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23.船乗りハル君
しおりを挟む一緒に高速船で帰った日から、一週間後。
また日曜の休診日。『ハル君の船』に乗りに行く。
軽トラックに乗せられ、島の海水浴場の少し向こうにあるというマリーナに連れられる。
そこに停泊させてある一隻のクルーザーに、ハルがほんとうに乗り込んだ。
「ハル君、ほんとうにクルーザー持ってる」
買ったばかりのタンクトップビキニとショートパンツスタイルの水着に、パーカーを羽織ってきた美湖は桟橋で茫然とする。
「ほら。早く乗って」
すでに乗り込んだ晴紀が手を差し出してくれ、美湖もそのまま甘え、晴紀の手に引かれクルーザーに乗り込んだ。
操縦席と小さな甲板。そこに何故かゴムボートがすでにふくらませた状態で置かれていた。
「救命用?」
「それ、あとで使うんだ」
え! なんのために! なんだか美湖は怖くなってきた。富士山の麓育ち故、それほど泳ぎは得意ではない。
「はい。センセもこれつける。救命胴衣。空気ふくらませるから、頭からかぶって」
「えー、やっぱり怖い! こんなんつけなくちゃ危ないところなの?」
「船に乗るなら常識だって。俺も着るからほら」
そうしたら、またハルがくすくす笑っている。美湖の頭から救命胴衣を着せながら。
「なにが怖いだよ。人の身体を切開する時はめちゃくちゃクールにやりこなしていたくせに。俺なんか、そっちのほうが怖いよ」
「またそれを言うの? あれは私のやるべき仕事。こっちは素人」
年上の女医サンが怖い怖いと焦っているのを笑っている男の子を美湖は睨んでいた。
でも。男の子じゃないかも。今日は。
晴紀も今日はスポーツ選手並のぴったりとしたつなぎのようなスイムウェアを着込んでいる。なのに、胸元のジッパーが開いていて、そこからは浅黒く日焼けている筋肉がちらりと見える。
ああ、また。この子が大人の、青年の男なんだという色香を感じてしまい、美湖はそっと目を背けた。
「酔ったら言って、無理しないで引き返すから。それからこのクーラーボックスに冷たいミネラルウォーター入っているから」
「了解。でも、船長さん。おしっこはどうしたら」
「おしっこは我慢な」
今日は怒らず、仰天せずに、冷静に切り返してきたので美湖が驚く。そして晴紀は勝ち誇った笑みを見せている。
「じゃ、発進するから。ちゃんとそこ座っていて」
「クルーザーの操縦できる免許あるんだ」
「漁船を操縦しているんだから当たり前だろ。それから俺、そもそも航海士だし。小型船舶も航海士の時から持っていたから」
今日は美湖がギョッとすることばかり。
「え、ハル君。航海士って……船乗りだったってこと」
「そう。でっかい貨物船に乗って外国に行くヤツな。二等航海士になったばかりのところで、商船会社を辞めたんだ」
美湖は言葉を失う……。外航船の航海士なんて、ある意味エリート。すごい仕事に就いていたんじゃないと。どうりで何事もテキパキ出来る男だとようやくわかった気がした。
商船会社の陸側の社員だと思っていたら、まさかの船乗りだった。だけれど『船が好き』と言っていたことにやっと納得。しかし、だとしたら、好きな船乗りの仕事を『例の事件』のために致し方なく辞めている? そう思ってしまった。
そして、美湖がなんとなく感じていたとおりかもしれない。いままで晴紀は美湖が島に来るまでの自分のことはあまり喋らなかった。なのに、今日は自分から『航海士だ』と教えてくれた。
彼の好きな船に乗って、海に出て。そこで彼は『美湖センセ』になにを話してくれるのだろう。美湖はそう思ってついてきた。
ハルが操縦席に立つとエンジン音が響いた。ゆっくりと船体が桟橋から離れる。マリーナから完全に離れるまでは徐行、船首が大きな海原に完全に向くと、ぐんっとスピードを上げて波を切り走り始めた。
「わー、速い! 波近い! やっぱり怖い!!」
ほんとに波しぶきが飛んできたので、晴紀が水着を着てこいと言った意味をやっと知る。甲板に置いてあるゴムボートを座る場所にして、美湖はなるべく真ん中で縮こまっているだけ。
「そんな沖合にでないから! 少し回って岩場に行く!」
クルーザーのエンジン音の中、晴紀が操舵を握りながら叫んだ。船首の向こうは海、晴れ渡る真っ青な空、そしてものともせずにクルーザーを操縦する青年。太陽の光の中、波しぶきの中。
こんな、こんな……いかにも『夏の太陽!』みたいな男、本当にいるんだと思えるほどの晴紀の姿だった。
そんな彼につい見惚れてしまいながらも、そのクルーザーが波の上を跳ねたりすると、もうそれだけで美湖は怖くてわーわー叫んだ。
「もう、センセ。うるさいっ」
「私が山育ちだって考えていないでしょ!!」
「海ぐらい行ったことあるだろ!」
「こういう海じゃない! もっと優しい浜辺の海!!」
わかっているくせに。またどうしてそういう意地悪を言うのと怒っていると、今日のハルは自分のステージにかわいくない女医さんをひっぱりだせて余裕なのか、また楽しそうに声を立てて笑っている。
今日は今日は泣かないから。ハル君が楽しそうに笑っていても、もう泣かない。というか、またクルーザーがちょっと高い波に突っ込んで跳ねた!
「わざとでしょ!!」
「んなわけねーだろ!」
「航海士のくせに、ちゃんと波を見て避けなさいよ!!」
「あー、もう、うるせえ。やっぱ、先生はかわいくない!!」
航海士としてかっこよくしていただろうに、結局、年上の女医サンに『かっこいい』と言ってもらえないハル君が怒った。
ああ、でも。いつもの私たちだなあと、今日の美湖は笑えてしまう。美湖が笑うと、晴紀も操舵ハンドルを動かしながら微笑んでいる。
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