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13.母の事故
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スーツ姿で帰ってきた晴紀に、彼の母共々作業を差し止められ、三人一緒に診療所のダイニングへ。
そこで美湖が冷茶を入れて、母子にもそこに落ち着いてもらった。
蒸し暑いのにきちんとネクタイを締めているハルが、黒いジャケットを脱いだ。
清子もむすっとしたまま、でも、美湖が愛飲している水出しの『緑茶』をすんなり飲んでくれる。隣に座った晴紀も一緒に。
「あら、いい香り、いいお味」
「ほんとだ。うめえっ」
蒸し暑い中から帰ってきた二人が、それだけでほぐれてくれたようだった。
だが、晴紀が母に向かう。
「もう、診療所の草のことは俺も気になっていたから、明日、やるから。二人はなんもしなくていいから」
「なによっ。お母さん、ちょっとお手伝いしようと思っただけなのに」
「えっと……、住んでいる私がいい大人なのに気がつかなかったのが原因かなー」
なんて、険悪そうな母子の間に、自分が悪いと美湖からとぼけて入ってみた。なのにまたハルに睨まれる。
「センセ。先生は外科医でしょ。慣れないコトして、手を怪我したら困るんだよ。この前みたいに迅速なオペが必要な時に手が不自由とか困るんだよ。また都会から来たばっかりで、田舎の一軒家の住み方も知らないだろ。家周りのことは、俺がするから。慣れていないのに余計なことしなくていいんだって」
「晴紀。またそういう口の利き方して! あなたね、お母さん、いつも言っているでしょう。先生はあなたより『お姉さん』で『先生』なのよ。もうちょっと敬って……」
「あああ、えっと、お母さん。清子さん。私なら大丈夫。私もハル君に遠慮ないから。ね、ハル君!」
うわー。お母さんの前で『ハル君』なんて馴れ馴れしく呼んでしまった! 美湖は額を抱えて、思わず清子から顔を背けてしまった。
それに。ハルの気遣いにも気がつく。外科医だから、怪我をしてほしくない。慣れていないことは全部俺に任せてと言ってくれているんだとわかった。
「ごめん、ハル君……。仕事以外なんもできない女で。冷蔵庫も結局、ハル君がいっぱいにしてくれたし」
「なに言ってんだよ。瀬戸内海のど真ん中にある島に突然、来てくれたんだから。それに……。出掛ける前、絶対に俺がいない間に草ぼうぼうになると思っていたのに、雨続きで手入れが出来ないまま出掛けたのは俺なんだから」
二週間も何処に行っていたのだろう。美湖はふと、また彼が今治の伯父の手伝いに行っただろうとは思いながらも、どんなアルバイトなのかやっぱり気になった。
「そちらの、重見さんの土地なんだから。気にしない医師がほったらかしで平気な顔で住んでいたんだもの。お母様が気になっても仕方がなかったのも私のせいだよ」
島に来て一ヶ月、この男と睨み合ったり言い合ったりしてきた。いまも言い合うけれど、嫌なものではなくなっている。合う目線が、お互いを柔らかに気遣うものに変わっている。
そんな息子と女医の様子を、清子がそれぞれの顔を窺って、何故か最後にはあの優しい笑みを浮かべた。
「晴紀。お母さん、先に帰っているわね」
急に機嫌が直ったかのように、にっこりとしたまま勝手口で靴を履こうとしている。その足を少し引きずっていることに美湖は気がついた。
母親が出て行くと、ハルが溜め息をつきながらネクタイを緩めた。そうしていると、本当に、都会のオフィス街にいても遜色ない佇まい。着慣れている様子あって、シャツとネクタイの柄の合わせ方も悪くない。
「おかえりなさい。アルバイト、長いのね」
「あ、うん。その時の手伝いによるかな」
なにかを誤魔化すかのようにハルが冷茶をもう一度すすった。
「センセ。この前のコーヒーもそうだし。これも、美味しいお茶を知っているんだな」
「それ私の、地元のお茶。うちの実家、茶畑に囲まれている田舎だからね。母から新茶が届いたの」
「静岡の御殿場。経歴書で出身地も記載されていたから。そっか茶畑あるんだ、あそこら辺も」
「知っているの。どんなところか」
「東に住んでいたら誰もが知っている高原避暑地だ。俺、三年前にこの島に帰ってくるまで東京の会社に勤めていた」
だから? だからスーツを着こなしているのかと美湖は思った。
「その間。もしかすると横浜にいた美湖センセとすれ違っていたかもな」
「島には……どうして」
水滴がついている冷茶のグラスをハルがそっと置いて、黙り込んでしまった。時々、こうして晴紀に影を感じるようになったのは気のせいだろうか。
「親父が他界したから。姉がいるけれど、姉ちゃんも大学の時に島を出て神戸で結婚した。それに俺は長男だから、もしかすると、やっぱり島に戻らなくちゃいけないかもなとは思っていたんだ」
「お母様が一人になっちゃうから?」
「母は……。俺には好きに生きて欲しい。島には帰ってこなくていいと言ってくれていたよ。だから父が他界してからもしばらくは東京で働いていた」
それなら、どうして……。そう聞きたくなって、美湖も飲み込む。だが晴紀はキッチンの夕暮れる茜の窓を見つめながら教えてくれる。
「うちの母親。お嬢様なんだ。わかるだろ。ほわんとしていて」
「うん。さっき初めて会ったけれど、とっても品がよいお母様だと思ったよ」
「なんでも父ちゃんと一緒だったんだ。もちろん、妻として母として嫁として立派に務めてきたよ。それがさ、いっぺんになくなったことになるんだよな。親父の他界と姉ちゃんの結婚が重なっていた。俺も東京での仕事が上手く行かなくなったことがあって、すごく心配かけていた。ちょっと鬱ぽくなっていたみたいなんだよな。風呂で滑って骨折して、誰にも気がつかれないまま二日そのまんまだったらしい。その時は愛美もまだこっちに戻っていない時で……」
さすがに美湖も驚き、茫然とした。
「二日って……。清子さん、助けを呼べなかったってこと?」
ハルがそっと静かに首を振る。
「呼ぶ気力がなかったてこと。死のうとしていたんだよ。親父の後を追って……」
さらに驚き、美湖は言葉を失う。
そこで美湖が冷茶を入れて、母子にもそこに落ち着いてもらった。
蒸し暑いのにきちんとネクタイを締めているハルが、黒いジャケットを脱いだ。
清子もむすっとしたまま、でも、美湖が愛飲している水出しの『緑茶』をすんなり飲んでくれる。隣に座った晴紀も一緒に。
「あら、いい香り、いいお味」
「ほんとだ。うめえっ」
蒸し暑い中から帰ってきた二人が、それだけでほぐれてくれたようだった。
だが、晴紀が母に向かう。
「もう、診療所の草のことは俺も気になっていたから、明日、やるから。二人はなんもしなくていいから」
「なによっ。お母さん、ちょっとお手伝いしようと思っただけなのに」
「えっと……、住んでいる私がいい大人なのに気がつかなかったのが原因かなー」
なんて、険悪そうな母子の間に、自分が悪いと美湖からとぼけて入ってみた。なのにまたハルに睨まれる。
「センセ。先生は外科医でしょ。慣れないコトして、手を怪我したら困るんだよ。この前みたいに迅速なオペが必要な時に手が不自由とか困るんだよ。また都会から来たばっかりで、田舎の一軒家の住み方も知らないだろ。家周りのことは、俺がするから。慣れていないのに余計なことしなくていいんだって」
「晴紀。またそういう口の利き方して! あなたね、お母さん、いつも言っているでしょう。先生はあなたより『お姉さん』で『先生』なのよ。もうちょっと敬って……」
「あああ、えっと、お母さん。清子さん。私なら大丈夫。私もハル君に遠慮ないから。ね、ハル君!」
うわー。お母さんの前で『ハル君』なんて馴れ馴れしく呼んでしまった! 美湖は額を抱えて、思わず清子から顔を背けてしまった。
それに。ハルの気遣いにも気がつく。外科医だから、怪我をしてほしくない。慣れていないことは全部俺に任せてと言ってくれているんだとわかった。
「ごめん、ハル君……。仕事以外なんもできない女で。冷蔵庫も結局、ハル君がいっぱいにしてくれたし」
「なに言ってんだよ。瀬戸内海のど真ん中にある島に突然、来てくれたんだから。それに……。出掛ける前、絶対に俺がいない間に草ぼうぼうになると思っていたのに、雨続きで手入れが出来ないまま出掛けたのは俺なんだから」
二週間も何処に行っていたのだろう。美湖はふと、また彼が今治の伯父の手伝いに行っただろうとは思いながらも、どんなアルバイトなのかやっぱり気になった。
「そちらの、重見さんの土地なんだから。気にしない医師がほったらかしで平気な顔で住んでいたんだもの。お母様が気になっても仕方がなかったのも私のせいだよ」
島に来て一ヶ月、この男と睨み合ったり言い合ったりしてきた。いまも言い合うけれど、嫌なものではなくなっている。合う目線が、お互いを柔らかに気遣うものに変わっている。
そんな息子と女医の様子を、清子がそれぞれの顔を窺って、何故か最後にはあの優しい笑みを浮かべた。
「晴紀。お母さん、先に帰っているわね」
急に機嫌が直ったかのように、にっこりとしたまま勝手口で靴を履こうとしている。その足を少し引きずっていることに美湖は気がついた。
母親が出て行くと、ハルが溜め息をつきながらネクタイを緩めた。そうしていると、本当に、都会のオフィス街にいても遜色ない佇まい。着慣れている様子あって、シャツとネクタイの柄の合わせ方も悪くない。
「おかえりなさい。アルバイト、長いのね」
「あ、うん。その時の手伝いによるかな」
なにかを誤魔化すかのようにハルが冷茶をもう一度すすった。
「センセ。この前のコーヒーもそうだし。これも、美味しいお茶を知っているんだな」
「それ私の、地元のお茶。うちの実家、茶畑に囲まれている田舎だからね。母から新茶が届いたの」
「静岡の御殿場。経歴書で出身地も記載されていたから。そっか茶畑あるんだ、あそこら辺も」
「知っているの。どんなところか」
「東に住んでいたら誰もが知っている高原避暑地だ。俺、三年前にこの島に帰ってくるまで東京の会社に勤めていた」
だから? だからスーツを着こなしているのかと美湖は思った。
「その間。もしかすると横浜にいた美湖センセとすれ違っていたかもな」
「島には……どうして」
水滴がついている冷茶のグラスをハルがそっと置いて、黙り込んでしまった。時々、こうして晴紀に影を感じるようになったのは気のせいだろうか。
「親父が他界したから。姉がいるけれど、姉ちゃんも大学の時に島を出て神戸で結婚した。それに俺は長男だから、もしかすると、やっぱり島に戻らなくちゃいけないかもなとは思っていたんだ」
「お母様が一人になっちゃうから?」
「母は……。俺には好きに生きて欲しい。島には帰ってこなくていいと言ってくれていたよ。だから父が他界してからもしばらくは東京で働いていた」
それなら、どうして……。そう聞きたくなって、美湖も飲み込む。だが晴紀はキッチンの夕暮れる茜の窓を見つめながら教えてくれる。
「うちの母親。お嬢様なんだ。わかるだろ。ほわんとしていて」
「うん。さっき初めて会ったけれど、とっても品がよいお母様だと思ったよ」
「なんでも父ちゃんと一緒だったんだ。もちろん、妻として母として嫁として立派に務めてきたよ。それがさ、いっぺんになくなったことになるんだよな。親父の他界と姉ちゃんの結婚が重なっていた。俺も東京での仕事が上手く行かなくなったことがあって、すごく心配かけていた。ちょっと鬱ぽくなっていたみたいなんだよな。風呂で滑って骨折して、誰にも気がつかれないまま二日そのまんまだったらしい。その時は愛美もまだこっちに戻っていない時で……」
さすがに美湖も驚き、茫然とした。
「二日って……。清子さん、助けを呼べなかったってこと?」
ハルがそっと静かに首を振る。
「呼ぶ気力がなかったてこと。死のうとしていたんだよ。親父の後を追って……」
さらに驚き、美湖は言葉を失う。
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