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あまいあまい、ばにらの香り

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 リュリュナは目当ての店の名前を確認しようと、上着のポケットに入れておいた手紙を取り出した。
 ぶかぶかの上着はチギのお古だ。チギもまた誰かにもらったお古だったが、ぐんぐん背の伸びた彼にはもうちいさくなってしまったというから、リュリュナがもらったのだ。
 チギにはちいさくても、リュリュナが着ればふとももが半分隠れるほどの大きさがあって温かい。袖口が絞ってあるから、ちゃんと手が出るところもリュリュナは気に入っていた。
 そんな上着に包まれて、リュリュナは手紙を広げる。

「ええと、お店のひとの名前はホーリィさん。お店はちいさな雑貨屋さん、ね」

 地図を描くよりもひとに尋ねたほうが早い、とルオンに言われていたリュリュナは、そばにあった店のひとに声をかけた。

「あの、すみません。雑貨屋さんをしているホーリィさんというかたを探しているんですが」
「ああ、ホーリィばあさんかい」

 リュリュナの呼びかけに振り向いたのは、大柄な中年女性だった。もう店をしまうところなのだろう、商品が見当たらないため何屋かわからないが、見るからに店のおかみさん、という風体の女性だ。白と黒のまだら模様の髪の毛から察するに、頭の横に突き出ているのは牛の耳だろう。

「ばあさんの店なら、この通りをずっとまっすぐ行くと泉の広場があるから、そこを左に進んでいけば道沿いにあるよ。つるバラに囲まれたちいさい店で、看板が出てるからすぐわかるだろうよ」
「泉を左、ですね。ありがとうござます!」

 牛柄の女性にぺこりと頭をさげて、リュリュナはさっそく通りを駆けて行った。
 当の女性が「あっ、待ちなよ! 店はそこだけどホーリィばあさんは……」と叫んだ声は、すでに遠ざかってしまったリュリュナには届かない。
 困ったようにそのちいさな背中を見ていた女性だったが、やれやれとため息をついて店じまいの作業に戻って行った。


 一方、日が暮れる前にたどりつこうと勢いよく駆けだしたリュリュナは、予想以上に長い道のりを駆け抜けて、ようやく見えた泉のそばで立ち止まって息を整えていた。
 そこまでの道のりはたしかにまっすぐだった。けれど、その長さが想像を軽く超えていた。
 この通りだけでリュリュナの村の端から端までよりずっと長いだろう。リュリュナは前世で長い道路を知っているからすこしの驚きだけで済んだが、チギならば目を丸くして驚くだろう。
 息を整えながらそんなことを考えて、リュリュナはちいさく笑う。

 その拍子にふと、甘いにおいが鼻先をかすめた。
 ちいさな鼻をひくひくさせて、においの出どころを探す。見た目には八重歯がとがり気味なくらいで前世の人間と大差ないリュリュナだが、嗅覚や身体能力は、今世のほうが格段に良い。
 薄暗くなりはじめた泉の広場はひとがまばらになっており、周囲の店を見渡しやすい。そのなかのひとつ、えんじ色の暖簾に白い文字が染め抜かれた店からその匂いがただよっているようだった。

「ナツ菓子舗(かしや)……?」

 菓子、というからにはお菓子を扱っているのだろう。店からただよう甘い香りも、それを裏付けている。
 リュリュナはその店を呆然と見上げていた。

「この世界、お菓子があったの……?」

 驚く気持ちのままに、リュリュナのくちからこぼれたのはそんな言葉。
 今世において、リュリュナが出会った菓子といえば、祭りのときだけ食べられる干し芋や、ほんのり甘い草の汁を煮詰めた葛湯のようなもの。そのほかには山で手に入る木の実をおやつがわりに食べていた。それしか知らずに十五年を生きてきた。
 だから、この世界にはお菓子がないのだと。あきらめていたのだ。
 
 それなのに、ここに菓子舗がある。目のまえで甘い香りを漂わせている。
 それもほんのりではない、しっかりと甘い、においだけでもおいしく感じるような香りだ。

 ―――ああ、食べたい……。

 その香りに揺り起こされて、リュリュナの記憶に埋もれた前世の甘味たちが騒ぎ出す。
 プリン、クッキー、ケーキにチョコレート。アイスクリームを乗せたホットケーキや熱々のアップルパイ。うえから下までおいしくいただけるフルーツ盛りだくさんのパフェも捨てがたい。

 思い出すだけでくちの中によだれがにじみ出る。
 思わずふらりと菓子舗に足を踏み出したリュリュナだったが、はっとして立ち止まった。
 リュリュナは村で菓子らしい菓子を食べたことがない。飢えない程度に食べられてはいるが、それだけだ。
 リュリュナ以外の子どもたちはみな、干し芋以外の甘味を知らない。菓子など、食べたことがない。

 ―――お菓子を食べたことがない……!

 その事実はリュリュナを打ちのめした。
 みんなあんなにいい子たちなのに、ちいさいのに畑仕事や家の手伝いに精を出しているのに、ご褒美に菓子をもらったことがないのだ。
 ふらふらと菓子舗から遠ざかったリュリュナは、決意した。

 ―――稼ごう。たくさん働いて稼いで、仕送りのほかにお菓子を買おう。村のみんなにお菓子を食べさせてあげるんだ!!

 決意を新たにしたリュリュナは、疲れも忘れて背筋を伸ばした。
 そうと決まれば早く働き口を手に入れなければ、と再び駆け出した。
 目指すはつるバラに囲まれた店。日が落ち切ってしまう前に見つけなければ、とやる気と希望に満ちた顔で走りだしたリュリュナは、すぐに目的の店を見つけた。

 女性が言っていたとおり、つるバラに囲まれたちいさな店。古くからあるのだろう、街によくなじむ飴色の木でできた店には、楕円に切った木を彫って作ったのだろう看板がかかっている。書かれた文字は「ホーリィの店」とあるから、間違いない。

 ―――ここだ。
 
 意を決してリュリュナが扉を叩く。
 こんこんこん。
 そわそわと前髪を整え、ずり落ちてきた上着の袖を引っ張り上げる。すると着古した上着が汚く見えないだろうか、と気になってきて、せめてもと手の届く範囲をぽんぽん叩く。

「…………」

 返事がない。聞こえなかったのだろうか、とリュリュナはもう一度、と扉を叩いた。
 こんこんこん。

 ―――第一声はなんと言うべきか。こんばんは、で合っているだろうか。それとも初めまして?

 どちらにしろはじめは笑顔が大切だろう、とリュリュナは両手でほほをはさんでむにゅりと持ち上げた。自然な笑顔、自然な笑顔と何通りか試すその姿は、はたから見ればすこし怪しい。
 けれど指摘するものはなく、笑顔を向ける相手もいない。
 そう、相手がいない。
 扉を叩いて待っているのに、出てこない。

 ―――もしかして、留守?

 嫌な考えが浮かんでくるのを、リュリュナはルオンのことばを思い出して打ち消そうとする。
 手紙を渡しながらルオンは「あのばあさんは規則正しい生活しかせん。面白味はないが、まあ、尋ねる身としては相手のいる時間がわかってるのはやりやすい。日没ごろは必ず家で飯を食べてるからな。戸を叩いて待ってれば、じきに出てくるだろう」と言っていた。ことばはぶっきらぼうだが、親しさがこもっていたからリュリュナはよく覚えている。

 ―――ルオンさんの言う通りなら、留守じゃない。でも……。

 よく聞こえるはずの耳をそばだててみても、建物のなかからはどんな音も拾えない。ちいさな鼻をひくつかせてみても、そば粥の香りひとつただよってこない。
 店は、冷たく静まり返っていた。
 
 ―――どうして。

 戸惑うリュリュナのうしろで、不意に物音がした。振り向けば、道を挟んで反対側に建つ家の戸から顔をのぞかせた男がリュリュナを見ていた。

「そこのばあさんなら、引っ越したぞ。すこし前に腰を悪くしてひとりじゃ暮らせないからって昨日、山向こうに住む息子夫婦が迎えに来てたな」

 言うだけ言って、男は家に引っ込んだ。

「引っ越し、た……」

 ぱたん、と閉じた扉を見つめて、リュリュナは呆然とする。
 握りしめていた手紙が、リュリュナの手のなかでかさかさと悲しい音を立てた。
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