餓神

よん

文字の大きさ
10 / 14

稲垣

しおりを挟む
 県警組織犯罪対策課の稲垣慎一は、丹生組を八年間追い続けていた。四十五歳。叩き上げの刑事だ。学歴はない。高卒で警察官になり、交番勤務を経て刑事課、そして組対課。出世欲はないが、執念がある。丹生組の壊滅が、稲垣の唯一の職業的目標だった。

 「真照会」の存在を稲垣が掴んだのは十月だった。情報源は、神城組の真鍋だ。丹生組に歯を折られ、指を詰められた真鍋が、報復の手段として警察にリークした。ヤクザが警察に駆け込むのは禁忌中の禁忌だが、真鍋にはもう体面を気にする余裕がなかった。

 「丹生組の黒崎いう若頭補佐が、インチキ宗教を始めとります。信者から金を巻き上げて、組の収入にしとるんです」

 稲垣は即座に動いた。真照会の調査を開始し、信者の証言を集め、教団の収支を洗い始めた。宗教法人を隠れ蓑にした組織的詐欺——立件できれば、丹生組に致命的な打撃を与えられる。

 十一月の第二週。稲垣は部下二名と共に、真照会の施設を訪れた。正式な家宅捜索ではない。任意の聞き取り調査という名目だ。令状を取るための下準備。

 施設——元旅館おだまき——の前に立ったとき、稲垣は眉をひそめた。匂いがした。甘い匂い。建物から漏れ出している。

 「線香の匂いですかね。」部下の河野が鼻をひくつかせた。

 稲垣は答えなかった。線香の匂いではない。もっと有機的な——生き物の匂いだ。玄関を開けて中に入った。黒崎が出迎えた。白い作務衣。丁寧な物腰。ヤクザには見えない。しかし稲垣の目は誤魔化せない。黒崎の目つき、肩の力の入り方、距離の取り方——すべてがヤクザのそれだ。

 「県警の者です。真照会さんの活動について、少しお話を伺いたいのですが」
 「ああ、どうぞ。何でもお答えしますよ」

 黒崎は笑顔で応接室に案内した。稲垣と河野が座り、もう一人の部下——若い巡査の藤本が施設内を見回るために席を外した。稲垣は黒崎と向かい合い、教団の設立経緯、収支、信者数について質問した。黒崎の受け答えは淀みなく、ボロを出さない。この男は頭がいい、と稲垣は思った。

 二十分ほど経ったとき、廊下で声が上がった。藤本の声だ。

 「うわっ——何じゃこれ——」

 稲垣が立ち上がった。黒崎の顔が一瞬、強張った。廊下に出ると、藤本が二階の階段の前に立ち尽くしていた。顔が蒼白だ。

 「どうした」
 「二階の部屋に——人が。座っとるんです。四人。目ぇ開けたまま、涎垂らして——声かけても反応がないんです。異常です」

 稲垣は階段を上がった。黒崎が後を追う。

 二階の一室。襖が開いている。四人が正座していた。原田。折口。そして他の二名。全員が同じ方向を向き、目を開け、涎を垂らしている。

 折口は——もう完全に空っぽだった。左半分も失われていた。体全体が弛緩し、人形のように座っている。

 「これは何ですか。この人たちは」

 稲垣が黒崎を睨んだ。

 「信者の方です。瞑想中で——」
 「瞑想? 涎を垂らして瞑想する人間がおりますか。救急車を呼びます」
 「待ってください。この方たちは——」

 黒崎が言いかけたとき、藤本が部屋に踏み込んだ。原田の前に膝をつき、肩に手を置いた。

 「大丈夫ですか。聞こえますか」

 原田が動いた。首が回った。ゆっくりと。関節が軋む音がした。正面を向いていた顔が、九十度回転し、藤本を見た。

 空っぽの目が、藤本を見た。原田の口が開いた。涎が糸を引いて落ちた。

 口の中から——声が出た。原田の声ではなかった。低い、洞窟の底のような声。反響を含んだ、何百もの声が重なった声。

 「おまえも——くうか」

 藤本が悲鳴を上げた。立ち上がろうとした。原田の手が藤本の腕を掴んだ。空っぽのはずの体に、ありえない力があった。藤本が引き剥がそうとするが、びくともしない。原田の指が藤本の前腕に食い込んでいる。

 「離せ——離してくれ——」

 藤本が叫んだ。原田の腕が——外れた。引きちぎれたのではない。人形の腕を外すように、肩の関節からするりと抜けた。中身がなかった。腕の断面は空洞だ。肉も骨も血管もない。空っぽの腕が、それでもなお藤本の腕を掴み続けている。

 稲垣が動いた。藤本の腕から原田の手を引き剥がそうとする。原田の指を一本ずつ外す。最後の一本が外れたとき、原田の腕は床に落ち——崩れた。干からびた花のように、ぼろぼろと粉になって崩れた。

 部屋を出た。三人とも。階段を駆け下りた。一階の廊下で、稲垣は足を止めた。
 
 振り返り、黒崎を見た。

 「あれは何じゃ」

 黒崎は稲垣の目を見返した。刑事の目に、初めて動揺があった。八年間丹生組を追い続けてきた男の目に。

 「説明してくれ。あれは——何なんじゃ」

 黒崎は答えなかった。答えられなかった。説明できる言葉がない。稲垣は黒崎を睨み続けた。しかし、問い詰めるための言葉も見つからなかった。

 三人の刑事は施設を出た。

 駐車場で、藤本が嘔吐した。河野が黙って藤本の背中をさすっていた。稲垣は施設の建物を見上げた。二階の窓。カーテンの隙間から——四つの顔が並んでこちらを見下ろしていた。空っぽの目。涎を垂らした口。四人とも、同じ顔をして稲垣を見ていた。口を開け、涎を垂らしながら、笑っていた。

 稲垣は黙って背を向けた。今日の一件をどう報告すれば良いのか、途方に暮れていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

きさらぎ駅

水野華奈
ホラー
親友から電話があった。 きさらぎ駅という場所にいるらしい… 日常の中の小さな恐怖が今始まる。 触れてしまったが最後。 二度と戻れない。

漆黒の闇から

一宮 沙耶
ホラー
邪悪な霊が引き起こす事件の数々 若い頃から霊が見え、精神を病んでいた私が事件を解決していく ただ、自分も黄泉の世界に巻き込まれてしまう

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2026/3/5:『まよなかのあしおと』の章を追加。2026/3/12の朝頃より公開開始予定。 2026/3/4:『ぎいぎいさま』の章を追加。2026/3/11の朝頃より公開開始予定。 2026/3/3:『やま』の章を追加。2026/3/10の朝頃より公開開始予定。 2026/3/2:『いおん』の章を追加。2026/3/9の朝頃より公開開始予定。 2026/3/1:『のぞいてくる』の章を追加。2026/3/8の朝頃より公開開始予定。 2026/2/28:『そうしき』の章を追加。2026/3/7の朝頃より公開開始予定。 2026/2/27:『でんしゃ』の章を追加。2026/3/6の朝頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...