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第22話 地平に溶ける凄惨(せいさん)の月
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救護舎では早くも半分ほどの壁が作り終えられていた。と言っても、壁に用いられた布に新品の物など一つもなく、破けた穴からは冷たい夜風が吹き込んでくる。傷負い疲弊した身体にはさぞ応えるだろう。
「うううう……、寒い……。早く、ご飯配らなくちゃ」
袖口やらから吹き込む夜風に身震いしながら、テララはまず両腕に当て木された怪我人の傍らに座った。
「あ、あの、お夕飯持ってきました。食べられそうで――」
「うぐぐっ……、うがあああああ!!!? ふざけるなああああ!!!!!!!!」
「――キャッ!?」
一体何を間違えたというのか。寝込みや死角から急に声をかけた訳ではない。テララは努めて物静かにその者に食事を勧めただけだけだ。
それだというのに、その男は突然大きな唸り声を上げて、振り上げた腕をもってテララを薙ぎ倒した。
――アツッ!?
その弾みでスープが溢れ、細い手が真っ赤に腫れる。
「この腕で! この……どうやって仕事ができるって言うんだ……!! どうやって……、どうして……! 守ろうと……したんだ……。なのに、なのに俺だけが……! 俺だけ……うぐっ。こんな腕っっっっ!!!?」
「……あ、あの……、また新しいの運んできますね。その……、私がお口まで運べば食べ――」
「いいからっ!! 放っておいてくれっ!!!!!!!!」
自分の言葉に嘘はつきたくない。テララは焼けるような熱さを必死で堪えながら、努めて穏やかに笑顔を向けた。
けれど、その男性の荒ぶる後悔と自責の怒号に、そんなもの通用しなかった。全く届かなかった。それは返って男を苛ませるだけだった。
その生涯全てを呪い憎しむ叫びに気圧されるまま、少女はかける言葉も、固めたばかりの意思も見失って一度調理場へと戻っていった。
「おや、早かったね。もう1人目終わったのかい?」
「……あっ、いえっ!? えっと……、運ぶ途中でつまづいて溢しちゃって……。注ぎ足してもらいに……」
「ああ、そういうことかい。火傷しなかったかい?」
「――へ、平気です!」
咄嗟に後ろ手に隠した手を握り締めた。
「あれが来た後だったから歩きづらかったでしょ? 悪いね、さっきは少し多くよそいすぎちゃったかね」
「そ、そんなことは……ない……です……」
だめ……。我慢しなくちゃ……。
「少しくらい溢れちまっても、まだまだあるから全然気にしなくていいからね。急がなくたっていいんだ。テララちゃんのやりやすいようにゆっくりとね。……はあい。それじゃまたお願いね?」
「すみません……。あ、ありがとうございます……!」
――気持ち悪い……。
未熟な決意。繕った善意。村の深刻な現状。理不尽な仕打ち。分け隔てない優しさ。
何一つちゃんと向き合えないまま。息を吐くように付いた惨めな嘘。
――すごく気持ち悪い……。
今にもその深緑の瞳は滲み曇ってしまいそうだった。
きっと調理場に戻った際の顔もろくに誤魔化せていなかったのだろう。少しだけ明るさの増したムーナの声色が、今のテララには苦しかった。
こんなつもりじゃなかったのに……。ううん。まだ……。まだ、諦めちゃだめ……!
とめどなく溢れてきた自分の弱さ。膿のように何度振り払っても滲み出てくるそれを奥歯でぎゅっと噛みしめて、テララはもう一度救護舎へと爪先を向けた。
気を取り直して、今度は先程の向かい側で横になる村人の下に食事を運ぶことにした。
何がいけなかったんだろう。もう少し静かに話しかけたらよかったのかな? 今度は上手くできるかな……。また、怒られるかな……。
「あの、お夕飯……、持ってきました。よ、よかったら食べて、下さい……」
失敗に捕らわれて、答えのない自問を繰り返す。そんな状態で相手の顔も見ずにかけた声には、気弱さが残ったままだった。食事を持った手が微かに震えている。発せられた言葉から、幾分相手への配慮が薄れてしまう。
情けない。声が全然張れない。顔も見れないなんて……。
誰かを気遣う気持ちより、自分の心配ばかり。憂うつな影が小さな胸内にまたその影を伸ばしてゆく。
「……ああ、ありがとう。その、気が沈んでしまってるところすまないけど、食べさせてくれはなしいかな?」
それは思いがけない言葉だった。期待することすら忘れてしまっていた言葉だった。
いたって平凡でありきたりなのに、随分と遠回りをしたような感覚。そのほんの些細な一言が、無意識に食事だけを置いてその場から去ってしまおうと背を向けた少女の影を払ってゆく。
テララは涙ぐんだ瞳を見開いて固まってしまった。
「…………え? 今……、何て……?」
聞き間違いだったかもしれない。知らない内に弱さに甘えた自分が望んだだけかもしれない。そんな不安が少女らしさを閉じ込めて放さなかった。
一度息を深く吸い呼吸を整える。自分の歩幅でゆっくりともう一度。そうして糸くずくらいにちっぽけになった自分らしさを握り締めて、テララはその方に向き直った。でもだめだ。まだその者の顔を真直ぐ見られそうにない。
「……ああ、いや。余裕があればでいいんだよ。食事を手伝ってもらいたいんだ」
「その……私でもよければ、お手伝い……します……」
「優しいんだね。ありがとう。私はドーテと言うんだ。その声はえっと……」
「テ、テララです……」
「ああ、チサキミコ様の妹さんか。情けないことに眼をやられてしまってね。君の顔を見るどころか、自分の身体が今どうなっているかさえ分からないんだ。気が付かなくてごめんよ」
優しくかけられた声のとてつもない違和感。
固い木の実の殻がひび割れる。そんな鋭い衝撃が頭の天辺から胸の中。自分大事さで蹲っていたテララを貫いた。
その男性の言葉に、はたと視線を引き寄せられた瞬間。目に飛び込んだその状態にテララは思わず息を詰まらせた。
顔面を赤黒く汚れた帯で何重にも巻かれた痛々しい姿がそこにはあった。両眼があるはずの箇所が大きく窪んでいる。恐らくはもう。惨いことに、右腕と左膝から下も見当たらなかった。
「さっき、向こうで怒鳴られていたのも.その、君かい?」
「……えっ!? あ、はい……」
「そうか。それは気の毒だったね……。顔が見えないから当てずっぽうになってしまうんだけど。向かい側の人.染工のコールさんじゃないかな?」
「確か、そうだったと思います……」
「さっきの様子だと腕を痛めたのかな? あの人、とても仕事熱心な人だってよく聞いてたから。それにあれの所為で奥さんまで……。ずいぶんと気が滅入っただろうね。大声で取り乱してしまうのも分かる気がするよ」
「そう……、だったんですね……」
まだ赤みの引かない手が疼いた。
「根はすごく真面目で、繊細な人なんだそうだ。だから、……今回のことは、あまり悪く思わないであげてほしい」
「…………は、い……」
「だから、テララちゃん。君は何も悪いことなんてないんだ。こうして怪我した僕らに食事を運んでくれる。むしろ感謝したいくらいなんだよ。本当に、ありがとう」
「……い、いいえ……。そんな……。あ、ありがとう……ございます……」
顔が見えない。そのはずなのに、ドーテの表情はとても優しく、怯え強張ってしまっていた少女の怖気をそっと語りほぐしていった。
「僕もここに運ばれて手当てを受けるまでは、彼のように混乱してたから分かるんだ……。とは言っても、僕は彼のように何か手に職を持っていたわけでもない。ただの独り身だったから、諦めがついただけなんだろうけどね……痛ててて……!?」
「あ、無理に起きようとしなくてもっ! 今、お口まで運びますね?」
この惨状では度々忘れられてしまう人の温かさに、普段の調子を少しずつ取り戻す。まだ若干潤みがちではあったが、深緑の目はもう俯くことはなかった。その逃れようのない現実から背けることなく、今度はちゃんと自分にできることを見据えている。そんな目をしている。
テララは膝の上に彼の頭を置きながら、十分に冷ませたスープを汚れた帯の間から口元に運んでやった。
その視界の片隅では、クス爺が汗を噴き上げながら施術を施しているのが見えた。死期迫る村人たちをなんとか生き永らえさせようと独り猛然と闘っている。
クス爺、無事だったんだ。よかった……。1人でみんなの傷を診て回ってるんだ。私も、まだ諦めちゃだめだよね。 こんな惨事だからこそ、良く見知った姿一つ見られただけで救われる。怖くないと言えば嘘になるかもしれない。それでも随分落ち着いた眼差しで、テララはドーテの食事をスープが空になるまで手伝ってやった。
食事の後、ドーテは一言礼を添えると、とても穏やかな表情で眠りに就いたようだった。
それからテララは臆する素振りは見せなかった。クス爺の背中を追うように、術後の怪我人の下に懸命に食事を運び続けた。
理不尽な罵声を浴びようと。いたたまれない有様で、碧い炎が燻り泣き喚かれようと。五体満足な身体の自分に何度自己嫌悪しても、テララは滲む目元を拭って、逞しく介抱を続けた。
それは、灰白色の月がもう少しで地平の彼方へ隠れてしまうほど、辺りに鳴り響いていた叫喚や叱責の声がすっかり寝静まる頃まで続いた。
「うううう……、寒い……。早く、ご飯配らなくちゃ」
袖口やらから吹き込む夜風に身震いしながら、テララはまず両腕に当て木された怪我人の傍らに座った。
「あ、あの、お夕飯持ってきました。食べられそうで――」
「うぐぐっ……、うがあああああ!!!? ふざけるなああああ!!!!!!!!」
「――キャッ!?」
一体何を間違えたというのか。寝込みや死角から急に声をかけた訳ではない。テララは努めて物静かにその者に食事を勧めただけだけだ。
それだというのに、その男は突然大きな唸り声を上げて、振り上げた腕をもってテララを薙ぎ倒した。
――アツッ!?
その弾みでスープが溢れ、細い手が真っ赤に腫れる。
「この腕で! この……どうやって仕事ができるって言うんだ……!! どうやって……、どうして……! 守ろうと……したんだ……。なのに、なのに俺だけが……! 俺だけ……うぐっ。こんな腕っっっっ!!!?」
「……あ、あの……、また新しいの運んできますね。その……、私がお口まで運べば食べ――」
「いいからっ!! 放っておいてくれっ!!!!!!!!」
自分の言葉に嘘はつきたくない。テララは焼けるような熱さを必死で堪えながら、努めて穏やかに笑顔を向けた。
けれど、その男性の荒ぶる後悔と自責の怒号に、そんなもの通用しなかった。全く届かなかった。それは返って男を苛ませるだけだった。
その生涯全てを呪い憎しむ叫びに気圧されるまま、少女はかける言葉も、固めたばかりの意思も見失って一度調理場へと戻っていった。
「おや、早かったね。もう1人目終わったのかい?」
「……あっ、いえっ!? えっと……、運ぶ途中でつまづいて溢しちゃって……。注ぎ足してもらいに……」
「ああ、そういうことかい。火傷しなかったかい?」
「――へ、平気です!」
咄嗟に後ろ手に隠した手を握り締めた。
「あれが来た後だったから歩きづらかったでしょ? 悪いね、さっきは少し多くよそいすぎちゃったかね」
「そ、そんなことは……ない……です……」
だめ……。我慢しなくちゃ……。
「少しくらい溢れちまっても、まだまだあるから全然気にしなくていいからね。急がなくたっていいんだ。テララちゃんのやりやすいようにゆっくりとね。……はあい。それじゃまたお願いね?」
「すみません……。あ、ありがとうございます……!」
――気持ち悪い……。
未熟な決意。繕った善意。村の深刻な現状。理不尽な仕打ち。分け隔てない優しさ。
何一つちゃんと向き合えないまま。息を吐くように付いた惨めな嘘。
――すごく気持ち悪い……。
今にもその深緑の瞳は滲み曇ってしまいそうだった。
きっと調理場に戻った際の顔もろくに誤魔化せていなかったのだろう。少しだけ明るさの増したムーナの声色が、今のテララには苦しかった。
こんなつもりじゃなかったのに……。ううん。まだ……。まだ、諦めちゃだめ……!
とめどなく溢れてきた自分の弱さ。膿のように何度振り払っても滲み出てくるそれを奥歯でぎゅっと噛みしめて、テララはもう一度救護舎へと爪先を向けた。
気を取り直して、今度は先程の向かい側で横になる村人の下に食事を運ぶことにした。
何がいけなかったんだろう。もう少し静かに話しかけたらよかったのかな? 今度は上手くできるかな……。また、怒られるかな……。
「あの、お夕飯……、持ってきました。よ、よかったら食べて、下さい……」
失敗に捕らわれて、答えのない自問を繰り返す。そんな状態で相手の顔も見ずにかけた声には、気弱さが残ったままだった。食事を持った手が微かに震えている。発せられた言葉から、幾分相手への配慮が薄れてしまう。
情けない。声が全然張れない。顔も見れないなんて……。
誰かを気遣う気持ちより、自分の心配ばかり。憂うつな影が小さな胸内にまたその影を伸ばしてゆく。
「……ああ、ありがとう。その、気が沈んでしまってるところすまないけど、食べさせてくれはなしいかな?」
それは思いがけない言葉だった。期待することすら忘れてしまっていた言葉だった。
いたって平凡でありきたりなのに、随分と遠回りをしたような感覚。そのほんの些細な一言が、無意識に食事だけを置いてその場から去ってしまおうと背を向けた少女の影を払ってゆく。
テララは涙ぐんだ瞳を見開いて固まってしまった。
「…………え? 今……、何て……?」
聞き間違いだったかもしれない。知らない内に弱さに甘えた自分が望んだだけかもしれない。そんな不安が少女らしさを閉じ込めて放さなかった。
一度息を深く吸い呼吸を整える。自分の歩幅でゆっくりともう一度。そうして糸くずくらいにちっぽけになった自分らしさを握り締めて、テララはその方に向き直った。でもだめだ。まだその者の顔を真直ぐ見られそうにない。
「……ああ、いや。余裕があればでいいんだよ。食事を手伝ってもらいたいんだ」
「その……私でもよければ、お手伝い……します……」
「優しいんだね。ありがとう。私はドーテと言うんだ。その声はえっと……」
「テ、テララです……」
「ああ、チサキミコ様の妹さんか。情けないことに眼をやられてしまってね。君の顔を見るどころか、自分の身体が今どうなっているかさえ分からないんだ。気が付かなくてごめんよ」
優しくかけられた声のとてつもない違和感。
固い木の実の殻がひび割れる。そんな鋭い衝撃が頭の天辺から胸の中。自分大事さで蹲っていたテララを貫いた。
その男性の言葉に、はたと視線を引き寄せられた瞬間。目に飛び込んだその状態にテララは思わず息を詰まらせた。
顔面を赤黒く汚れた帯で何重にも巻かれた痛々しい姿がそこにはあった。両眼があるはずの箇所が大きく窪んでいる。恐らくはもう。惨いことに、右腕と左膝から下も見当たらなかった。
「さっき、向こうで怒鳴られていたのも.その、君かい?」
「……えっ!? あ、はい……」
「そうか。それは気の毒だったね……。顔が見えないから当てずっぽうになってしまうんだけど。向かい側の人.染工のコールさんじゃないかな?」
「確か、そうだったと思います……」
「さっきの様子だと腕を痛めたのかな? あの人、とても仕事熱心な人だってよく聞いてたから。それにあれの所為で奥さんまで……。ずいぶんと気が滅入っただろうね。大声で取り乱してしまうのも分かる気がするよ」
「そう……、だったんですね……」
まだ赤みの引かない手が疼いた。
「根はすごく真面目で、繊細な人なんだそうだ。だから、……今回のことは、あまり悪く思わないであげてほしい」
「…………は、い……」
「だから、テララちゃん。君は何も悪いことなんてないんだ。こうして怪我した僕らに食事を運んでくれる。むしろ感謝したいくらいなんだよ。本当に、ありがとう」
「……い、いいえ……。そんな……。あ、ありがとう……ございます……」
顔が見えない。そのはずなのに、ドーテの表情はとても優しく、怯え強張ってしまっていた少女の怖気をそっと語りほぐしていった。
「僕もここに運ばれて手当てを受けるまでは、彼のように混乱してたから分かるんだ……。とは言っても、僕は彼のように何か手に職を持っていたわけでもない。ただの独り身だったから、諦めがついただけなんだろうけどね……痛ててて……!?」
「あ、無理に起きようとしなくてもっ! 今、お口まで運びますね?」
この惨状では度々忘れられてしまう人の温かさに、普段の調子を少しずつ取り戻す。まだ若干潤みがちではあったが、深緑の目はもう俯くことはなかった。その逃れようのない現実から背けることなく、今度はちゃんと自分にできることを見据えている。そんな目をしている。
テララは膝の上に彼の頭を置きながら、十分に冷ませたスープを汚れた帯の間から口元に運んでやった。
その視界の片隅では、クス爺が汗を噴き上げながら施術を施しているのが見えた。死期迫る村人たちをなんとか生き永らえさせようと独り猛然と闘っている。
クス爺、無事だったんだ。よかった……。1人でみんなの傷を診て回ってるんだ。私も、まだ諦めちゃだめだよね。 こんな惨事だからこそ、良く見知った姿一つ見られただけで救われる。怖くないと言えば嘘になるかもしれない。それでも随分落ち着いた眼差しで、テララはドーテの食事をスープが空になるまで手伝ってやった。
食事の後、ドーテは一言礼を添えると、とても穏やかな表情で眠りに就いたようだった。
それからテララは臆する素振りは見せなかった。クス爺の背中を追うように、術後の怪我人の下に懸命に食事を運び続けた。
理不尽な罵声を浴びようと。いたたまれない有様で、碧い炎が燻り泣き喚かれようと。五体満足な身体の自分に何度自己嫌悪しても、テララは滲む目元を拭って、逞しく介抱を続けた。
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