魔女の托卵

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絶望に伸ばされた手

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 家族になりたいというライゼの真意はわからない。彼の言動はわからないことだらけだ。だからリッテルは問いかける。

「あなたは一度、あたしから離れた。いっしょにいられない、って。そのときも理由を教えてはくれなかった。けれどまたあたしを助けに来てくれて、だけどそばにはいられないって言う。それは、どうして。理由を教えてはもらえないの?」

「それ、は……」

 まっすぐに見つめるリッテルの瞳から逃れようとするかのように、ライゼの視線がうろうろとさまよう。怪我だらけでも笑っていたはずの彼の顔に笑みはなく、濃いくまに縁どられた目が追い詰められたように明るさを失っていた。

「家族になりたいっていうのに、そばにいられない理由は言えないの?」

「あ、う……ううぅ」

「……ははは、言えるはずがありませんよ」

 ことばに詰まるライゼをよそに、答えは思わぬところから返ってきた。

「あなた、なにを!」

 振り向いたリッテルは、いつの間に移動したのか倒れたジュンナと異相の獣のそばに立つシェンダリオンを見つけて声を上げた。

 散々に痛めつけられたシェンダリオンは体のあちこちから血を流し、むき出しの白い上半身は打撲と流血でひどいありさまだ。見るも無残に腫れあがった顔で、まっすぐ立つことすらできずによろめいている。それでもくちの端を吊り上げて彼は笑う。

「その男とて、あなたの腹の力を嗅ぎつけてやってきたにすぎません、そのうえ力を己の物にできない成り損ないは、周囲に不幸をまき散らすばかり。そんな成り損ないなど、私が始末して差し上げましょう!」

 薄ら笑いを浮かべたシェンダリオンがジュンナの黒髪をわしづかんで、無理やり立ち上がらせる。彼のもう一方の手に鈍く光る小刀を見つけて、リッテルは息を飲んだ。

 悲鳴をあげる間もなく、彼はその刃先をためらいもせずジュンナの首に突き立て、引き抜いた。途端にあふれ出る、赤いしぶき。

「あ……あ……」

 大きく目を見開いたジュンナがことばもなく口を開け閉めするのを気にも留めず、シェンダリオンは彼女の首にむしゃぶりついた。溢れる彼女の命をじゅぶり、じゅぶりとすすり、のどを鳴らして飲み込んでいる。飲むたびに、シェンダリオンのむき出しの上半身がびきびきと音を立てている。

 長身のシェンダリオンに頭をつかまれ宙づりにされたジュンナはびくりびくりと全身を震わせていたが、やがて手足をだらりと垂らして動かなくなった。それでもなおその首筋をすすっていたシェンダリオンだが、ごくりと大きくのどを動かしたのを最後に彼女の頭から手を離した。そのころには、シェンダリオンの身体は見てわかるほどに筋肉が増強し、膨れていた。

 ぼとりと床に落ちたジュンナはもはや身じろぎもせず、ただその手足や顔の異様な白さがリッテルの目に突き刺さる。

「なに、を……」

 なにをしているの、ということばは声にならなかった。
 返り血で赤く染まった顔で笑ったシェンダリオンが、異相の獣にも刃を突き立てたのだ。

「はああぁぁぁ。これが、力。ふふ、あはは! 湧き上がってくる! もっと早く、こうすればよかったのです! 私は成り損ないなどではないのだから! 力が、力がみなぎってくるうぅぅぅ!!!」

 ジュンナにそうしたように、シェンダリオンは獣の頭をつかんで持ち上げ、切り裂いた首筋から血をすする。

「ぐぉるぅぅ……」

 首を傷つけられた獣が前肢で宙を掻き体をうねらせて抵抗するが、シェンダリオンの手で顔面をぎりぎりと握りしめられて、うめき声さえも出なくなる。

 にぶいあがきを見せる獣など意にも介さず、その血をすするごとにシェンダリオンの手足はひとの形から獣のそれへとめきめき音を立てて変わっていく。衣服に覆われていない上半身は、ぞわぞわと獣の毛皮でおおわれていくの見て取れた。

「あっはああ! 力が。力が湧いてくる。これが呪いの力……! 呪いさえも御してこそ支配者ならば、やはりこの力は私にこそふさわしい! もっと、もっと力を……!」

 ぐったりとした獣を軽々と投げ捨てたシェンダリオンは、血走った眼にリッテルを捕らえて大股に歩きだした。体中に見える怪我が治った様子はないが、靴を突き破る鋭い爪を持つその足は、さきほどと違い力強く床を踏みしめている。

「あ、ああ……いや……」

 血まみれで笑いながら近づいてくるシェンダリオンは、獣のように裂けたくちと相まってまるで悪鬼だ。リッテルはその恐ろしさに逃げることも忘れて立ち尽くす。

「おまえの身に流れる呪われた血も、私の力となれるのです。光栄に思いなさい!」

 赤く濡れた手がリッテルの首に伸ばされた、そのとき。

「……やっぱり、いやだ!」

 頭を抱えてうつむいていたライゼが、不意に顔をあげてシェンダリオンの手を叩き落とした。

「いっしょにいるのはライゼがいい! お前にはあげない!」

「ほう、不幸にするとわかっていても?」

 嘲笑うようなシェンダリオンの声にライゼはぐっと唇をかみしめたけれど、うつむきはしなかった。

「それでも。お前には、あげない!!」

 ぎりっとにぎりしめた拳を振り上げて、ライゼが床を蹴る。低く這うような姿勢からシェンダリオンのあごめがけて振りぬいた拳は、空を切った。

 わずかに体勢をそらすことで攻撃をかわしたシェンダリオンは、うれしそうに笑う。

「ははっ。お前の動きが遅く感じますね。これが、凝った願いの力、魔女の呪いの力! ふふはっ、体が軽い!」

 笑いながら手を伸ばしたシェンダリオンが、ライゼの脇腹をわしづかみ指に力を込めた。獣のようにとがった爪が薄い腹の肉にぐちりと食い込む。

「あっぐぁああが!」

 みしみしと、ライゼのあばら骨が音を立てる。筋が浮き出るほど手に力を込めたシェンダリオンは、片手でライゼを持ち上げてしまった。

 そのままライゼの腹が砕かれてしまうのかと震えていたリッテルだったが、ライゼも黙ってやられてはいない。

「はっ、なせぇ!」

 宙づりになった姿勢のままシェンダリオンの胴体目がけて鋭い蹴りを放つ。その一撃は難なく交わされるが、ライゼは生まれた隙を逃さず体をひねり、シェンダリオンの手からするりと逃れた。つかまれたままの服が破れるのも構わず、ライゼは素早く後退する。

 手の中の布切れを投げ捨てたシェンダリオンは、逃げたライゼを追うことはせず、嫌な笑みを浮かべてライゼに問いかけた。

「それで? その娘を連れてに私から逃げたとして、どうするのです。お前とともに居ても、行きつく先は不幸しかありません」

「…………」

 脇腹を押さえたまま、ライゼは黙りこくって答えない。ぜいぜいと嫌な音を立てて呼吸をしながら、ただ唇をかみしめてシェンダリオンをにらみつけるばかりだ。

 薄ら笑いを浮かべたシェンダリオンと、彼をにらむライゼ。暗い部屋のなかに聞こえるのはライゼの荒い呼吸の音だけ。

「……不幸って、なに」

 張りつめた静寂に、リッテルの声が落ちた。
 ちいさな、感情のこもらない問いかけだったけれど、それを耳にしたライゼは大きく肩を揺らす。一方、シェンダリオンは目を細めてそれはうれしそうに唇を吊り上げた。

「知りたいですよね。ええ、教えてさしあげましょう。知らずにその男について行って、みすみす不幸になるのを見過ごせませんからねえ」

 親切ぶって笑いかけてくるシェンダリオンは不快だったが、リッテルは何も言わずに話を待った。ライゼが語らない何かを知りたかった。ライゼのことを知りたかった。

「その男は……いいえ、その男に限らず、呪いに負けた異奴どもは周囲に不幸をまき散らすのです。それが、凝った願いの力が魔女の呪いと恐れられる由縁でもあります」

 黙って聞くリッテルに気をよくしたのか、シェンダリオンは芝居をしているかのようにゆっくりと歩き回りながら、語りだす。

「例えば、そう。そこで倒れている異奴です」

 シェンダリオンが示したのは、ぼろきれのように床で丸まっているやせ細った男だ。ライゼに殴られた痛みか、その勢いで床に叩きつけられた痛みのせいでかわからないが、堪えきれない痛みを受けてもはや動くこともできずにかすかにうめいている。

「その異奴は、もともとはわたしの信徒でした。病を得て死が怖い、死にたくないと教会にすがり、そのまま信徒となったのです。その思いの強さは感心するほどでしたから、この男ならば呪いに勝って力を手にできるやも、と思って手元に置いたのですが」

 やれやれ、と言わんばかりにシェンダリオンはわざとらしくため息をつく。

「強いのは思いばかりで、力を受け止める器ではなかったようです。思いや祈りが凝って魔女の呪いとなったとき、この男は呪われました。私が苦労して建てた教会に集まった力を、私の崇高なる願いのために集めた力を無駄にして、できそこないの異奴となったのです」

 話しながら男に歩み寄ったシェンダリオンは、苛立ちをぶつけるかのように男の頭をつま先で蹴った。
 なすすべなく見つめていたリッテルは、何気なく振るわれた暴力に体を固くする。

 軽く蹴飛ばしただけに見えたけれど、男は「ぃああっ」と悲壮な声をあげてのたうつ。足元で苦しむ男を見下ろすシェンダリオンの瞳は、冷たい光を宿していた。

「力を無駄にしただけではありません。この男は魔女の呪いをその身に受けたとき、周囲にいた幾人もの信徒を巻き添えにして、それらすべての命を吸い取ると同時に嗅覚、聴覚、痛覚までも、すべて自身のものにしてしまったのです」

 こつり、こつりと蹴りつけられる男は、いったいどれほどの痛みを感じているのだろう。つま先がぶつかるたび、びくりびくりと震えながら「いたい、いたい」とかすかなうめき声をもらしている。

「そう、この男の願いは、周囲の命を犠牲にして叶えられたのです。周りにいたのは、この男の熱心な祈りに引かれて集まってきた者たちでした。自身の延命だけを願って祈るこの男を尊いもののように扱い、慕ってきたそれらの命を奪いとっておきながら、この男はぼろ布のようにただ生きているだけなのです」

 楽し気に唇を吊り上げたシェンダリオンの足元で、すすり泣く声がする。床に打ち捨てられたやせ細った男が泣いていた。自身を守るように頭を抱えたまま、痛みを訴えることばを途切れさせてむせび泣いている。

 その姿はまるで、語られた過去に抱えきれない罪悪感を覚えているかのようだった。
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