その牙っ娘にエサを与えないでください

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「ヤイズミさま……」

 リュリュナは、ただ彼女の名前をつぶやくことしかできない。
 前世の記憶はおぼろげで、離れていってしまいそうな友だちになんと言えば良いか、教えてくれるはずのテレビ番組も思い出せなかった。今世の暮らしは貧しいながらも平穏で、閉鎖的な村では別れのときなど経験することはなかった。
 かけるべきことばが浮かばない。けれども、このまま黙っていればヤイズミを失ってしまうようで、リュリュナはたまらずユンガロスの腕から抜け出した。
 ほんのわずかな抵抗で腹にまわった腕からするりと抜けて、リュリュナはヤイズミを抱きしめた。

「……リュリュナ、さん?」

 戸惑うヤイズミをリュリュナはぎゅうぎゅうと抱きしめる。抱きしめてどこにも行かないように捕まえて、それから言うべきことばを探す。
 
「ええと、ええと。ヤイズミさまはあたしと友だちになったんだから、これから友だちとの過ごし方を覚えればいいんです。ヤイズミさまもフチさんも、ふたりとも友だちの成り方がわからなかったんですよ。だから、これから覚えて、またやり直せばいいんです」
「これから……」

 ヤイズミが、リュリュナのことばを呆然と繰り返す。 
 その声を聞いて、リュリュナはふと不安になった。これからがある、と安易に言ってしまったけれど、フチの身柄は守護隊預かりになっているはずだ。自身が語った希望が存在するのか知りたくて、リュリュナはヤイズミを抱きしめたままユンガロスをちらりと振りむいた。
 リュリュナの視線が向いた途端、ユンガロスはにっこりとうれしげに笑う。

「ヤイズミ嬢の侍女に関しては、被害者であるリュリュナさんが訴えないとおっしゃるので、大した罪には問われないでしょう。現在も、聴取のために守護隊が預かっているにすぎません。早晩、白羽根の家に引き取り要請がいくでしょう。やさしいリュリュナさんに感謝することですね」

 視線はやさしくリュリュナを見つめたまま、ユンガロスの声は冷ややかに告げる。
 リュリュナがフチをかばわなければ大した罪に問えたのに、と言わんばかりのその物言いに、ヤイズミの背中を冷たい汗が伝う。
 息をつめたヤイズミが見つめる先で、笑顔をたたえた黒眼鏡のした、ユンガロスの赤い瞳が凶暴性にぎらついているような錯覚を覚えた。

 笑顔のユンガロスに見つめられて、ヤイズミは身じろぎできなくなる。まるで蛇ににらまれた蛙だ。
 店のなかに緊迫した空気が満ち、けれどそれはすぐに破られた。

「もう、ユングさま。あたしは本当のことを言っただけです。フチさんに呼ばれて着いていったら怖いひとがいた、それだけだって。信じてくれないなら、ユングさまのこと嫌いになっちゃいますよ!」

 ぷう、とむくれてリュリュナが言った途端。ユンガロスがにじませていた恐ろしい空気は、しゃぼんの泡のようにぱちりと消えてなくなった。

「えっ、それは困ります! というか、リュリュナさん。あなたいつの間にヤイズミ嬢と友人になったのですか。おれも仲間に入れてください」
「わあ、ヤイズミさま。もうひとり友だちができましたよ! やりましたね!」
「「えっ?」」

 慌てて立ち上がったユンガロスが声をあげると、リュリュナはうれしそうにヤイズミを見上げた。
 予想外の解釈に、ユンガロスとヤイズミの声が重なる。

「ユングさまは赤い目をないしょにしてて、貴族だった家のひととは結婚できないって言えなかったんですよね」

 こてり、とリュリュナが首をかしげて問えば、ユンガロスはにこりと笑ってうなずく。その笑顔は明らかにリュリュナに向けられているものなのに、リュリュナだけがそれに気が付かない。

「だったら、友だちになるのは大丈夫ですよね。ヤイズミさまとユングさま、これからは仲良しになれますよ」

 良かったですね、とすこし寂し気にしながらも、リュリュナは精いっぱいの笑顔でふたりを祝った。
 慌てたのはユンガロスとヤイズミだ。

「いえ、ちょっと待ってください。おれが仲良くしたいのはあなたです。リュリュナさんです!」
「ええ、わたくしも、別に黒羽根のかたと親しくなるつもりなどありません。お友だちは、リュリュナさんがいれば十分ですわ!」

 くちぐちに言うふたりに、リュリュナはきょとりとまたたいた。

「でも、ユングさまはヤイズミさまにお見合いを申し込んで……」
「それは周囲から打診されて立場上、断れなかっただけです」

 リュリュナのつぶやきに、ユンガロスが間髪入れずに答える。リュリュナの横では、ヤイズミも「そうだそうだ」と言わんばかりに頭を何度も上下させてうなずいていた。
 ヤイズミがユンガロスとの結婚を望んでいなかったことは、すでに昨夜の騒動のなかで聞いている。けれど、ユンガロス側の思いはわからなかった。
 てっきり、見合いを申し込むほどにヤイズミを愛しく思っていたが、強すぎる力ゆえに身を引くことを決意しているのだと思い込んでいたリュリュナだったが。

「……ちがったんですか」

 ほろりとこぼれたのは、安堵の声だ。
 かっこいい年上の男性にやさしくされて、リュリュナの心はユンガロスに惹かれていた。その思いを自覚していた。
 それでも彼が、友となった彼女を願うのなら、ふたりの背を押して笑って居ようと思っていたのに。

「でも、じゃあ、ユングさまの大切なひとって……」

 昨夜、自身にすがって泣いたユンガロスのことばを思い出して、リュリュナはつぶやいた。
 あのとき、たしかにユンガロスは言っていた「大切なひとと共に生涯を送りたい」と。

 涙をこぼしてそう願ったユンガロスはいま、リュリュナの目の前にひざをついていた。ふたたび黒眼鏡をはずして、昨夜のように赤い瞳を露わにした彼は、リュリュナの手を取ってにこりと笑う。

「おれが共にありたいのは、あなたです。リュリュナさん、友人からと言わずその先の関係までずっと、末永くよろしくお願いします」
「ふえっ」

 麗しい顔で微笑みながら言われて、リュリュナの顔がぼっと赤くなった。
 リュリュナは真っ赤になったまま、ユンガロスに両手をつかまえられて逃げることも顔を隠すこともできず、おろおろとする。
 そんなリュリュナに、後ろから腕が伸びる。

「ひとりじめは許しませんから!」

 言って、たおやかな腕のなかにリュリュナを引き寄せたのはヤイズミだ。
 ユンガロスに手をつかまえられ、ヤイズミに肩を引き寄せられたリュリュナは、どうしていいかわからない。

「ほう、許さないとは? どう出るおつもりです、白羽根のお嬢さま?」
「わたくしはリュリュナさん自ら、友人として認定されております。友人との時間も容認できない狭量な殿方は、嫌われましてよ?」

 おろおろするリュリュナの頭のうえで、ユンガロスの赤い瞳とヤイズミの青い瞳がにらみ合う。
 一体どうしてこうなってしまったのか。
 火花を散らさんばかりのふたりの視線のしたで、リュリュナは必死で考えていた。

 それからしばらく後。
 帰ってきたナツメグとゼトによって、リュリュナはにらみ合うふたりの間から救出された。
 休養すべきリュリュナに何をしているのか、と怒れるナツメグによって、ユンガロスとヤイズミは店を追い出されてしまう。そうして、リュリュナはユンガロスの申し出への返答をする間を見つけられないままになった。
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