餓神

よん

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臥竜山

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 臥竜山の登山口に車を停めたのは午後十時だった。

 霧が出ていた。山の頂から滝のように霧が降りてきている。登山口の駐車場にも霧が流れ込み、車のヘッドライトが白い壁に変わった。

 黒崎は車を降りた。山根の皮を背負った。毛布で包んだそれを、リュックのように背中に縛りつけた。懐中電灯。トカレフ。逆の詞を書き写した紙。ナイフ。

 登山道に足を踏み入れた。霧の中に入った瞬間、世界が変わった。音が消えた。車のエンジン音も、虫の声も、風の音も。霧が音を吸収している。黒崎自身の足音すら、綿に包まれたように鈍い。

 甘い匂いが濃い。空気そのものが甘い。呼吸するたびに、甘さが肺に染み込んでくる。携帯電話を確認した。圏外。電波が通じない。懐中電灯を点けた。光が霧に散乱し、三メートル先が限界だった。山道を登り始める。

***

 三十分後。背後から、足音が聞こえた。複数。三人。重い足音。走っている。

黒崎は振り返った。霧の中から、三つの影が現れた。丹生組の若い衆だった。黒崎は三人の顔を知っていた。木下。安藤。渡辺。いずれも二十代。鉄砲玉にされやすい年齢だ。

 木下が前に出た。手に包丁を持っている。

 「黒崎の兄貴。悪いですが——親父の命令です」
 「追手か」
 「帰ってきてもらえれば穏便に済みます。帰らんのなら——」

 木下が包丁を構えた。黒崎はトカレフを抜いた。

 「来るな。お前らに構っとる暇はない。この山にはお前らの包丁なんぞ屁でもない化け物がおる。帰れ」
 「そうはいきません」

 三人が散開した。囲もうとしている。黒崎は銃を木下の足元に向け、撃った。乾いた銃声が霧に呑まれた。弾丸が地面を跳ね、木下が飛び退いた。安藤が横から回り込もうとした。黒崎はそちらにも一発撃った。安藤の足元で泥が弾けた。

 「次は当てる。帰れ」

 三人が躊躇した。しかし退かない。丹生の命令に背けば、自分たちが制裁を受ける。そのとき、足元が変わった。安藤が「うっ」と声を上げた。足元を見下ろしている。

 地面から——舌が生えていた。赤い舌が、土の中から草のように伸びている。一本ではない。何十本も。登山道の土から、赤い舌が無数に突き出し、空気を舐めている。
安藤の足首に舌が巻きついた。

 「何じゃこれ——何じゃ——」

 安藤が足を振り、舌を引き剥がそうとした。舌は粘りつき、離れない。二本目が巻きつく。三本目。両足を舌に絡め取られ、安藤が倒れた。

 地面に倒れた安藤の全身に、舌が群がった。何十本もの赤い舌が、安藤の顔、首、腕、胸を這い回り、舐め始めた。

 安藤の叫び声が——変わった。恐怖の叫びが、別の種類の声に変わっていった。喘ぎ声だ。安藤の全身を舐め回す舌が、何かを安藤の体に注入している。安藤の目が白目を剥き、口が半開きになり、体が痙攣した。快楽の痙攣だった。

 十秒で終わった。舌が安藤から離れた。土の中に引っ込んでいく。安藤は仰向けに横たわっていた。目が開いている。笑っている。口から涎が垂れている。空っぽだった。
木下と渡辺が悲鳴を上げた。二人とも包丁を捨て、来た道を駆け戻ろうとした。

 霧の中に消えていった。黒崎は安藤を見下ろした。笑顔のまま空っぽになった若い衆。助ける術はない。

 背中の山根が重い。登り続けた。

***

 山の中が変わっていた。登山道の両側の木々がおかしい。幹が濡れている。粘液で覆われている。触れると温かく、脈動している。木ではない。臓器に似た質感だ。
枝に何かが掛かっている。懐中電灯を向けた。

 人の皮だった。

 木の枝に、乾いた人の皮が掛けられている。干物のように。風が吹くたびに皮がばたばたと鳴った。薄く乾いた膜が風をはらみ、不規則にはためく。その音が——祝詞のリズムに聞こえた。ぱた、ぱたた、ぱた。繰り返すうちに、本当に人の声に聞こえてくる。

 一枚ではなかった。木々の枝に、何枚も、何十枚も、人の皮が干してあった。風が通るたびに一斉にはためき、森全体が祝詞を唱えているように響いた。風鈴の代わりに人の皮が並ぶ、地獄の回廊だった。

 黒崎は足を止めずに進んだ。地面が変わった。土ではない。硬い。白い。歯だった。地面から歯が生えていた。人間の歯と同じ形をした白い突起が、地面全体を覆い尽くしている。草の代わりに歯が生えている。歯の間から唾液に似た粘液が滲み出し、地面をぬるぬるにしている。

 歯を踏んで歩く。歯は硬いが、体重をかけると微かに沈む。生えている。生きた肉の上に生えている。足の裏に、地面の温もりと弾力が伝わってくる。口の中を歩いている——この山の地面そのものが、口の中だ。

 黒崎は臥竜山の口の中を歩いている。岩があった。登山道の脇の岩。岩の表面に——顔があった。

 人の顔だ。岩に浮き彫りにされたのではない。岩の表面に、人の顔のパーツだけが貼りついている。目。鼻。口。目はまだ動いていた。瞬きしている。口は微かに開閉し、祝詞を呟いている。

 一つではなかった。岩のあちこちに顔が貼りついている。十も二十も。すべてが目を動かし、口を動かしている。過去に喰われた者たちの残骸だ。

 顔の口が開いていた。唇の間から、もう一つ別の顔が這い出そうとしている。半分だけ出た顔がこちらを見ている。その顔もまた、口を開けていた。

 黒崎は目を逸らさなかった。見ている。全部見ている。恐怖は超えていた。山根の皮を背負った時点で、恐怖の閾値を突破していた。ここにあるものは、すべてがあれの仕業だ。あれを封じれば終わる。封じるために登っている。それだけだ。

 懐中電灯の光の先に——人影があった。黒崎は足を止めた。

 木々の間に裸の女が立っていた。絹江だった。
 
 絹江の体は半分が人間で、半分が樹だった。足元から根が伸びていた。足の指が木の根のように分岐し、地面に潜り込んでいる。膝から下は樹皮に覆われ、太腿から上に人間の肌が残っている。

 腹が大きく膨らんでいた。臨月の妊婦のように。腹の表面を手形や顔の輪郭が走っている。中のものが皮膚を押し上げ、浮かんでは消える。

 絹江の肌から——肉の花が咲いていた。背中から二輪、左肩から一輪、右腕から一輪。花弁は粘膜質で、濡れて光っている。花弁の表面に目があった。一枚一枚の花弁に、蛾の翅の模様のように、黒い目が一つずつ開いている。すべての目がこちらを見ていた。

 絹江が黒崎を見て微笑んだ。美しかった。

 毛穴のない白い肌。赤い唇。艶やかな黒髪が腰まで流れている。肉の花を咲かせ、腹に何十もの何かを孕み、足が樹の根になっていてもなお、絹江は美しかった。それが最も恐ろしいことだった。

 「来てくれたのね、教祖様」
 「絹江さん。何をしとるんじゃ」
 「あの方のところに来たの。あたしは——もうあの方の一部。でもね、あたし幸せよ。生まれて初めて、あたしを丸ごと欲しがってくれる方に出会えたんだから」
 「戻ろう。山を下りよう。まだ間に合うかもしれん——」
 「間に合わなくていい」

 絹江の目が黒く変わった。瞳孔が眼球全体を覆う、あの真っ黒な目。

 「あたしはもう戻りたくない。あんたもそうでしょう、教祖様。背中のあの目——あの方があんたにくれた目。あんたも、もう半分はあの方のものよ」

 背中が疼いた。文様の中の目が、絹江の言葉に応えるように動いた。

 「さよなら。絹江さん」

 黒崎は絹江の横を通り過ぎた。背中に声がかかった。

「教祖様。あの方は——あんたを待っとるよ」

 振り返らなかった。
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