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稲垣
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県警組織犯罪対策課の稲垣慎一は、丹生組を八年間追い続けていた。四十五歳。叩き上げの刑事だ。学歴はない。高卒で警察官になり、交番勤務を経て刑事課、そして組対課。出世欲はないが、執念がある。丹生組の壊滅が、稲垣の唯一の職業的目標だった。
「真照会」の存在を稲垣が掴んだのは十月だった。情報源は、神城組の真鍋だ。丹生組に歯を折られ、指を詰められた真鍋が、報復の手段として警察にリークした。ヤクザが警察に駆け込むのは禁忌中の禁忌だが、真鍋にはもう体面を気にする余裕がなかった。
「丹生組の黒崎いう若頭補佐が、インチキ宗教を始めとります。信者から金を巻き上げて、組の収入にしとるんです」
稲垣は即座に動いた。真照会の調査を開始し、信者の証言を集め、教団の収支を洗い始めた。宗教法人を隠れ蓑にした組織的詐欺——立件できれば、丹生組に致命的な打撃を与えられる。
十一月の第二週。稲垣は部下二名と共に、真照会の施設を訪れた。正式な家宅捜索ではない。任意の聞き取り調査という名目だ。令状を取るための下準備。
施設——元旅館おだまき——の前に立ったとき、稲垣は眉をひそめた。匂いがした。甘い匂い。建物から漏れ出している。
「線香の匂いですかね。」部下の河野が鼻をひくつかせた。
稲垣は答えなかった。線香の匂いではない。もっと有機的な——生き物の匂いだ。玄関を開けて中に入った。黒崎が出迎えた。白い作務衣。丁寧な物腰。ヤクザには見えない。しかし稲垣の目は誤魔化せない。黒崎の目つき、肩の力の入り方、距離の取り方——すべてがヤクザのそれだ。
「県警の者です。真照会さんの活動について、少しお話を伺いたいのですが」
「ああ、どうぞ。何でもお答えしますよ」
黒崎は笑顔で応接室に案内した。稲垣と河野が座り、もう一人の部下——若い巡査の藤本が施設内を見回るために席を外した。稲垣は黒崎と向かい合い、教団の設立経緯、収支、信者数について質問した。黒崎の受け答えは淀みなく、ボロを出さない。この男は頭がいい、と稲垣は思った。
二十分ほど経ったとき、廊下で声が上がった。藤本の声だ。
「うわっ——何じゃこれ——」
稲垣が立ち上がった。黒崎の顔が一瞬、強張った。廊下に出ると、藤本が二階の階段の前に立ち尽くしていた。顔が蒼白だ。
「どうした」
「二階の部屋に——人が。座っとるんです。四人。目ぇ開けたまま、涎垂らして——声かけても反応がないんです。異常です」
稲垣は階段を上がった。黒崎が後を追う。
二階の一室。襖が開いている。四人が正座していた。原田。折口。そして他の二名。全員が同じ方向を向き、目を開け、涎を垂らしている。
折口は——もう完全に空っぽだった。左半分も失われていた。体全体が弛緩し、人形のように座っている。
「これは何ですか。この人たちは」
稲垣が黒崎を睨んだ。
「信者の方です。瞑想中で——」
「瞑想? 涎を垂らして瞑想する人間がおりますか。救急車を呼びます」
「待ってください。この方たちは——」
黒崎が言いかけたとき、藤本が部屋に踏み込んだ。原田の前に膝をつき、肩に手を置いた。
「大丈夫ですか。聞こえますか」
原田が動いた。首が回った。ゆっくりと。関節が軋む音がした。正面を向いていた顔が、九十度回転し、藤本を見た。
空っぽの目が、藤本を見た。原田の口が開いた。涎が糸を引いて落ちた。
口の中から——声が出た。原田の声ではなかった。低い、洞窟の底のような声。反響を含んだ、何百もの声が重なった声。
「おまえも——くうか」
藤本が悲鳴を上げた。立ち上がろうとした。原田の手が藤本の腕を掴んだ。空っぽのはずの体に、ありえない力があった。藤本が引き剥がそうとするが、びくともしない。原田の指が藤本の前腕に食い込んでいる。
「離せ——離してくれ——」
藤本が叫んだ。原田の腕が——外れた。引きちぎれたのではない。人形の腕を外すように、肩の関節からするりと抜けた。中身がなかった。腕の断面は空洞だ。肉も骨も血管もない。空っぽの腕が、それでもなお藤本の腕を掴み続けている。
稲垣が動いた。藤本の腕から原田の手を引き剥がそうとする。原田の指を一本ずつ外す。最後の一本が外れたとき、原田の腕は床に落ち——崩れた。干からびた花のように、ぼろぼろと粉になって崩れた。
部屋を出た。三人とも。階段を駆け下りた。一階の廊下で、稲垣は足を止めた。
振り返り、黒崎を見た。
「あれは何じゃ」
黒崎は稲垣の目を見返した。刑事の目に、初めて動揺があった。八年間丹生組を追い続けてきた男の目に。
「説明してくれ。あれは——何なんじゃ」
黒崎は答えなかった。答えられなかった。説明できる言葉がない。稲垣は黒崎を睨み続けた。しかし、問い詰めるための言葉も見つからなかった。
三人の刑事は施設を出た。
駐車場で、藤本が嘔吐した。河野が黙って藤本の背中をさすっていた。稲垣は施設の建物を見上げた。二階の窓。カーテンの隙間から——四つの顔が並んでこちらを見下ろしていた。空っぽの目。涎を垂らした口。四人とも、同じ顔をして稲垣を見ていた。口を開け、涎を垂らしながら、笑っていた。
稲垣は黙って背を向けた。今日の一件をどう報告すれば良いのか、途方に暮れていた。
「真照会」の存在を稲垣が掴んだのは十月だった。情報源は、神城組の真鍋だ。丹生組に歯を折られ、指を詰められた真鍋が、報復の手段として警察にリークした。ヤクザが警察に駆け込むのは禁忌中の禁忌だが、真鍋にはもう体面を気にする余裕がなかった。
「丹生組の黒崎いう若頭補佐が、インチキ宗教を始めとります。信者から金を巻き上げて、組の収入にしとるんです」
稲垣は即座に動いた。真照会の調査を開始し、信者の証言を集め、教団の収支を洗い始めた。宗教法人を隠れ蓑にした組織的詐欺——立件できれば、丹生組に致命的な打撃を与えられる。
十一月の第二週。稲垣は部下二名と共に、真照会の施設を訪れた。正式な家宅捜索ではない。任意の聞き取り調査という名目だ。令状を取るための下準備。
施設——元旅館おだまき——の前に立ったとき、稲垣は眉をひそめた。匂いがした。甘い匂い。建物から漏れ出している。
「線香の匂いですかね。」部下の河野が鼻をひくつかせた。
稲垣は答えなかった。線香の匂いではない。もっと有機的な——生き物の匂いだ。玄関を開けて中に入った。黒崎が出迎えた。白い作務衣。丁寧な物腰。ヤクザには見えない。しかし稲垣の目は誤魔化せない。黒崎の目つき、肩の力の入り方、距離の取り方——すべてがヤクザのそれだ。
「県警の者です。真照会さんの活動について、少しお話を伺いたいのですが」
「ああ、どうぞ。何でもお答えしますよ」
黒崎は笑顔で応接室に案内した。稲垣と河野が座り、もう一人の部下——若い巡査の藤本が施設内を見回るために席を外した。稲垣は黒崎と向かい合い、教団の設立経緯、収支、信者数について質問した。黒崎の受け答えは淀みなく、ボロを出さない。この男は頭がいい、と稲垣は思った。
二十分ほど経ったとき、廊下で声が上がった。藤本の声だ。
「うわっ——何じゃこれ——」
稲垣が立ち上がった。黒崎の顔が一瞬、強張った。廊下に出ると、藤本が二階の階段の前に立ち尽くしていた。顔が蒼白だ。
「どうした」
「二階の部屋に——人が。座っとるんです。四人。目ぇ開けたまま、涎垂らして——声かけても反応がないんです。異常です」
稲垣は階段を上がった。黒崎が後を追う。
二階の一室。襖が開いている。四人が正座していた。原田。折口。そして他の二名。全員が同じ方向を向き、目を開け、涎を垂らしている。
折口は——もう完全に空っぽだった。左半分も失われていた。体全体が弛緩し、人形のように座っている。
「これは何ですか。この人たちは」
稲垣が黒崎を睨んだ。
「信者の方です。瞑想中で——」
「瞑想? 涎を垂らして瞑想する人間がおりますか。救急車を呼びます」
「待ってください。この方たちは——」
黒崎が言いかけたとき、藤本が部屋に踏み込んだ。原田の前に膝をつき、肩に手を置いた。
「大丈夫ですか。聞こえますか」
原田が動いた。首が回った。ゆっくりと。関節が軋む音がした。正面を向いていた顔が、九十度回転し、藤本を見た。
空っぽの目が、藤本を見た。原田の口が開いた。涎が糸を引いて落ちた。
口の中から——声が出た。原田の声ではなかった。低い、洞窟の底のような声。反響を含んだ、何百もの声が重なった声。
「おまえも——くうか」
藤本が悲鳴を上げた。立ち上がろうとした。原田の手が藤本の腕を掴んだ。空っぽのはずの体に、ありえない力があった。藤本が引き剥がそうとするが、びくともしない。原田の指が藤本の前腕に食い込んでいる。
「離せ——離してくれ——」
藤本が叫んだ。原田の腕が——外れた。引きちぎれたのではない。人形の腕を外すように、肩の関節からするりと抜けた。中身がなかった。腕の断面は空洞だ。肉も骨も血管もない。空っぽの腕が、それでもなお藤本の腕を掴み続けている。
稲垣が動いた。藤本の腕から原田の手を引き剥がそうとする。原田の指を一本ずつ外す。最後の一本が外れたとき、原田の腕は床に落ち——崩れた。干からびた花のように、ぼろぼろと粉になって崩れた。
部屋を出た。三人とも。階段を駆け下りた。一階の廊下で、稲垣は足を止めた。
振り返り、黒崎を見た。
「あれは何じゃ」
黒崎は稲垣の目を見返した。刑事の目に、初めて動揺があった。八年間丹生組を追い続けてきた男の目に。
「説明してくれ。あれは——何なんじゃ」
黒崎は答えなかった。答えられなかった。説明できる言葉がない。稲垣は黒崎を睨み続けた。しかし、問い詰めるための言葉も見つからなかった。
三人の刑事は施設を出た。
駐車場で、藤本が嘔吐した。河野が黙って藤本の背中をさすっていた。稲垣は施設の建物を見上げた。二階の窓。カーテンの隙間から——四つの顔が並んでこちらを見下ろしていた。空っぽの目。涎を垂らした口。四人とも、同じ顔をして稲垣を見ていた。口を開け、涎を垂らしながら、笑っていた。
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