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《 五 》

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 ある日、「ただいま」と言ったこだまが酷く不安そうな面持ちを霧子へ向けた。隠していた何かを悟られてしまったと、霧子はびくりとして後退ったら、こだまに腕を握られた。
 霧子はそのまま抱き寄せてくれればいいのにと思ったが、こだまはそれをしなかった。
「霧ちゃん、そろそろ一緒に行こう?」
 じっと自分の目を見つめるこだまから霧子は目が離せない。こだまに見つめられればいつだって吸い込まれてしまう。
「どこ、へ?」
 絞り出して震えた声がまるでしわがれているように霧子は感じた。劣等感。この頃の霧子は、こだまを思うがばかりに自身に対する劣等感ばかりを増やしていた。
「霧ちゃん、外に出るのは怖い?」
 こだまの問いに、霧子は頷くことも首を振ることも出来なかった。消えてなくなりたい、愛する闇に溶けてしまいたい、そんなことが頭の中でぼんやりとした意志を持って響いた。
「この間の翁草、綿毛になってたよ。約束したでしょう。一緒に見ようって」
 こだまの声は子供をあやすような優しいものだった。
 霧子の姿は限りなく老婆のような体であった。
「さあ、見に行こう」
 するとこだまは霧子を初めて抱き寄せた。
 霧子は体中が闇ではなくて真っ白なもので埋め尽くされたような感覚を覚えながら、闇が遠くへ行ってしまったような気分を覚えた。闇夜の度に部屋に溢れる綿毛たちが自身の体へ入り込み、空へ向かいたくないと言っているようであった。



 こだまに手を引かれながら歩いた道中は闇の中であるはずなのにまるで心地が良くない。こだまの手の感触だけが現実味を霧子へ与えていた。少し行ったところにあるはずの川縁がひどく遠い場所のように感じた。
 どれだけ歩いただろうか、霧子は気が遠くなりそうだった。ランタンで道を照らしながら、こだまは何も言わずに霧子の手を引いて歩き続けている。
 と、突然こだまが立ち止まり、霧子はふらっと足を縺れさせた。
 こだまの手から擦り抜けた自分の手と目の前にあるこだまの綺麗な手を見比べたら、涙が溢れた。二度とその手に触れられない、霧子はそんな直感を抱くと、「置いていかないで」とこだまに懇願していた。
こだまは霧子を置いて先へ歩み出そうなど思ってもいなかった。
 こだまは待っていただけだった。
 ずっと霧子を待っていただけだった。
 黒を愛する霧子が、闇を纏う自分と同じとなることを待っていただけだった。
 刹那、大量の綿毛が二人を囲んでいた。
 闇の中で真っ白くふわふわと揺れていた。
 それから、ふわりふらりと宙へ舞い出した。
「見て、霧ちゃん」
 涙に濡れた顔で霧子は辺りを見回した。
「これがね、僕たちの約束だよ」
 じきに全ての綿毛が何処かへ揺れながら消えていった。
 残ったのは闇だけ。こだまの持つランタンだけが、温かな灯りをもって二人を照らしている。
「霧ちゃん、ずっと一緒にいてくれるかい?」
 崩れたままの霧子の目を、屈み込んだこだまがじっと見つめた。霧子はこだまに見つめられたら吸い込まれるしか方法を知らない。深い闇のようなこだまの瞳に吸い込まれた。
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