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第三章 春
Order25. 憧れの人 《前編》
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参考:「Order16.」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5852476
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七月も下旬の昼下がり。都会の片隅の裏通りに静かに佇む珈琲専門店。今日もガランという鈴の音を鳴らし、幾度目かの扉が開かれた。
「こんにちは」
「やあ、久しぶり」
青年がカウンターから顔を覗かすと、入口辺りに立っているヒョロリとした守村昇一の姿があった。進学高校の三年生で、受験戦争真っ只中にいる少年だ。彼は、少しだけ気まずそうな顔をしている。
「どうぞ。何にする?」
青年がカウンターの席を勧めた。昇一はおずおずと入口からふたつ目のカウンター席に座ると、「すいません。……アイスコーヒーを」と覇気のない声で答えた。
他に客は、テーブル席に年配の男性がひとり。持ち込んだ週刊誌を真剣な目で読んでいる。いつもの場所に、ピアノ弾きの少女の姿は見えない。
「そうか。もう学校は夏休みだっけ」
「はい。夏期講習に塾に……益々勉強勉強の毎日です」
少し自虐的とも思える口調で言う昇一に青年は、「どう、あれから」と、挽きたてのコーヒー豆をドリッパーにさらさらと落としながら尋ねた。
梅雨入りする前なのでもう二ヶ月程前の事だ。昇一が前回店に来た時、彼のお母さんが彼を呼び戻しに店に押しかけ、ちょっとしたトラブルになりかけたのだった。青年の機転でなんとかその場は治まったものの、昇一は母に言われるまま店を去り、今日まで気まずい想いをしていたに違いない。相変わらずやつれた病弱そうな表情の彼は、両手を膝の上に礼儀正しく置いたままだ。
「この間は本当にすいませんでした。お店に迷惑かけてしまって……」
「気にしなくていいよ。来てくれて嬉しいんだ」
カウンターから、コーヒーの良い香りが漂ってきた。青年は手元に視線を落としながらも、優しい笑みを浮かべた。昇一は、青年の笑顔を受けて口元をきゅっと結んだ。やはりまだどこか思い詰めているようで、彼は奇妙な間を作った後にぼそっと言った。
「……ボク、家を出ようかと思ってるんです」
「え、そうなの?」
青年が少し驚いたように顔を上げた。
「はい。あのままあの家にいたら、ボク、きっとだめになるような気がして……」
「お母さんには?」
「まだ何も。言えば間違いなく猛反対されますから。もちろん、お金の事もあるし……」
「そうだね。説得しなきゃ、連れ戻されるだろうし」
「……でも、決めたんです。あの家にいたら、息が詰まって……勉強も思うように身が入らないし、頭がおかしくなりそうで……」
昇一は固く拳を握り締めると、ゆるく頭を振った。
「そうか……。それで、行く先はあるの?」
「いえ、それもまだ。これからなんです」
「そっか」
「マスター、ごちそうさん。ここに置いとくよ」
その時、年配の客は小銭をテーブルに置き、席を立った。
「あ、毎度。またよろしく」
「あんたがいなくなるまでに、もう一度顔見に来るよ」
そう言って男性は雑誌を頭の辺りでヒラヒラと振りながら出て行った。店内は静まり返り、香ばしいコーヒーの香りが昇一の鼻をくすぐる。昇一はお客の言った言葉の意味がわからず、不思議そうな顔をしている。青年は氷の入った背の高いグラスにコーヒーを注ぎ、「お待たせ」と言って昇一の前に出した。彼は、しばらくその濃い琥珀色を意味もなく眺めていたが、意を決したように青年を見上げ、少し大きめの声で言った。
「あの!」
青年が再び顔を上げる。昇一の顔は、緊張で強張っていた。
「……ボクをここで……住み込みで雇って貰えませんか?」
真夏を象徴するセミの鳴き声が、ぐゎんぐゎんと空一面を覆うように響いている。
ふたりは店の裏手の路地にいた。店の扉には『準備中』の札が掛けられている。青年は店の壁にもたれ、いつものように煙草を銜えると、マッチで火を点けた。そうしてホッとしたように、一度だけゆっくり煙を吐く。
なんて煙草の似合う人なんだろう。禁煙モード一色の現代に、肩身の狭い想いもあるだろうに。昇一は緊張しながらも、ぼんやりとそんな事を思った。
青年は、七月の熱された空気に溶け込んでいく煙を見送ると、やっと落ち着いた、とでもいうような、昇一とは対照的な表情で振り向いた。
「僕、もうすぐ旅に出るんだよ」
「え、旅?」
それまで手持ち無沙汰のように突っ立っていた昇一は、きょとんとした目で青年の顔を見つめた。
《後編に続く》
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5852476
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七月も下旬の昼下がり。都会の片隅の裏通りに静かに佇む珈琲専門店。今日もガランという鈴の音を鳴らし、幾度目かの扉が開かれた。
「こんにちは」
「やあ、久しぶり」
青年がカウンターから顔を覗かすと、入口辺りに立っているヒョロリとした守村昇一の姿があった。進学高校の三年生で、受験戦争真っ只中にいる少年だ。彼は、少しだけ気まずそうな顔をしている。
「どうぞ。何にする?」
青年がカウンターの席を勧めた。昇一はおずおずと入口からふたつ目のカウンター席に座ると、「すいません。……アイスコーヒーを」と覇気のない声で答えた。
他に客は、テーブル席に年配の男性がひとり。持ち込んだ週刊誌を真剣な目で読んでいる。いつもの場所に、ピアノ弾きの少女の姿は見えない。
「そうか。もう学校は夏休みだっけ」
「はい。夏期講習に塾に……益々勉強勉強の毎日です」
少し自虐的とも思える口調で言う昇一に青年は、「どう、あれから」と、挽きたてのコーヒー豆をドリッパーにさらさらと落としながら尋ねた。
梅雨入りする前なのでもう二ヶ月程前の事だ。昇一が前回店に来た時、彼のお母さんが彼を呼び戻しに店に押しかけ、ちょっとしたトラブルになりかけたのだった。青年の機転でなんとかその場は治まったものの、昇一は母に言われるまま店を去り、今日まで気まずい想いをしていたに違いない。相変わらずやつれた病弱そうな表情の彼は、両手を膝の上に礼儀正しく置いたままだ。
「この間は本当にすいませんでした。お店に迷惑かけてしまって……」
「気にしなくていいよ。来てくれて嬉しいんだ」
カウンターから、コーヒーの良い香りが漂ってきた。青年は手元に視線を落としながらも、優しい笑みを浮かべた。昇一は、青年の笑顔を受けて口元をきゅっと結んだ。やはりまだどこか思い詰めているようで、彼は奇妙な間を作った後にぼそっと言った。
「……ボク、家を出ようかと思ってるんです」
「え、そうなの?」
青年が少し驚いたように顔を上げた。
「はい。あのままあの家にいたら、ボク、きっとだめになるような気がして……」
「お母さんには?」
「まだ何も。言えば間違いなく猛反対されますから。もちろん、お金の事もあるし……」
「そうだね。説得しなきゃ、連れ戻されるだろうし」
「……でも、決めたんです。あの家にいたら、息が詰まって……勉強も思うように身が入らないし、頭がおかしくなりそうで……」
昇一は固く拳を握り締めると、ゆるく頭を振った。
「そうか……。それで、行く先はあるの?」
「いえ、それもまだ。これからなんです」
「そっか」
「マスター、ごちそうさん。ここに置いとくよ」
その時、年配の客は小銭をテーブルに置き、席を立った。
「あ、毎度。またよろしく」
「あんたがいなくなるまでに、もう一度顔見に来るよ」
そう言って男性は雑誌を頭の辺りでヒラヒラと振りながら出て行った。店内は静まり返り、香ばしいコーヒーの香りが昇一の鼻をくすぐる。昇一はお客の言った言葉の意味がわからず、不思議そうな顔をしている。青年は氷の入った背の高いグラスにコーヒーを注ぎ、「お待たせ」と言って昇一の前に出した。彼は、しばらくその濃い琥珀色を意味もなく眺めていたが、意を決したように青年を見上げ、少し大きめの声で言った。
「あの!」
青年が再び顔を上げる。昇一の顔は、緊張で強張っていた。
「……ボクをここで……住み込みで雇って貰えませんか?」
真夏を象徴するセミの鳴き声が、ぐゎんぐゎんと空一面を覆うように響いている。
ふたりは店の裏手の路地にいた。店の扉には『準備中』の札が掛けられている。青年は店の壁にもたれ、いつものように煙草を銜えると、マッチで火を点けた。そうしてホッとしたように、一度だけゆっくり煙を吐く。
なんて煙草の似合う人なんだろう。禁煙モード一色の現代に、肩身の狭い想いもあるだろうに。昇一は緊張しながらも、ぼんやりとそんな事を思った。
青年は、七月の熱された空気に溶け込んでいく煙を見送ると、やっと落ち着いた、とでもいうような、昇一とは対照的な表情で振り向いた。
「僕、もうすぐ旅に出るんだよ」
「え、旅?」
それまで手持ち無沙汰のように突っ立っていた昇一は、きょとんとした目で青年の顔を見つめた。
《後編に続く》
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