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 ふらふらと来た道を戻るリュリュナは、通りを歩くひとの姿がなくなっていることに気が付いた。
 日は落ち、明るさを残していた空にはすでに星がひとつふたつときらめいている。
 
 ―――みんな、家に帰ったんだ。

 あれほどにぎわっていた街はしんと静まり返り、明かりのない通りには家々からもれ出た光がこぼれるばかり。けれど家のなかには暖かな暮らしがあるのだろう。リュリュナの耳は壁越しの音を拾い、頭が勝手に楽し気な食卓を思い浮かべる。
 リュリュナには遠くなってしまった、親しい人たちと囲む幸せな時間が胸に刺さる。
 生まれ変わって得た耳の良さが、いまはうらめしい。

 家からこぼれた明かりを避けるようにひとりきりで道を歩いていたリュリュナだったが、噴水のある広場まで進むと、不意に力が抜けてへなへなと道に座り込んでしまった。
 くしゃり、ただの紙切れになってしまったルオンの手紙がポケットのなかで音を立てた。

 ―――どうしよう。

 頼みにしていた相手がいなかった。そこからはじまると思っていたはずの暮らしは、はじめることすらできずに潰えてしまった。
 
 ―――いまから、チギたちを追いかける?

 無理だろう。あちらは馬車で、リュリュナは行き先も知らない。追いかけて行ったところで、今夜の宿も知らずに訪ね歩いて見つけられるとも思えなかった。

 ―――村に、戻ろうか。

 時間はかかるだろう。荷馬車で移動した以上の日数を歩き、そこからさらに山を越えなければならない。村を出てくる道中ではルオンが世話してくれた宿代や食事代は、リュリュナには払えない。木のしたで眠り、野山で得たものだけをかじりながらの旅になるだろう。
 それでも、村にはたどりつけるはずだ。野山から糧を得るのは慣れているし、冬が過ぎたいまの季節ならば、夜に凍えたとしても命を落とすことはないだろう。

 ―――村に戻ったほうが、いいのかな……。
 
 不安がリュリュナを襲い、リュリュナはたまらず座り込んだその場で体をちいさくした。さきほどまでは感じなかった寒さを覚えるのは、陽が落ちたせいか、あたりにひとがいなくなったせいか、それとも心が軋むせいか。
 リュリュナは自分の腕で自身を抱きしめるようにして、震えそうになる体を支える。
 けれど、自分を抱きしめたところですこしも暖まりはしない。ただ、冷えた指先が触れた先の熱を奪って、悲しみが増すだけだ。

 にじみ出る熱いものをすすってぐすり、と膝に顔を伏せたリュリュナは、はたと動きを止めた。

 おおきすぎる上着に見つけた、かすかな残り香。
 ともに故郷のためにがんばろうと、笑顔で別れた幼なじみの姿が目に浮かんだ。
 それと同時に、リュリュナの胸に湧き上がったのはひとつの思い。

 ―――帰れない。 

 帰ったところで彼は責めないだろう。むしろ、そのような状況で帰らなかったことをこそ怒るかもしれない。
 散々に小言をいってリュリュナを心配していたチギなら、きっと「お前のぶんもおれが稼ぐから」と笑ってリュリュナの帰村を許すだろう。

 彼はそういうひとだ。
 だからこそ、リュリュナはくじけそうな自分を奮い立たせた。

 ―――泣いてる場合じゃない。一か所だめだっただけで、あきらめるなんて。

 ぐしり、と目元をこすったリュリュナは立ち上がる。

 ―――暗がりが何よ。前世のあたしは、塾に行って真っ暗ななか帰ってきてた。あてが外れたからって、泣いててどうするの。従妹のお姉ちゃんは就職活動で数十社を受けて、ようやく内定がもらえたって言ってたじゃない。

 背筋を伸ばして無理に笑い、八重歯をむき出しにしたリュリュナは自分のほほを叩いて気合を入れた。

 ―――村に帰るにも野宿をするなら、この街のどこかで野宿したところで変わらないはず。そうだ、ホーリィさんの家の軒先を借りて寝よう。それで、あしたの朝になったらお店を片端からまわって、お仕事させてもらえないか聞いて回ろう。

 金もなく頼る先もないリュリュナにとっては、それが最善の策に思われた。
 思いついてみればそうするのが当然のように思われて、リュリュナの胸にやる気がみなぎってくる。
 
 ―――そうと決まればホーリィさんのお店に戻って……。

 リュリュナがふたたび歩き出そうとした、ちょうどその時。
 噴水の広場につながる暗がりから足音が聞こえてきた。ひとのいない空間で、複数のひとが歩いているのだろうその音は響きはしないが、よく聞こえる。

 日が落ちれば住民は家に帰る。飲み屋にいる酔っ払いが道をうろつくのは夜も深まるころだとルオンが言っていたことをリュリュナは思い出す。そして、日没後まもなく動き出すのは、ろくでもない連中かそれを取り締まる巡邏だろう、とも。

 「リュリュが巡邏に見つかったら、子どもだと思われて保護されかねないな」そう言って笑ったチギの声が懐かしく、けれどリュリュナの心に焦りを産む。
 なぜならば、それを聞いたルオンが真面目な顔でうなずいていたからだ。「嬢ちゃんなら未成年に間違われて、村まで連れ戻されかねんな」と。
 街では出生登録があるようだが、リュリュナたちの村は辺鄙な場所すぎてここ三十年ほどは書類が届かず、誰も登録していない状態らしい。リュリュナが立派な十五歳だと証明するには、村に戻って長老が書き溜めている村民記録を見せるしかないのだ。

 果たして、暗がりの向こうにいるのはろくでもない連中か、巡邏か。
 いずれにしろ、リュリュナにとっては喜ばしい相手ではない。
 
 ―――どうしよう。

 逃げようにも音が近い。駆け出せば相手もリュリュナに気が付くだろうし、忍び足で歩いていては間違いなく見つかってしまうだろう。
 迷っているあいだにも、土を踏む足音は近づいてきている。
 
 ―――どうしよう、どこかに隠れなきゃ!

 焦ったリュリュナは、手近にあった店の戸に手をかけた。
 通りに面した建物のほとんどが木戸をしっかりと閉めているなか、その店だけが硝子のはまった引き戸のままだった。
 看板も暖簾も見当たらないから営業は終えているのだろうが、中にひとがいるはず。

 そう思って飛びついた戸は、からり、抵抗もなく開いた。
 なんの店かを確認する余裕もなく思わず飛び込んだリュリュナは、急いで後ろ手に戸を閉めて、中にいた人影に頭を下げた。

「こんばんは、おじゃまします、すこしだけおじゃまさせてくださいー!!」
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