湿っていた。梅雨時の洗面所のような蒸し暑さ。壁紙に水滴がついている。天井から雫が垂れている。雫は水ではない。透明な粘液だ。天井に粘液の膜ができ、それが自重で垂れ下がっている。

 床が濡れていた。靴底がぬちゃりと鳴った。粘液が部屋全体を覆っていた。壁、天井、床、家具。すべてが薄い粘液の膜で覆われている。膜は温かい。室温が異常に高い。人間の体内と同じ温度だ。

「山根」

 声を出した。返事がない。ベッドルームに踏み込んだ。

 山根はベッドの上にいた。仰向けに横たわっている。目は開いている。天井を見つめている。口は閉じている。息をしている。

 しかし体が変わっていた。首の後ろの口は見えない。仰向けだからだ。しかし——腹部に口が開いていた。
臍の二センチ上。横向きに、十五センチほどの裂け目がある。裂け目の中に歯が並んでいる。首の後ろの口よりも大きい。歯の数も多い。口の中の粘膜は赤く、濡れていて、呼吸に合わせて開閉している。

 腹の口から粘液が流れ、シーツを濡らしている。甘い匂い。腹だけではなかった。

 左の掌にも口があった。手のひらの中央に、縦に裂けた口。小さい。五センチほど。歯は少ない。しかし確かに口だ。山根の左手が枕元に投げ出されており、手のひらの口が天井に向かって開いている。口の中から、ちろちろと舌が出ている。小さな赤い舌が、空気を舐めている。

 「山根」

 黒崎はベッドサイドに膝をついた。山根の目が動いた。天井から黒崎の顔に焦点が移る。

 「に……いき」

 声が出た。かすれている。

 「聞こえるか。俺じゃ」
 「聞こえ……ます。兄貴——おれ——体が——」

 山根の声が途切れた。喉の中で何かが動いたのだ。喉仏のあたりが内側からもこもこと膨らみ、また沈む。喉の中にも何かが育っている。

 「動けるか」
 「動け……ん。体が重い。中が——中で何かが増えとる。体中で口が開こうとしとる。感じるんです。皮膚の下で、あちこちで、歯が生えようとしとるのが」

 山根の体温がさらに上がっていた。触れると火傷しそうなほど熱い。皮膚から蒸気が出ている。蒸気が甘い匂いを撒き散らす。

 山根の全身が紅潮していた。黒崎は山根の手を取ろうとした。右手。口のない方の手。掴んだ瞬間、山根の指が黒崎の手を握り返した。力が弱い。

 「兄貴。おれ、怖い。怖いのに——体が。口が開くたびに。新しい口ができるたびに。全身が——」

 山根が唇を噛んだ。

 「——悦んどるんです。体の方が。おれの頭は嫌じゃ言うとるのに、体が——勝手に——」

 涙が頬を伝った。

 「おれ、おれのままで死にたい。バケモンになる前に。兄貴——」

 その目が、黒崎を見た。

 「殺してくれ」

 黒崎は山根の手を握ったまま、動けなかった。

 黒崎は殺さなかった。殺せなかった。弟分だ。盃こそ交わしていないが、七年間、隣にいた男だ。軽口を叩き、煙草を分け合い、修羅場を潜り、背中を預けてきた。その男を——撃てなかった。

 施設に戻り、戸田書店の店主に電話をした。症状を伝え、対処法がないか訊いた。

 店主の声は暗かった。

 「体に口が生えとるんなら——もう手遅れかもしれん。あれに侵食されとる。体の中にあれの一部が入り込んで、肉を作り変えとるんじゃ」
 「助ける方法はないんか」
 「封印するしかない。あれ自体を封じれば、体の中のあれの断片も力を失う——はずじゃ。しかし間に合うかどうか」

 電話を切った。封印。磐座。逆の詞。信仰を断つ。

 すべてが必要で、何一つ揃っていない。

 黒崎は丹生組長に連絡を取った。教団を畳む許可を貰うためだ。料亭「瀬川」。丹生は冷酒を飲んでいた。黒崎の話を、表情を変えずに聞いた。

 「教団を畳みたい言うんか」
 「はい。このまま続けたら、信者に取り返しのつかんことが起きます」
 「取り返しのつかんこととは」

 黒崎は一瞬、迷った。何と言えば伝わる。化け物が信者を喰っている。山根の体に口が生えている。そんな話を、この男が信じるか。

 「原田という信者が、精神に異常をきたしました。折口という信者も同様です。このまま続ければ被害者が増えます。マスコミに嗅ぎつけられたら——」
 「マスコミを恐れとるんか。そんなもん、うちの顧問弁護士に任せとけ」
 「親父。マスコミだけの問題やない。俺の舎弟——山根も体調を崩しとります。教団に関わった者が次々に——」
 「何が言いたい」

 丹生が箸を置いた。

 「お化けが怖い言うんか。ヤクザが」

 黒崎は口を閉じた。丹生の目が冷たかった。

 「月に一千万近い金が入ってくるシノギを、お前の個人的な恐怖で畳めると思うとるんか。お前一人の話やないぞ。丹生組全体の収入に関わることじゃ。若い衆の飯の種を、お前が潰すんか」
 「しかし——」
 「しかしも何もない。続けろ。嫌なら、教祖は他の者にやらせる。お前はお役御免じゃ。ただし——お前が抜けるなら、相応のけじめはつけてもらう」
 
 けじめ。指か。命か。黒崎は畳に目を落とした。

 「……分かりました」
 「おう。しっかりせぇ、剛。お前が一番頼りになる男じゃ言うて、わしが見込んだんやけぇな」

 料亭を出た。夜風が顔に当たった。潮の匂いがする。港の方から汽笛が聞こえた。

 山根のアパートに向かった。ドアを開けた瞬間、甘い匂いが廊下にまで溢れ出した。

 部屋に入った。粘液が増えていた。壁を伝い、天井から垂れ、床を覆っている。靴が沈む。足首まで粘液に浸かる。温かい。脈動している。足元の粘液が、心臓の鼓動のように律動的に振動している。
ベッドルームに向かった。

 山根の体が変わっていた。仰向けの姿勢は同じだ。しかし体の輪郭が崩れ始めている。

 関節がおかしい。肘が二つある。一つは通常の位置、もう一つは前腕の中ほどに、内側に向かって折れる新しい関節ができている。膝も同様だ。膝の下、脛の中ほどに関節が増え、脚がS字に曲がっている。

 指が伸びていた。すべての指が五センチほど伸び、関節が一つ増えている。骨格が皮膚の下で変形しているのだ。皮膚は破れていない。ただ引き伸ばされ、薄くなり、下の血管や筋肉が透けて見える。

 腹部の口が大きくなっていた。横幅が三十センチ近い。歯が増え、二列になっている。口の中から舌が伸び、べろりと腹の皮膚を舐めた。自分の体を舐めている。新しい開口部が体のあちこちに現れていた。背中には口が二つ。左の脇腹にも一つ。右の太腿には鼻孔だけが開いていた——穴が二つ並び、呼吸するように膨らんでは縮んでいる。左の肩甲骨の上には耳が生えていた。耳介の形をした肉のひだが皮膚から盛り上がり、微かに動いている。体が別の生き物に作り変えられつつあった。すべての開口部から粘液が滲み出している。

 そして——すべての口が祝詞を唱えていた。低い、洞窟の底のような声で。山根自身の口だけが閉じている。山根の目だけが、まだ山根だった。恐怖と絶望と——快楽が入り混じった目が、天井を見つめていた。

「山根」
 黒崎の声に、山根の目が動いた。

 「に……いき」

 声がほとんど出ない。喉の中の何かが、声帯を圧迫している。

 「たす……けて」

 黒崎は拳銃を持っていた。丹生組長から預かっているトカレフ。七発装填。山根のこめかみに銃口を当てた。
手が震えた。山根の目が、黒崎を見た。

 涙が流れた。山根の目から。そして——山根の唇が、微かに動いた。

 「——ありが、とう」

 黒崎は引き金を引いた。乾いた銃声がアパートの一室に反響した。

 山根の頭部が跳ねた。こめかみから弾丸が入り、反対側のこめかみから抜けた。血と脳漿が枕を汚した。山根の体が痙攣した。
 
 そして——止まらなかった。

 弾丸が貫通した穴から、血ではないものが噴き出した。黒い粘液だ。穴を塞ぐように粘液が盛り上がり、こめかみの傷口を覆い、皮膚を再生した。五秒で穴は消えた。弾丸の痕跡が消えた。

 山根は死んでいなかった。体中の口が、一斉に大きく開いた。すべての口から声が出た。祝詞ではない。笑い声だった。山根の声ではない。もっと古い、もっと深い、何百もの声が重なった笑い声が、体中の口から噴き出した。

 山根の目が——変わった。恐怖が消えていた。山根の目が、虚ろになっていた。原田と同じ——光のない、空っぽの目。山根の中身が、今、喰い尽くされた。

 体中の口が笑い続けている。山根だった体が、ベッドの上で弓なりに反った。背骨が軋む音がした。反り方が人間の可動域を超えている。頭頂と踵だけがベッドに触れ、体全体がブリッジの形に持ち上がった。

 皮膚の下で何かが動いた。全身を波が走った。体の内側から、何かが表面に押し寄せてくる。皮膚が風船のように膨らみ、また沈む。膨らみの中に——形が見える。指の形。歯の形。目の形。皮膚の下に、別の体のパーツが浮かんでは沈む。

 黒崎は目を逸らした。一秒。いや、もっと短い。瞬きほどの間だ。それだけで終わっていた。

 目を戻したとき、山根の体は裏返っていた。靴下を裏返すように、人体が内と外を反転させていた。心臓が体の表面で脈打っている。規則正しく、力強く。腸が蠕動している。肺が外気の中で膨らみ、縮んでいる。臓器の表面は粘膜に覆われ、濡れて光り、血は一滴も流れていなかった。裏返ってもなお、すべてが平然と動き続けている。

 山根の顔だけが表のままだった。空っぽの目。半開きの口。涎が垂れている。山根の顔が、裏返った肉の塊の上に載っている。

 そして——全身が痙攣した。一度。大きく。

 体中の口が同時に、限界まで開き、破裂した。中から噴き出したのは、粘液と、何かの塊だった。半透明の球体が何十個も、粘液と共に飛び散った。球体の径は二、三センチ。卵に似ている。表面が薄い膜で覆われ、中で微かに何かが動いている。

 球体と粘液が床に散乱した。甘い匂いが爆発的に広がった。十秒ほどで、球体は萎んだ。粘液と共に蒸発し、匂いだけが残った。

 ベッドの上に残されたもの。山根の皮だった。中身がない。骨も内臓も筋肉もない。萎んだ風船のように、人間の形をした皮が、シーツの上に広がっていた。

 黒崎は皮を手に取った。軽い。毛布ほどの重さもない。皮の表面には山根の顔がある。目も鼻も唇もある。目蓋がなく、乾いた眼球がむき出しのまま固まっている。剥製の獣の目に似ていた。

 黒崎は膝から崩れた。粘液の残る床に膝をつき、山根の皮を抱きしめた。温かさは残っていない。もう冷たい。冷たい薄い皮が、黒崎の腕の中でだらりと垂れている。

 嘔吐した。胃液だけが出た。朝から何も食べていない。酸っぱい液体が粘液の上に飛び散った。

 泣いた。声を上げて泣いた。三十二歳のヤクザが、弟分の皮を抱えて、声を上げて泣いた。泣きながら、拳で床を殴った。何度も。粘液が跳ね、拳が赤くなった。数分が経った。黒崎は立ち上がった。

 顔を手の甲で拭った。涙と鼻水と粘液が入り混じった液体を、シャツの袖で拭った。

 山根の皮を丁寧に畳んだ。人の皮を畳む。その行為がどれほど狂っているか、分かっている。しかし丁寧に畳んだ。山根が着ていたシャツと同じ要領で、肩から折り、袖を内側に、裾を上に。ビニール袋に入れようとして、やめた。ビニールでは駄目だ。押入れから毛布を出し、山根の皮を包んだ。

 部屋を出た。粘液は蒸発し始めていた。壁も天井も床も、急速に乾いていく。一時間もすれば、痕跡は消えるだろう。

 残るのは匂いだけだ。甘い匂いだけが、いつまでも。
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