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教祖の背中
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山根が消えてから三日が経った。組には「急病で入院した」と報告した。丹生は「早く治せ」とだけ言った。
黒崎は一人で教団を回していた。儀式の進行、信者の対応、会計処理。山根がやっていた仕事の大きさを、失って初めて知った。
信者は百五十名を超えていた。黒崎が止めようとしても、教団は勝手に膨張していく。信者が信者を連れてくる。口コミが広がり、県外からも問い合わせがある。SNSアカウントは山根が管理していたが、信者の有志が引き継いで運用を続けている。
「空っぽ」になる信者が増えていた。原田に続いて、三名が空っぽになった。全員が古参の信者で、儀式の出席率が高い者たちだ。共通点はもう一つある。全員が、深い苦しみを抱えて入信した者たちだ。配偶者を亡くした者。子供に先立たれた者。鬱病を患っている者。信仰が深い者ほど——喰われやすい。
空っぽになった信者は施設の二階の一室に集められていた。四人が並んで正座している。全員が同じ方向——臥竜山——を向いている。目は開いたまま。口から涎が垂れている。
四人の体に変化が始まっていた。皮膚が透けてきている。最初に気づいたのは絹江だった。
「ねえ教祖様。原田さんの腕——向こうが透けて見えるんやけど」
原田の右腕を透かして、背後の壁の模様がうっすら見えた。皮膚が半透明になっている。血管が見え、筋肉が見え、骨の影が見える。しかし中身がおかしかった。透けて見える腕の内部に、臓器があるべき場所に——何もなかった。空洞だった。腕の内側が空っぽで、空洞の内壁に、びっしりと歯が生えていた。小さな歯が、腕の内壁を覆い尽くしている。歯が——噛んでいた。何もない空洞に向かって、開閉を繰り返している。
四人全員が同じ状態だった。体が徐々に透明になり、中身が見える。しかし中身は空洞であり、空洞の壁面に歯が生えている。何もないものを、歯が噛み続けている。
黒崎の体にも変化があった。背中の文様。刺青の上に——痣が浮かんでいた。黒崎の背中には、二十歳のときに彫った龍の刺青がある。背中全面を覆う総身彫り。その刺青の上に、新しい模様が浮かんでいた。教団のシンボルマークだ。真照会の教義書に載せるために、黒崎が適当にデザインしたマーク。円の中に波紋を描いたような、単純な幾何学模様。それが背中の刺青の上に、黒い痣として浮き出ている。
黒崎が適当に描いたはずのマークが、体に刻まれている。マークの中心——円の中央に当たる部分。脊椎の上、肩甲骨の間。そこが——動いた。風呂上がり、鏡で背中を見たとき、気づいた。
痣の中央が——見返していた。目だ。皮膚の下から、黒い目が一つ、こちらを見ている。白目がない。瞳と虹彩だけの、獣の目に似た黒い眼球が、背中の皮膚を瞼のように押し開いて覗いていた。
目が動いた。黒崎が鏡越しに背中を見ている。背中の目も、鏡の中の黒崎を見ていた。黒崎が視線を動かす。背中の目は追わない。別の方向を見ている。黒崎の意思とは無関係に、独立して動いている。
手を背中に回し、目に触れようとした。指先が目の近くに達すると、目が——黒崎の指を見た。見て——細くなった。猫が獲物を見るときのように、瞳が細まった。指で触れた。濡れていた。涙ではない。粘液だ。温かい。甘い匂いがする。目が瞬きした。黒崎は手を引いた。
同じ週。絹江の変容が加速した。絹江の肌から毛穴が消えた。腕の内側、頬、首筋——どこを見ても、毛穴がない。陶器のような肌。蝋人形のような質感。人間の皮膚ではありえない滑らかさだった。
髪が伸びていた。一週間前に肩にかかる長さだったものが、腰まで達している。艶やかな黒髪。触ると、指に絡みつく。離そうとすると抵抗がある。髪が意思を持っているかのように、触れた指を逃がすまいとする。唇がさらに赤く、厚くなっていた。唇の内側の粘膜が外に向かって広がり、唇の面積が倍になっている。常に濡れている。光を受けてぬめりと光る。
絹江が施設にいるとき、信者たちが落ち着かなくなった。男性信者は目を合わせられない。視線が絹江の体を追い、自分でも制御できない。女性信者も同様だった。絹江の近くにいると呼吸が速くなり、頬が上気する。性別を問わない、生理的な反応が全員に起きていた。絹江の周囲には甘い匂いが漂っていた。あの匂い。しかし他の場面で嗅ぐ甘さとは微妙に違う。腐臭の成分が消え、純粋な甘さだけが残っている。蜜の匂いに近い。
食虫植物の蜜。その比喩が黒崎の頭に浮かび、離れなかった。
***
十一月の第一週。夜。黒崎は施設で事務作業をしていた。一人だ。山根がいなくなり、夜間の作業は一人でこなすしかない。廊下の奥から、足音が聞こえた。
絹江だった。白い着物を着ている。帰ったはずだ。しかしここにいる。足音を立てずに廊下を歩き、事務室の引き戸を開けた。
「教祖様」
「絹江さん。帰ったんやなかったんか」
「忘れ物を取りに来たの。でも——教祖様が一人でいるから」
絹江が事務室に入ってきた。引き戸を閉めた。部屋に甘い匂いが充満した。
「あたし、もう人間やないかもしれん」
絹江が黒崎の前に立った。
「でもね——今のあたしの方が、ずっといい。昔のあたしは、スナックで客に愛想振りまいて、体売って、酒飲んで忘れて。何もなかった。あたしの中に何もなかった。でも今は——」
絹江が黒崎の手を取った。そして自分の腹に当てた。腹の中で——何かが動いた。
妊婦の胎動に似ていた。しかし一つではない。あちこちから同時に蹴られている。小さな拳、小さな踵、小さな頭。何十もの何かが、絹江の腹の内側から一斉に壁を叩いている。手のひらに、こつこつという振動が伝わってきた。
「感じるでしょう。あの方の子供たち。あたしの中で育っとるの」
黒崎は手を引こうとした。引けなかった。絹江の腹が——黒崎の手を離さなかった。吸盤のように皮膚が手のひらに吸いついている。引くと肉ごと伸びた。沼に腕を突っ込んだときのように、引けば引くほど抵抗が増す。温かい。湿っている。絹江の体そのものが、黒崎の手を呑み込もうとしている。
しかし最も恐ろしかったのは、それではなかった。
心地よかった。手のひらを包む温かさが、心地よかった。引きたくない。もっと深く——
黒崎は歯を食いしばり、手を引き抜いた。絹江の腹の皮膚が伸び、名残惜しそうに黒崎の手を離した。皮膚が元に戻る。手のひらに粘液が残った。
「もう一回。もう一回、触って——」
「帰れ」
黒崎は声を絞り出した。絹江の目が——一瞬、黒く変わった。虹彩が消え、瞳孔が眼球全体を覆った。真っ黒な目が黒崎を見た。すぐに元に戻った。
「……ごめんなさい。おかしくなっとるわ、あたし」
絹江が出ていった。甘い匂いがしばらく残った。黒崎は自分の手のひらを見た。粘液が乾きつつある。甘い匂いは薄れていくが——体の芯に残った温かさが、消えなかった。殴られる方がましだ、と思った。殴られれば、痛みで我に返れる。しかしこの温かさには——抗う足場がない。
黒崎は一人で教団を回していた。儀式の進行、信者の対応、会計処理。山根がやっていた仕事の大きさを、失って初めて知った。
信者は百五十名を超えていた。黒崎が止めようとしても、教団は勝手に膨張していく。信者が信者を連れてくる。口コミが広がり、県外からも問い合わせがある。SNSアカウントは山根が管理していたが、信者の有志が引き継いで運用を続けている。
「空っぽ」になる信者が増えていた。原田に続いて、三名が空っぽになった。全員が古参の信者で、儀式の出席率が高い者たちだ。共通点はもう一つある。全員が、深い苦しみを抱えて入信した者たちだ。配偶者を亡くした者。子供に先立たれた者。鬱病を患っている者。信仰が深い者ほど——喰われやすい。
空っぽになった信者は施設の二階の一室に集められていた。四人が並んで正座している。全員が同じ方向——臥竜山——を向いている。目は開いたまま。口から涎が垂れている。
四人の体に変化が始まっていた。皮膚が透けてきている。最初に気づいたのは絹江だった。
「ねえ教祖様。原田さんの腕——向こうが透けて見えるんやけど」
原田の右腕を透かして、背後の壁の模様がうっすら見えた。皮膚が半透明になっている。血管が見え、筋肉が見え、骨の影が見える。しかし中身がおかしかった。透けて見える腕の内部に、臓器があるべき場所に——何もなかった。空洞だった。腕の内側が空っぽで、空洞の内壁に、びっしりと歯が生えていた。小さな歯が、腕の内壁を覆い尽くしている。歯が——噛んでいた。何もない空洞に向かって、開閉を繰り返している。
四人全員が同じ状態だった。体が徐々に透明になり、中身が見える。しかし中身は空洞であり、空洞の壁面に歯が生えている。何もないものを、歯が噛み続けている。
黒崎の体にも変化があった。背中の文様。刺青の上に——痣が浮かんでいた。黒崎の背中には、二十歳のときに彫った龍の刺青がある。背中全面を覆う総身彫り。その刺青の上に、新しい模様が浮かんでいた。教団のシンボルマークだ。真照会の教義書に載せるために、黒崎が適当にデザインしたマーク。円の中に波紋を描いたような、単純な幾何学模様。それが背中の刺青の上に、黒い痣として浮き出ている。
黒崎が適当に描いたはずのマークが、体に刻まれている。マークの中心——円の中央に当たる部分。脊椎の上、肩甲骨の間。そこが——動いた。風呂上がり、鏡で背中を見たとき、気づいた。
痣の中央が——見返していた。目だ。皮膚の下から、黒い目が一つ、こちらを見ている。白目がない。瞳と虹彩だけの、獣の目に似た黒い眼球が、背中の皮膚を瞼のように押し開いて覗いていた。
目が動いた。黒崎が鏡越しに背中を見ている。背中の目も、鏡の中の黒崎を見ていた。黒崎が視線を動かす。背中の目は追わない。別の方向を見ている。黒崎の意思とは無関係に、独立して動いている。
手を背中に回し、目に触れようとした。指先が目の近くに達すると、目が——黒崎の指を見た。見て——細くなった。猫が獲物を見るときのように、瞳が細まった。指で触れた。濡れていた。涙ではない。粘液だ。温かい。甘い匂いがする。目が瞬きした。黒崎は手を引いた。
同じ週。絹江の変容が加速した。絹江の肌から毛穴が消えた。腕の内側、頬、首筋——どこを見ても、毛穴がない。陶器のような肌。蝋人形のような質感。人間の皮膚ではありえない滑らかさだった。
髪が伸びていた。一週間前に肩にかかる長さだったものが、腰まで達している。艶やかな黒髪。触ると、指に絡みつく。離そうとすると抵抗がある。髪が意思を持っているかのように、触れた指を逃がすまいとする。唇がさらに赤く、厚くなっていた。唇の内側の粘膜が外に向かって広がり、唇の面積が倍になっている。常に濡れている。光を受けてぬめりと光る。
絹江が施設にいるとき、信者たちが落ち着かなくなった。男性信者は目を合わせられない。視線が絹江の体を追い、自分でも制御できない。女性信者も同様だった。絹江の近くにいると呼吸が速くなり、頬が上気する。性別を問わない、生理的な反応が全員に起きていた。絹江の周囲には甘い匂いが漂っていた。あの匂い。しかし他の場面で嗅ぐ甘さとは微妙に違う。腐臭の成分が消え、純粋な甘さだけが残っている。蜜の匂いに近い。
食虫植物の蜜。その比喩が黒崎の頭に浮かび、離れなかった。
***
十一月の第一週。夜。黒崎は施設で事務作業をしていた。一人だ。山根がいなくなり、夜間の作業は一人でこなすしかない。廊下の奥から、足音が聞こえた。
絹江だった。白い着物を着ている。帰ったはずだ。しかしここにいる。足音を立てずに廊下を歩き、事務室の引き戸を開けた。
「教祖様」
「絹江さん。帰ったんやなかったんか」
「忘れ物を取りに来たの。でも——教祖様が一人でいるから」
絹江が事務室に入ってきた。引き戸を閉めた。部屋に甘い匂いが充満した。
「あたし、もう人間やないかもしれん」
絹江が黒崎の前に立った。
「でもね——今のあたしの方が、ずっといい。昔のあたしは、スナックで客に愛想振りまいて、体売って、酒飲んで忘れて。何もなかった。あたしの中に何もなかった。でも今は——」
絹江が黒崎の手を取った。そして自分の腹に当てた。腹の中で——何かが動いた。
妊婦の胎動に似ていた。しかし一つではない。あちこちから同時に蹴られている。小さな拳、小さな踵、小さな頭。何十もの何かが、絹江の腹の内側から一斉に壁を叩いている。手のひらに、こつこつという振動が伝わってきた。
「感じるでしょう。あの方の子供たち。あたしの中で育っとるの」
黒崎は手を引こうとした。引けなかった。絹江の腹が——黒崎の手を離さなかった。吸盤のように皮膚が手のひらに吸いついている。引くと肉ごと伸びた。沼に腕を突っ込んだときのように、引けば引くほど抵抗が増す。温かい。湿っている。絹江の体そのものが、黒崎の手を呑み込もうとしている。
しかし最も恐ろしかったのは、それではなかった。
心地よかった。手のひらを包む温かさが、心地よかった。引きたくない。もっと深く——
黒崎は歯を食いしばり、手を引き抜いた。絹江の腹の皮膚が伸び、名残惜しそうに黒崎の手を離した。皮膚が元に戻る。手のひらに粘液が残った。
「もう一回。もう一回、触って——」
「帰れ」
黒崎は声を絞り出した。絹江の目が——一瞬、黒く変わった。虹彩が消え、瞳孔が眼球全体を覆った。真っ黒な目が黒崎を見た。すぐに元に戻った。
「……ごめんなさい。おかしくなっとるわ、あたし」
絹江が出ていった。甘い匂いがしばらく残った。黒崎は自分の手のひらを見た。粘液が乾きつつある。甘い匂いは薄れていくが——体の芯に残った温かさが、消えなかった。殴られる方がましだ、と思った。殴られれば、痛みで我に返れる。しかしこの温かさには——抗う足場がない。
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