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教団崩壊
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十一月の第三週。日曜日。午後二時。真照会の定例儀式に、百二十名の信者が集まっていた。最盛期の百五十名から三十名が減っている。空っぽになった者、体調を崩して来なくなった者、理由も告げずに去った者。教団の周囲に漂い始めた不穏な空気を、敏感な者は嗅ぎ取っていたのだろう。最盛期の百五十名から三十名が減っている。空っぽになった者、体調を崩して来なくなった者、理由も告げずに去った者。教団の周囲に漂い始めた不穏な空気を、敏感な者は嗅ぎ取っていたのだろう。
大広間は満員だった。正座する信者たちの頭が畳の海のように並び、祭壇に向かって静かに座っている。蝋燭の炎が揺れ、白檀の香が漂い、窓の外には秋の午後の光が斜めに差している。
黒崎は祭壇の前に立っていた。白い作務衣。裸足。背筋を伸ばし、百二十の顔を見渡した。宮本朋美がいた。二列目の中央。息子の航太は学校だ。朋美は手を膝の上で組み、穏やかな顔をしている。入信したときの隈だらけの顔はもうない。眠れるようになった。薬も減った。教団が朋美を救ったことは——嘘だが、事実だ。
絹江が祭壇の脇に控えていた。白い着物。長い黒髪。毛穴のない陶器の肌。唇は粘膜のように赤く濡れている。信者たちの目がちらちらと絹江に向かう。
黒崎は口を開いた。祝詞は唱えなかった。
「皆さんに——話があります」
声が震えた。教祖の声ではなかった。黒崎剛の声だった。信者たちがざわめいた。いつもの厳かな開始の言葉ではない。
「今日は儀式をしません。その代わり、俺の話を聞いてください。俺の——本当の話を」
大広間が静まった。黒崎は深く息を吸った。
「俺の本名は黒崎剛。広域指定暴力団旭道会系丹生組の若頭補佐です。ヤクザです」
沈黙。数秒の間を置いて、意味が浸透した。ざわめきが起きた。
「この教団——真照会は、丹生組のシノギです。金を集めるために作った、インチキの宗教です」
ざわめきが大きくなった。
「教義は俺がでっちあげた。魂の浄化も、穢れの祓いも、全部嘘です。あの祝詞も、古書店で買った本から響きがいいだけで選んだ。意味なんか知らんかった。御神体のあの石は骨董屋で買った。何の力もない石ころです」
信者の一人が立ち上がった。五十代の男性だ。顔が赤い。
「何を言うとるんじゃ。ふざけるな——」
「ふざけとりません。俺は嘘つきです。最初から最後まで、あんたらを騙しとった。金のために。あの除霊もインチキです。血糊を仕込んどっただけじゃ」
大広間が沸騰した。怒号が飛んだ。泣き出す者がいた。立ち上がって出ていく者がいた。黒崎に掴みかかろうとする者を、信者同士が押しとどめた。
「金返せ——」
「詐欺やないか——」
「信じとったのに——」
黒崎は動かなかった。罵声を浴びながら、立ち続けた。殴られても仕方ない。金を返せと言われれば返す。しかし今はそれより先に、言わなければならないことがある。
「聞いてくれ。もう一つ。もっと大事なことがある」
声を張った。
「この教団で使っていた祝詞は——ただのインチキやなかった。俺はインチキのつもりで使っとった。しかしあの祝詞は、この山に封じられた何かを呼び出す詞じゃった。あんたらが祈るたびに、あれが——力を得とった。あんたらの信仰を、喰っとった」
怒号が止んだ。困惑が場を支配した。
「原田さんが入院したのを知っとる人は多いでしょう。あれは病気やない。原田さんは——喰われたんです。中身を。折口さんもそうです。この教団に深く関わった人間が、順に喰われとる」
沈黙が戻った。信者たちの表情が変わっていた。怒りの下に、別のものが浮かんでいる。恐怖だ。原田の異変を、折口の異変を、信者たちは噂として知っていた。説明がつかない異変を、見て見ぬふりをしていた。
「だから頼む。この教団を——信じるのをやめてくれ。祝詞を唱えるな。祈るな。この場所から離れてくれ。あんたらの身を守るために」
黒崎は頭を下げた。額が畳につくまで深く。数秒の沈黙の後、人が動き始めた。立ち上がる者。出口に向かう者。泣いている者。怒りながら去る者。大広間が半分ほど空いたとき、黒崎は顔を上げた。
三十名ほどが残っていた。出ていかない者たちだ。その中に、朋美がいた。
「宮本さん。帰ってくれ」
朋美は黒崎を見つめていた。涙が頬を伝っていたが、表情は穏やかだった。
「知ってました」
「……何を」
「嘘だってこと。教義がでたらめだってことは、途中から分かってました。あたしは教師の娘で、父が宗教学の教授だったから、教義の穴はすぐ分かった」
「なら、なぜ——」
「あなたの言葉に救われたから。教義は嘘でも、あなたが『大丈夫だ』と言ってくれたこと、あたしの手を取って祝詞を唱えてくれたこと——あの時間だけは嘘じゃなかった。あたしにはそれで十分だった」
黒崎は言葉を失った。
「だから信じるのをやめろと言われても、やめられない。あなたを信じたことを、なかったことにはできない」
残った三十名の中で、何人かが頷いていた。黒崎は理解した。一度芽生えた信仰は、事実によっては消えない。嘘だと暴かれても、信じた時間の重みは消せない。
つまり——餓神の餌は、止まらない。
***
突如、大広間の空気が変わった。温度が上がった。蝋燭の炎が一斉に臥竜山の方角に傾いた。甘い匂いが、床の下から滲み出した。畳の目の隙間から、粘液が這い出してくる。
二階で物音がした。何かが倒れる音。続いて——足音。複数の足音。ぺた、ぺた、ぺた。裸足の足音が天井の向こうを歩いている。空っぽの信者たちだ。
二階の部屋にいた四人が動き出している。階段を降りてくる音が聞こえた。
大広間の襖が——内側から開いた。四人が立っていた。原田。折口。他の二名。全員が同じ虚ろな笑顔を浮かべ、大広間に入ってきた。裸足。パジャマ姿。涎を垂らし、空っぽの目で信者たちを見回している。
四人が同時に口を開いた。祝詞が響いた。
四つの口から、同じ声で、同じ祝詞。しかし重なり合うことで、人間の声ではないものに変質している。低周波のような振動。床が揺れた。壁が震えた。天井の照明がちらついた。
残っていた信者たちがパニックに陥った。悲鳴が上がった。出口に殺到する者。しかし出口の前にも、空っぽの信者が立ちはだかった。いつの間に——三人。施設の別の部屋に収容されていた、新たに空っぽになった信者たちだ。
七人の空っぽの人間が、大広間を囲んでいた。全員が祝詞を唱えている。
原田の体が——裂けた。腹部が縦に割れた。中から赤い肉の花が咲いた。粘膜質の花弁が一枚、二枚と展開し、原田の体から天井に向かって伸びていく。花弁の裏にはびっしりと歯が並んでいた。花が開ききると、中央の筒状の部分が喉のように蠕動し、赤ん坊の泣き声に似た甲高い音を発した。
折口も裂けた。他の二名も。次々に体が開き、肉の花が咲く。大広間に七本の肉の花が聳え立ち、天井に触れ、触れた場所の天井材が腐り始めた。信者たちが逃げ惑う中、黒崎は朋美の腕を掴んだ。
「走れ。外に出ろ」
朋美を出口に向かって押し出し、他の信者たちも追い立てた。肉の花には近づかない。花弁に触れれば——喰われる。全員を施設の外に出した。
駐車場に立ち、施設を振り返った。建物の窓から赤い光が漏れていた。肉の花が発光している。甘い匂いが外にまで溢れ出し、駐車場を覆っていた。
信者たちは散り散りに逃げていった。車で、徒歩で。泣きながら。叫びながら。
残ったのは、黒崎と朋美だけだった。
***
二時間後。丹生組長から電話が入った。
「剛。何をしたんじゃ」
「教団を畳みました」
「……聞いとる。信者の前でヤクザじゃ言うてばらしたそうやな」
「はい」
「組に来い。今すぐ」
丹生組の事務所。黒崎が入ると、組長の他に幹部が三名いた。木村若頭。坂本。そしてもう一人、黒崎と同格の若頭補佐・井上。丹生は椅子に座り、黒崎を見下ろしていた。
「けじめをつけろ」
丹生の声は静かだった。怒鳴らない。この男が最も怖いのは、静かなときだ。指を詰めさせた上で破門にするのは、極道の作法から逸脱している。それほどの怒りだということだ。怒鳴らない。この男が最も怖いのは、静かなときだ。
「月に一千万のシノギを、お前の独断で潰した。組への背任じゃ。指一本で済む話やないぞ」
黒崎は正座していた。
「親父。教団を続けとったら、もっと被害が出ます。信者だけやない。組の人間にも。山根はもう——」
「山根がどうした」
「死にました」
事務所が静まった。
「死んだ。あの教団で起きとることに巻き込まれて、死にました。入院やない。死んだんです」
丹生の表情は変わらなかった。
「死因は」
「説明できません。しかし——あの施設で起きとることは、人間の手に負えるもんやありません」
丹生が立ち上がった。机の上から鉈を取った。
「左手を出せ」
黒崎は左手を差し出した。丹生が鉈を振り下ろした。
小指が飛んだ。
痛みが遅れてきた。骨を断つ振動が手首まで響き、一拍遅れて熱い痛みが指の付け根から噴き上がった。血が畳に落ちた。
黒崎は声を上げなかった。歯を食いしばり、血が垂れる左手を膝の上に戻した。
畳の上に転がった小指から——血が出ていた。赤い、普通の血だ。
しかし数秒後、血に混じって別のものが滲み出した。黒い粘液だ。切断面から赤い血と黒い粘液が同時に流れ、畳
の上で渦を巻いた。
指が動いた。切断された小指が、畳の上で——動いた。
虫が足を動かすように、指がぴくりと跳ねた。そして這い始めた。切断面を地面に擦りつけ、血と粘液の跡を残しながら、畳の上を這っている。
方角がある。指はまっすぐ、臥竜山の方角に向かって這っていた。事務所の全員が凍りついた。木村が一歩後ずさった。坂本が声を上げかけ、口を手で押さえた。井上は指から目を逸らせなかった。
丹生が——鉈を持ったまま、指を見ていた。
指の切断面から歯が生えた。小さな、白い歯が、肉の中からゆっくりと突き出してきた。三本。四本。切断面が口になろうとしている。黒崎は立ち上がり、自分の指を踏んだ。
靴底の下で歯が砕ける感触があった。踏み潰した指は動きを止め、黒い粘液を染み出させて、静かになった。
黒崎は丹生を見た。
「これでも、まだシノギを続けろ言うんですか。親父」
丹生の顔から血の気が引いていた。六十二年間、この男が恐怖の顔を見せたことはなかった。人を脅し、殴り、指を詰め、時には命を取ってきた男だ。暴力の世界で頂点に立ち、恐怖を与える側にだけいた男だ。その丹生が、畳の上の潰れた指を見て、唇を震わせていた。
「……出ていけ」
丹生は鉈を机に置いた。
「破門じゃ。お前は今日から丹生組の人間やない。二度と顔を見せるな」
「はい」
黒崎は一礼し、事務所を出た。左手の切断面にハンカチを巻きつけ、血を止めた。痛みは続いている。しかし痛みがある方がいい。痛みは人間の証だ。
***
事務所を出て十分後、携帯が鳴った。戸田書店の店主からだった。
「黒崎さん。臥竜山の霧が——濃くなっとる。麓まで降りてきとる。今夜中にも町に達するかもしれん」
「封印が——」
「限界じゃ。あんたが信者の前でぶちまけて、教団は壊れた。しかし信仰は壊れとらん。残った者がおるんじゃろう。信じ続けとる者が」
朋美の顔が浮かんだ。「信じるのをやめろと言われてもやめられない」と言った朋美。
「信仰が続く限り、あれは力を持ち続ける。そして封印が完全に解けたら——この町ごと喰われる。折居集落と同じことが、六千人の町で起きる」
「今夜、山に登ります」
「正気か。夜の臥竜山は——あれの体内と同じじゃ」
「待っとる余裕がない。霧が町に降りたら終わりじゃ。今夜しかない」
店主が沈黙した。
「……逆の詞は持っとるな」
「持っとります」
「もう一つ。封じるためには、あれに味見をさせにゃならん。自分の体の一部を、あれに喰わせる。修験者たちは
血を磐座に注いだ。あれが血の味に気を取られとる隙に、逆の詞で封じた。ただし——味見された部分は二度と戻らん」
「分かっとります」
「死ぬかもしれんぞ」
「ヤクザに戻る場所もない。逃げる場所もない。なら前に行くしかないでしょう」
電話を切った。車に乗り込んだ。自宅のマンションに寄り、山根の皮を毛布ごと持ち出した。何のためか、自分でも分からない。しかし山根を残していくことができなかった。
トカレフを腰に差した。残弾四発。化け物には効かない。しかし人間の追手には効く。丹生が追手を出す可能性がある。破門した人間が組の秘密を握ったまま消えることを、丹生は許さない。
車を発進させた。臥竜山の登山口に向かう。夜の国道を走りながら、バックミラーを確認した。後ろに車がいた。二台。ヘッドライトが追ってきている。
大広間は満員だった。正座する信者たちの頭が畳の海のように並び、祭壇に向かって静かに座っている。蝋燭の炎が揺れ、白檀の香が漂い、窓の外には秋の午後の光が斜めに差している。
黒崎は祭壇の前に立っていた。白い作務衣。裸足。背筋を伸ばし、百二十の顔を見渡した。宮本朋美がいた。二列目の中央。息子の航太は学校だ。朋美は手を膝の上で組み、穏やかな顔をしている。入信したときの隈だらけの顔はもうない。眠れるようになった。薬も減った。教団が朋美を救ったことは——嘘だが、事実だ。
絹江が祭壇の脇に控えていた。白い着物。長い黒髪。毛穴のない陶器の肌。唇は粘膜のように赤く濡れている。信者たちの目がちらちらと絹江に向かう。
黒崎は口を開いた。祝詞は唱えなかった。
「皆さんに——話があります」
声が震えた。教祖の声ではなかった。黒崎剛の声だった。信者たちがざわめいた。いつもの厳かな開始の言葉ではない。
「今日は儀式をしません。その代わり、俺の話を聞いてください。俺の——本当の話を」
大広間が静まった。黒崎は深く息を吸った。
「俺の本名は黒崎剛。広域指定暴力団旭道会系丹生組の若頭補佐です。ヤクザです」
沈黙。数秒の間を置いて、意味が浸透した。ざわめきが起きた。
「この教団——真照会は、丹生組のシノギです。金を集めるために作った、インチキの宗教です」
ざわめきが大きくなった。
「教義は俺がでっちあげた。魂の浄化も、穢れの祓いも、全部嘘です。あの祝詞も、古書店で買った本から響きがいいだけで選んだ。意味なんか知らんかった。御神体のあの石は骨董屋で買った。何の力もない石ころです」
信者の一人が立ち上がった。五十代の男性だ。顔が赤い。
「何を言うとるんじゃ。ふざけるな——」
「ふざけとりません。俺は嘘つきです。最初から最後まで、あんたらを騙しとった。金のために。あの除霊もインチキです。血糊を仕込んどっただけじゃ」
大広間が沸騰した。怒号が飛んだ。泣き出す者がいた。立ち上がって出ていく者がいた。黒崎に掴みかかろうとする者を、信者同士が押しとどめた。
「金返せ——」
「詐欺やないか——」
「信じとったのに——」
黒崎は動かなかった。罵声を浴びながら、立ち続けた。殴られても仕方ない。金を返せと言われれば返す。しかし今はそれより先に、言わなければならないことがある。
「聞いてくれ。もう一つ。もっと大事なことがある」
声を張った。
「この教団で使っていた祝詞は——ただのインチキやなかった。俺はインチキのつもりで使っとった。しかしあの祝詞は、この山に封じられた何かを呼び出す詞じゃった。あんたらが祈るたびに、あれが——力を得とった。あんたらの信仰を、喰っとった」
怒号が止んだ。困惑が場を支配した。
「原田さんが入院したのを知っとる人は多いでしょう。あれは病気やない。原田さんは——喰われたんです。中身を。折口さんもそうです。この教団に深く関わった人間が、順に喰われとる」
沈黙が戻った。信者たちの表情が変わっていた。怒りの下に、別のものが浮かんでいる。恐怖だ。原田の異変を、折口の異変を、信者たちは噂として知っていた。説明がつかない異変を、見て見ぬふりをしていた。
「だから頼む。この教団を——信じるのをやめてくれ。祝詞を唱えるな。祈るな。この場所から離れてくれ。あんたらの身を守るために」
黒崎は頭を下げた。額が畳につくまで深く。数秒の沈黙の後、人が動き始めた。立ち上がる者。出口に向かう者。泣いている者。怒りながら去る者。大広間が半分ほど空いたとき、黒崎は顔を上げた。
三十名ほどが残っていた。出ていかない者たちだ。その中に、朋美がいた。
「宮本さん。帰ってくれ」
朋美は黒崎を見つめていた。涙が頬を伝っていたが、表情は穏やかだった。
「知ってました」
「……何を」
「嘘だってこと。教義がでたらめだってことは、途中から分かってました。あたしは教師の娘で、父が宗教学の教授だったから、教義の穴はすぐ分かった」
「なら、なぜ——」
「あなたの言葉に救われたから。教義は嘘でも、あなたが『大丈夫だ』と言ってくれたこと、あたしの手を取って祝詞を唱えてくれたこと——あの時間だけは嘘じゃなかった。あたしにはそれで十分だった」
黒崎は言葉を失った。
「だから信じるのをやめろと言われても、やめられない。あなたを信じたことを、なかったことにはできない」
残った三十名の中で、何人かが頷いていた。黒崎は理解した。一度芽生えた信仰は、事実によっては消えない。嘘だと暴かれても、信じた時間の重みは消せない。
つまり——餓神の餌は、止まらない。
***
突如、大広間の空気が変わった。温度が上がった。蝋燭の炎が一斉に臥竜山の方角に傾いた。甘い匂いが、床の下から滲み出した。畳の目の隙間から、粘液が這い出してくる。
二階で物音がした。何かが倒れる音。続いて——足音。複数の足音。ぺた、ぺた、ぺた。裸足の足音が天井の向こうを歩いている。空っぽの信者たちだ。
二階の部屋にいた四人が動き出している。階段を降りてくる音が聞こえた。
大広間の襖が——内側から開いた。四人が立っていた。原田。折口。他の二名。全員が同じ虚ろな笑顔を浮かべ、大広間に入ってきた。裸足。パジャマ姿。涎を垂らし、空っぽの目で信者たちを見回している。
四人が同時に口を開いた。祝詞が響いた。
四つの口から、同じ声で、同じ祝詞。しかし重なり合うことで、人間の声ではないものに変質している。低周波のような振動。床が揺れた。壁が震えた。天井の照明がちらついた。
残っていた信者たちがパニックに陥った。悲鳴が上がった。出口に殺到する者。しかし出口の前にも、空っぽの信者が立ちはだかった。いつの間に——三人。施設の別の部屋に収容されていた、新たに空っぽになった信者たちだ。
七人の空っぽの人間が、大広間を囲んでいた。全員が祝詞を唱えている。
原田の体が——裂けた。腹部が縦に割れた。中から赤い肉の花が咲いた。粘膜質の花弁が一枚、二枚と展開し、原田の体から天井に向かって伸びていく。花弁の裏にはびっしりと歯が並んでいた。花が開ききると、中央の筒状の部分が喉のように蠕動し、赤ん坊の泣き声に似た甲高い音を発した。
折口も裂けた。他の二名も。次々に体が開き、肉の花が咲く。大広間に七本の肉の花が聳え立ち、天井に触れ、触れた場所の天井材が腐り始めた。信者たちが逃げ惑う中、黒崎は朋美の腕を掴んだ。
「走れ。外に出ろ」
朋美を出口に向かって押し出し、他の信者たちも追い立てた。肉の花には近づかない。花弁に触れれば——喰われる。全員を施設の外に出した。
駐車場に立ち、施設を振り返った。建物の窓から赤い光が漏れていた。肉の花が発光している。甘い匂いが外にまで溢れ出し、駐車場を覆っていた。
信者たちは散り散りに逃げていった。車で、徒歩で。泣きながら。叫びながら。
残ったのは、黒崎と朋美だけだった。
***
二時間後。丹生組長から電話が入った。
「剛。何をしたんじゃ」
「教団を畳みました」
「……聞いとる。信者の前でヤクザじゃ言うてばらしたそうやな」
「はい」
「組に来い。今すぐ」
丹生組の事務所。黒崎が入ると、組長の他に幹部が三名いた。木村若頭。坂本。そしてもう一人、黒崎と同格の若頭補佐・井上。丹生は椅子に座り、黒崎を見下ろしていた。
「けじめをつけろ」
丹生の声は静かだった。怒鳴らない。この男が最も怖いのは、静かなときだ。指を詰めさせた上で破門にするのは、極道の作法から逸脱している。それほどの怒りだということだ。怒鳴らない。この男が最も怖いのは、静かなときだ。
「月に一千万のシノギを、お前の独断で潰した。組への背任じゃ。指一本で済む話やないぞ」
黒崎は正座していた。
「親父。教団を続けとったら、もっと被害が出ます。信者だけやない。組の人間にも。山根はもう——」
「山根がどうした」
「死にました」
事務所が静まった。
「死んだ。あの教団で起きとることに巻き込まれて、死にました。入院やない。死んだんです」
丹生の表情は変わらなかった。
「死因は」
「説明できません。しかし——あの施設で起きとることは、人間の手に負えるもんやありません」
丹生が立ち上がった。机の上から鉈を取った。
「左手を出せ」
黒崎は左手を差し出した。丹生が鉈を振り下ろした。
小指が飛んだ。
痛みが遅れてきた。骨を断つ振動が手首まで響き、一拍遅れて熱い痛みが指の付け根から噴き上がった。血が畳に落ちた。
黒崎は声を上げなかった。歯を食いしばり、血が垂れる左手を膝の上に戻した。
畳の上に転がった小指から——血が出ていた。赤い、普通の血だ。
しかし数秒後、血に混じって別のものが滲み出した。黒い粘液だ。切断面から赤い血と黒い粘液が同時に流れ、畳
の上で渦を巻いた。
指が動いた。切断された小指が、畳の上で——動いた。
虫が足を動かすように、指がぴくりと跳ねた。そして這い始めた。切断面を地面に擦りつけ、血と粘液の跡を残しながら、畳の上を這っている。
方角がある。指はまっすぐ、臥竜山の方角に向かって這っていた。事務所の全員が凍りついた。木村が一歩後ずさった。坂本が声を上げかけ、口を手で押さえた。井上は指から目を逸らせなかった。
丹生が——鉈を持ったまま、指を見ていた。
指の切断面から歯が生えた。小さな、白い歯が、肉の中からゆっくりと突き出してきた。三本。四本。切断面が口になろうとしている。黒崎は立ち上がり、自分の指を踏んだ。
靴底の下で歯が砕ける感触があった。踏み潰した指は動きを止め、黒い粘液を染み出させて、静かになった。
黒崎は丹生を見た。
「これでも、まだシノギを続けろ言うんですか。親父」
丹生の顔から血の気が引いていた。六十二年間、この男が恐怖の顔を見せたことはなかった。人を脅し、殴り、指を詰め、時には命を取ってきた男だ。暴力の世界で頂点に立ち、恐怖を与える側にだけいた男だ。その丹生が、畳の上の潰れた指を見て、唇を震わせていた。
「……出ていけ」
丹生は鉈を机に置いた。
「破門じゃ。お前は今日から丹生組の人間やない。二度と顔を見せるな」
「はい」
黒崎は一礼し、事務所を出た。左手の切断面にハンカチを巻きつけ、血を止めた。痛みは続いている。しかし痛みがある方がいい。痛みは人間の証だ。
***
事務所を出て十分後、携帯が鳴った。戸田書店の店主からだった。
「黒崎さん。臥竜山の霧が——濃くなっとる。麓まで降りてきとる。今夜中にも町に達するかもしれん」
「封印が——」
「限界じゃ。あんたが信者の前でぶちまけて、教団は壊れた。しかし信仰は壊れとらん。残った者がおるんじゃろう。信じ続けとる者が」
朋美の顔が浮かんだ。「信じるのをやめろと言われてもやめられない」と言った朋美。
「信仰が続く限り、あれは力を持ち続ける。そして封印が完全に解けたら——この町ごと喰われる。折居集落と同じことが、六千人の町で起きる」
「今夜、山に登ります」
「正気か。夜の臥竜山は——あれの体内と同じじゃ」
「待っとる余裕がない。霧が町に降りたら終わりじゃ。今夜しかない」
店主が沈黙した。
「……逆の詞は持っとるな」
「持っとります」
「もう一つ。封じるためには、あれに味見をさせにゃならん。自分の体の一部を、あれに喰わせる。修験者たちは
血を磐座に注いだ。あれが血の味に気を取られとる隙に、逆の詞で封じた。ただし——味見された部分は二度と戻らん」
「分かっとります」
「死ぬかもしれんぞ」
「ヤクザに戻る場所もない。逃げる場所もない。なら前に行くしかないでしょう」
電話を切った。車に乗り込んだ。自宅のマンションに寄り、山根の皮を毛布ごと持ち出した。何のためか、自分でも分からない。しかし山根を残していくことができなかった。
トカレフを腰に差した。残弾四発。化け物には効かない。しかし人間の追手には効く。丹生が追手を出す可能性がある。破門した人間が組の秘密を握ったまま消えることを、丹生は許さない。
車を発進させた。臥竜山の登山口に向かう。夜の国道を走りながら、バックミラーを確認した。後ろに車がいた。二台。ヘッドライトが追ってきている。
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