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山道は険しく身体は重い
心に染み入る温もり
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そっと抜き取った手を動かせば、ゆるゆるとだが意思のとおりに曲がり、伸びた。そのときになってようやく、割れた爪がすこしだけ痛みを訴えることに気が付いた。
「……あり」
「あああ、血が出てる! なんてことだ、ライゼ、大失態! もったいない!」
ありがとう、と言いそうになったことばは、リッテルの口から出る機会を失った。
急に声をあげたライゼが、リッテルの指を口に含んだからだ。
ぬろり、熱くぬめったものがリッテルの割れた爪をなぞる。
「ひぃっ!」
反射的に引っ込めようとした手はライゼにつかまれていて動けなくて、悲鳴をあげたリッテルの指はされるがままになる。
「はああ、いい、匂い。好き。すごく好き。ねえリッテル、はやくライゼの家族になって、ね。いっしょに幸せに、なろうね」
割れた爪からにじむ血を舐め取ったライゼは、荒い息を吐きながら握ったリッテルの手に愛し気にほほをすりつけ舌舐めずりする。
「ねえ、ほかにけがはない? 転んだひざは、すりむいていない? ライゼに、見せてごらん。我慢しなくていい、すなおに、教えて。ね」
「なにを!」
―――すりむいていたら、ひざも舐める気でしょう!
そう叫ぼうとして自分のひざに視線を向けたリッテルは、そこに広がる黒いものを目にしてことばを飲んだ。
月明りに照らされたリッテルとライゼのあいだに落ちた影のなか、さらに濃い黒色に染まる箇所がある。水たまりのように広がった黒の出どころはライゼの脚。地面にぺたりと伏せられた脚のふくらはぎあたりから流れ出る黒は、鉄さびたにおいを立ち上らせて、それが明かりのしたでは赤い色をした血であることをリッテルに教えていた。
「ひどいけが……これ、さっき噛まれてたところでしょう!」
思わず気持ち悪さも忘れて詰め寄ったリッテルに、ライゼはへらりと笑う。けれどその呼気は荒い。
「うん、ちょっと、失敗しちゃった。でも、ライゼは、平気だよ。そう、ライゼは、強い子。痛くない、痛くない、泣かない、よ」
肩で息をしながら笑ってみせるライゼだが、よく見ればその額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「そんなわけないでしょう! 痛いに決まってるし、平気なわけない。どうしよう、まずは血を止めなきゃ」
「ライゼは、大丈夫。ライゼは、強いよ。心配ない、から、ここにいてよ。きみがそばに、いてくれれば、きっとすぐ、よくなる」
言い聞かせるように繰り返してライゼはなおもへらへら笑うが、リッテルは聞かずに立ち上がる。
リッテルは近くの木の根の元にしゃがみこみ、這いつくばって目的のものを探し出す。血止め草。リッテルが指先をけがをしたときも、お父さんが森でけがをしたときも、お母さんが見つけてきて張り付けてくれた薬草。
記憶のなかのお母さんの声が言う。「葉の形を覚えて、リッテル。これはいろんなところに生えているの。だけど他の草の下に隠れるように生えるから、見逃さないように気を付けて。しっかり覚えてちょうだい。お母さんが取ってきてあげられないときに自分で探せるように、ね」声とともに思い浮かぶ、やさしい笑顔。
―――あった。
木の根のまわりを這いまわって目的の薬草を見つけたリッテルは、必要なだけ摘み取るとまだ「大丈夫だよ、放っとけば治るよ」などと言っているライゼのことばを無視して彼の足元に膝をついた。背負いっぱなしだった大きな布袋も横に下ろす。
食い破られて血に濡れた布地を両手で引き裂き、水筒の水で血を軽く洗う。摘んできた葉も洗い、布袋から取り出した古着を裂いたものといっしょに傷口に巻き付けていく。
「あっ、うぅ」
ぎゅう、と強く結んで止めるとライゼの口から耐えるような声が漏れて、彼は怪我した足をかばうように地面の上で体を丸くする。月明りのもとぼんやりと見える顔はしかめられ、ひたいに汗がにじんでいた。
「……やっぱり、痛いんじゃない。血が止まるまで外しちゃだめだからね」
「あ、お、れの荷物に、痛み止め……」
ライゼのうめくようなことばを聞いて、彼のそばに転がっていたちいさな布袋を取って渡せば、ライゼは中から取り出した乾燥した薬草を口に含んだ。
ライゼが水筒をあおって辛そうに飲み下し、傷みをこらえるように長く息を吐き出したのを見届けたリッテルは、荷物を片付けて立ち上がる。ほんのすこし迷って、自分の荷物をその場に置いて手近な木のそばへ行く。
―――こいつはお母さんをお父さんを、みんなを殺したやつかもしれないのに。
そう思いながらもリッテルは、彼を手当したことを後悔してはいなかった。
ライゼが体を丸めて痛みに耐えているあいだに、リッテルは枯れ枝を拾い集めて火を熾した。本来ならば木の陰か山肌の洞穴を見つけて寝床をこしらえるべきなのだろうが、さっき襲ってきた獣の仲間や他の肉食獣がどこかに潜んでいるかと思うと、むやみに動き回るのが怖かった。
幸いにも雲が流れ、月が顔を出しあたりをしらしらと照らしている。木立ちや草むらからの湿り気は感じるけれど、風に雨のにおいは嗅ぎ取れない。ひと晩くらいはここで明かせるだろう、とリッテルは燃え付いた薪のまわりに石を並べて鍋を乗せ、夕食の支度をはじめた。
「……さっきの生き物、なんだったの」
くるり、くるりと鍋をかき混ぜながらぽつりと問う。うずくまって動かないライゼが寝ていないことは、聞き取れないほどかすかなつぶやき声でわかっていた。
「……あれ、は、魔女に呪われた、生き物。ライゼは、強い、子。元がなにかは、知らな、い。ライゼは強い、子。でも、ひとの目をし、てた。ライゼは、強い子……」
つぶやきを混ぜながら答えたライゼは、言い終わるとふーっと深く長く息を吐いた。すっかり吐ききると、よろめきながらも体を起こす。
「ちょっと、まだ寝ててよ! 傷口が開いたらもっと血が流れちゃう!」
リッテルが慌てて止めようと腰を浮かすが、そのときにはもうライゼは起きあがり、焚き火をはさんでリッテルの向かいに座っていた。
いくらか気だるそうにしながらもひとりで座ってみせたライゼは、額の汗を袖でぬぐうと今度こそなんでもないような顔をして笑う。
「も、へーき。薬効いてきたから。ところで、山を越えるんじゃなかったの? ライゼってば聞き間違い? まったく、うっかりだなあ」
リッテルが熾した火とそこにかけられた鍋を見て、ライゼはへらへらと笑う。そこに痛みをこらえるようすが見て取れないのを確認してから、リッテルは燃える火に視線を落とした。
「……血が止まるまでのあいだだけ。火があれば獣は来ないし。せっかく火があるんだから、スープをつくるだけ。……ひとりぶんもふたりぶんもそう変わらないし、助けてもらったから、すこし、わけてあげる」
ぼそぼそと言ってちらり、とライゼを見れば、きらきらと輝きながら見つめてくる瞳にぶつかった。
「ライゼのぶん! 作ってくれるの? リッテルが? ライゼのために? ライゼのために、リッテルが!」
「な、なによ。あたしだって料理くらいできるの。……いらないなら、いい。自分で飲むから」
やけに疑問符をくり返すライゼに、リッテルはむっとして口を尖らせた。けれどライゼはすぐに首を勢いよく横に振って慌てて手を伸ばす。
「ください! リッテルの料理たべたい。ライゼってば食いしん坊なんだから。ちゃんとよく噛んで食べるんだよ」
「……手にスープを盛る気? 食べたいならお椀を出して。ないなら、あたしのを貸してあげる」
「うん! ありがとう! ライゼはちゃんとお礼ができてえらいね。よしよし」
よくわからない物言いは無視して、リッテルは行儀よく差し出された両手にスープを入れた椀を持たせた。かき混ぜるのに使っていた大振りのさじもおまけに渡す。
椀はひとつきりしかもって来なかったので、リッテルは鍋のまま食べることにした。火からおろした鍋の中身を自分用の小ぶりなさじですくって、口に入れる。
「あつっ、ふはっ、はあ……」
煮えた根菜は思った以上に熱くて、熱気を口から吐きながらスープを飲み込んだ。のどを焼きそうなほどの熱が胸を通り、腹のなかへと落ちていく。じんわりと広がるぬくもりといっしょに、体の疲れもまたじわじわと体中に広がっていくようだった。今の今まで気が付いていなかったけれど、どうやらリッテルの体はずいぶん疲れていたらしい。
「おいしいねえ。うれしいねえ。ライゼのために作ってくれた料理だって。くふふっ。よかったねえ、ライゼ。幸せだねえ」
焚き火の向こうでとろけるような笑顔を浮かべているライゼのことばが、リッテルの耳をくすぐる。恥ずかしいようなくすぐったいようなそのことばを聞きながら、リッテルはスープをすくっては冷まし、腹のなかに熱を送り込む。
質素ながらも温かい食事を終えるころには疲れが回りきって、リッテルの体はずっしりと重たいぬくもりに包み込まれていた。
「……あり」
「あああ、血が出てる! なんてことだ、ライゼ、大失態! もったいない!」
ありがとう、と言いそうになったことばは、リッテルの口から出る機会を失った。
急に声をあげたライゼが、リッテルの指を口に含んだからだ。
ぬろり、熱くぬめったものがリッテルの割れた爪をなぞる。
「ひぃっ!」
反射的に引っ込めようとした手はライゼにつかまれていて動けなくて、悲鳴をあげたリッテルの指はされるがままになる。
「はああ、いい、匂い。好き。すごく好き。ねえリッテル、はやくライゼの家族になって、ね。いっしょに幸せに、なろうね」
割れた爪からにじむ血を舐め取ったライゼは、荒い息を吐きながら握ったリッテルの手に愛し気にほほをすりつけ舌舐めずりする。
「ねえ、ほかにけがはない? 転んだひざは、すりむいていない? ライゼに、見せてごらん。我慢しなくていい、すなおに、教えて。ね」
「なにを!」
―――すりむいていたら、ひざも舐める気でしょう!
そう叫ぼうとして自分のひざに視線を向けたリッテルは、そこに広がる黒いものを目にしてことばを飲んだ。
月明りに照らされたリッテルとライゼのあいだに落ちた影のなか、さらに濃い黒色に染まる箇所がある。水たまりのように広がった黒の出どころはライゼの脚。地面にぺたりと伏せられた脚のふくらはぎあたりから流れ出る黒は、鉄さびたにおいを立ち上らせて、それが明かりのしたでは赤い色をした血であることをリッテルに教えていた。
「ひどいけが……これ、さっき噛まれてたところでしょう!」
思わず気持ち悪さも忘れて詰め寄ったリッテルに、ライゼはへらりと笑う。けれどその呼気は荒い。
「うん、ちょっと、失敗しちゃった。でも、ライゼは、平気だよ。そう、ライゼは、強い子。痛くない、痛くない、泣かない、よ」
肩で息をしながら笑ってみせるライゼだが、よく見ればその額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「そんなわけないでしょう! 痛いに決まってるし、平気なわけない。どうしよう、まずは血を止めなきゃ」
「ライゼは、大丈夫。ライゼは、強いよ。心配ない、から、ここにいてよ。きみがそばに、いてくれれば、きっとすぐ、よくなる」
言い聞かせるように繰り返してライゼはなおもへらへら笑うが、リッテルは聞かずに立ち上がる。
リッテルは近くの木の根の元にしゃがみこみ、這いつくばって目的のものを探し出す。血止め草。リッテルが指先をけがをしたときも、お父さんが森でけがをしたときも、お母さんが見つけてきて張り付けてくれた薬草。
記憶のなかのお母さんの声が言う。「葉の形を覚えて、リッテル。これはいろんなところに生えているの。だけど他の草の下に隠れるように生えるから、見逃さないように気を付けて。しっかり覚えてちょうだい。お母さんが取ってきてあげられないときに自分で探せるように、ね」声とともに思い浮かぶ、やさしい笑顔。
―――あった。
木の根のまわりを這いまわって目的の薬草を見つけたリッテルは、必要なだけ摘み取るとまだ「大丈夫だよ、放っとけば治るよ」などと言っているライゼのことばを無視して彼の足元に膝をついた。背負いっぱなしだった大きな布袋も横に下ろす。
食い破られて血に濡れた布地を両手で引き裂き、水筒の水で血を軽く洗う。摘んできた葉も洗い、布袋から取り出した古着を裂いたものといっしょに傷口に巻き付けていく。
「あっ、うぅ」
ぎゅう、と強く結んで止めるとライゼの口から耐えるような声が漏れて、彼は怪我した足をかばうように地面の上で体を丸くする。月明りのもとぼんやりと見える顔はしかめられ、ひたいに汗がにじんでいた。
「……やっぱり、痛いんじゃない。血が止まるまで外しちゃだめだからね」
「あ、お、れの荷物に、痛み止め……」
ライゼのうめくようなことばを聞いて、彼のそばに転がっていたちいさな布袋を取って渡せば、ライゼは中から取り出した乾燥した薬草を口に含んだ。
ライゼが水筒をあおって辛そうに飲み下し、傷みをこらえるように長く息を吐き出したのを見届けたリッテルは、荷物を片付けて立ち上がる。ほんのすこし迷って、自分の荷物をその場に置いて手近な木のそばへ行く。
―――こいつはお母さんをお父さんを、みんなを殺したやつかもしれないのに。
そう思いながらもリッテルは、彼を手当したことを後悔してはいなかった。
ライゼが体を丸めて痛みに耐えているあいだに、リッテルは枯れ枝を拾い集めて火を熾した。本来ならば木の陰か山肌の洞穴を見つけて寝床をこしらえるべきなのだろうが、さっき襲ってきた獣の仲間や他の肉食獣がどこかに潜んでいるかと思うと、むやみに動き回るのが怖かった。
幸いにも雲が流れ、月が顔を出しあたりをしらしらと照らしている。木立ちや草むらからの湿り気は感じるけれど、風に雨のにおいは嗅ぎ取れない。ひと晩くらいはここで明かせるだろう、とリッテルは燃え付いた薪のまわりに石を並べて鍋を乗せ、夕食の支度をはじめた。
「……さっきの生き物、なんだったの」
くるり、くるりと鍋をかき混ぜながらぽつりと問う。うずくまって動かないライゼが寝ていないことは、聞き取れないほどかすかなつぶやき声でわかっていた。
「……あれ、は、魔女に呪われた、生き物。ライゼは、強い、子。元がなにかは、知らな、い。ライゼは強い、子。でも、ひとの目をし、てた。ライゼは、強い子……」
つぶやきを混ぜながら答えたライゼは、言い終わるとふーっと深く長く息を吐いた。すっかり吐ききると、よろめきながらも体を起こす。
「ちょっと、まだ寝ててよ! 傷口が開いたらもっと血が流れちゃう!」
リッテルが慌てて止めようと腰を浮かすが、そのときにはもうライゼは起きあがり、焚き火をはさんでリッテルの向かいに座っていた。
いくらか気だるそうにしながらもひとりで座ってみせたライゼは、額の汗を袖でぬぐうと今度こそなんでもないような顔をして笑う。
「も、へーき。薬効いてきたから。ところで、山を越えるんじゃなかったの? ライゼってば聞き間違い? まったく、うっかりだなあ」
リッテルが熾した火とそこにかけられた鍋を見て、ライゼはへらへらと笑う。そこに痛みをこらえるようすが見て取れないのを確認してから、リッテルは燃える火に視線を落とした。
「……血が止まるまでのあいだだけ。火があれば獣は来ないし。せっかく火があるんだから、スープをつくるだけ。……ひとりぶんもふたりぶんもそう変わらないし、助けてもらったから、すこし、わけてあげる」
ぼそぼそと言ってちらり、とライゼを見れば、きらきらと輝きながら見つめてくる瞳にぶつかった。
「ライゼのぶん! 作ってくれるの? リッテルが? ライゼのために? ライゼのために、リッテルが!」
「な、なによ。あたしだって料理くらいできるの。……いらないなら、いい。自分で飲むから」
やけに疑問符をくり返すライゼに、リッテルはむっとして口を尖らせた。けれどライゼはすぐに首を勢いよく横に振って慌てて手を伸ばす。
「ください! リッテルの料理たべたい。ライゼってば食いしん坊なんだから。ちゃんとよく噛んで食べるんだよ」
「……手にスープを盛る気? 食べたいならお椀を出して。ないなら、あたしのを貸してあげる」
「うん! ありがとう! ライゼはちゃんとお礼ができてえらいね。よしよし」
よくわからない物言いは無視して、リッテルは行儀よく差し出された両手にスープを入れた椀を持たせた。かき混ぜるのに使っていた大振りのさじもおまけに渡す。
椀はひとつきりしかもって来なかったので、リッテルは鍋のまま食べることにした。火からおろした鍋の中身を自分用の小ぶりなさじですくって、口に入れる。
「あつっ、ふはっ、はあ……」
煮えた根菜は思った以上に熱くて、熱気を口から吐きながらスープを飲み込んだ。のどを焼きそうなほどの熱が胸を通り、腹のなかへと落ちていく。じんわりと広がるぬくもりといっしょに、体の疲れもまたじわじわと体中に広がっていくようだった。今の今まで気が付いていなかったけれど、どうやらリッテルの体はずいぶん疲れていたらしい。
「おいしいねえ。うれしいねえ。ライゼのために作ってくれた料理だって。くふふっ。よかったねえ、ライゼ。幸せだねえ」
焚き火の向こうでとろけるような笑顔を浮かべているライゼのことばが、リッテルの耳をくすぐる。恥ずかしいようなくすぐったいようなそのことばを聞きながら、リッテルはスープをすくっては冷まし、腹のなかに熱を送り込む。
質素ながらも温かい食事を終えるころには疲れが回りきって、リッテルの体はずっしりと重たいぬくもりに包み込まれていた。
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