先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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24.ハル君は、海の先生

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 そのうちに島を半周したぐらいの岩壁しかないような水辺へと、クルーザーがゆっくりとスピードを落とした。

 遠い水平線にはいつものフェリーやタンカー、貨物船に漁船。今日は休日でヨットもクルーザーも動いているのが見える。

「綺麗」

 緑の島に囲まれている、蒼い海は深く吸い込まれそうな湖のようで、海なのに緑の島々が圧倒しているように見える。夏の真っ青な空に白い入道雲、これぞ理想の海という絵図が目の前にひろがっている。

 これが瀬戸内海。いままで東の都会で、島々に囲まれたゆったりとした遠い世界だと思っていたものが、今日は鮮やかにくっきりと美湖の目に映っている。

 美湖がこの島に来る時に乗ってきたフェリーが東港へと向かっているのも見えた。

「美湖先生が来た時、ちょうど蜜柑の花の季節だったな」
「うん。あのフェリーで港に降りた時、すぐにその匂いがしたの。素敵だった……」

 クルーザーが岩肌を目の前にして止まった。
 ちゃぷんとした穏やかな波にクルーザーが揺りかごのように揺れている。

「先生が来た時は咲き始めだったから、港に降りなくちゃわからなかったかもしれないけれど。最盛期になると、あのフェリーで港に入る前にはもう、海上でも甘い香りがするんだ」
「そうなの! すごい!」
「ここもそう。五月の末にくると甘い香りがする」

 ハルが岩肌に前からあるのか小さな桟橋のような場所にクルーザーからロープを伸ばして大きな杭に繋いだ。

「ここでなにするの」
「ここ、地元の俺らのシュノーケリングスポット」

 そういって、ハルは美湖の目の前にシュノーケルリングの装備を差し出す。
 目と鼻を覆う水中ゴーグルと口にくわえる管だった。

「え、まさか。これをつけて、私に、足もつかない海に入れていってるの!?」

 んな無茶な! と美湖はらしくなくパニックになる。
 今日は晴紀のほうが落ち着いている。

「大丈夫。俺がいるから」
「俺がいるからって、すごい自信なんだけれど」
「子供の頃からこの島で泳いできたんだし、航海士の時に人を担いで海の中を泳ぐ訓練もすげえやったて」
「人を、かつぐって??」

 そんなこと、こんな岩壁そばの深い海で、こんな大の大人の女を担いで出来るのかとにわかに美湖は信じられない。
 それでもハルは淡々と動いて準備を進めている。地元民が作った岩場の簡易桟橋に船を繋ぎ、今度は美湖が座っていたゴムボートを海原に放り投げた。しかしそれもロープでクルーザーに繋げられている。

 晴紀がしっかりとロープの結び目とカラビナを点検し、クルーザーの舷にアルミパイプの梯子をかけた。

「これで降りてゴムボートへ。そこから海にはいるから。センセ、ちょっとこっち来て」

 言われるまま、梯子をかけた晴紀の目の前に行くと、着せられた救命胴衣の空気をもう一度確認される。

「腕に、これつけて」
 腕用の浮き輪をつけられた。
「俺が先生を脇下から手を入れて、そうっとひっぱっていくから。絶対に暴れるなよ」

 要救助者が暴れると救助する者も溺れることは美湖もよく知っていたので頷いた。いや、待って!

「待って! やっぱりダメ、怖い」
「大丈夫。今日は波もない。こんなに水面が凪いでいるだろ。それに俺、訓練の時は美湖先生よりもっとがたいのいい男で訓練していたんだから、大丈夫だって」

 ほら。マスク、シュノーケル。はい、行くよと強引に手を引っ張られていく。
 まず晴紀からクルーザーを梯子で降りてゴムボートへ。美湖はまだ決心がつかない。

 ゴムボートに降りた晴紀が、クルーザーにいるままの美湖を見上げている。

「センセ。やっぱ怖い? 本当に怖いならやめる」

 美湖は迷っている。そこから先は本当に知らない世界だ。素人が簡単に行けない世界だ。もうなにもかもを海をよく知っている男、晴紀に任せなくてはならない。
 そう晴紀に自分を委ねるのだ。
 遠く青い水平線と空の境目を一時見つめ、美湖は梯子へと足をかける。

「絶対に絶対に怖くしないでよ」
「しないから。ほら、来いよ」

 今日は頼もしい海の青年が差し出す手を、美湖も握る。
 ゴムボートに降りたつと、晴紀がかいがいしく美湖の頭にマスクをつけ、これをこうやって吸うんだよとシュノーケルをつけてくれる。

 晴紀も同じように頭と顔面にシュノーケルとマスクをつけ、自分の身体にクルーザーの舷に固定しているロープをくくった。

「俺が先に海にはいるから。先生はゆっくりと俺に向かって降りてきて。俺が先生を受け取るから、怖いからって真っ正面から俺に抱きつかないこと」
「抱きつかないから」

 言われなくても、ハル君になんか抱きつかないと意地を張ったのに、それでもハルは本当は怖いが為の『美湖の強がり』だとわかってしまったようで笑っている。

「行くよ」
 つなぎのスイムウェア、シュノーケルを口にくわえた晴紀が、ほんとうに凪いでいる青い水面に入っていく。
「センセ、いいよ」
 彼を信じて。晴紀を信じて。ハル君に任せよう。
 美湖も深呼吸をして、そっと足を冷たい海面に向ける。

 ゴムボートから手を離したら、海中に落ちていくイメージしかない。怖くて離れずにいると、美湖の腰を晴紀ががっしりと掴んだ感触。
 びっくりして固まっていると、いつのまにか身体がふわっと海面に浮いたから驚いた。

「え、え。どうして」
「もう海の上だ。先生。そう、もっと力抜いて」

 脇下にほんとうに晴紀の手がはいって掴んでいる。そして美湖の背中には晴紀の体温。彼が美湖の下で泳いで、浮いている美湖を海上へと運んでくれている。

 美湖の耳元にはシュノーケルで呼吸する晴紀の息づかい、そして波の音。真上には太陽の光、潮の匂い。水面に反射する光は眩しくて、時々青色に見える。海水はほどよく冷たくて気持ちがいい。

 島に来た時、吾妻が運転する車から見下ろしたあの景色を思い出している。島が海に囲まれているのではない、海が島に囲まれている。いま美湖はその島々の緑の谷間にいて、その湖底にいる気持ちになってきた。

「どう、センセ」
 彼の顔は見えない。でも耳元すぐのところで声が聞こえるし、時々彼の手や身体の体温が触れて安心している。
「私、いま、ど真ん中にいる気分」
「ど真ん中? 大袈裟だな。ここはまだ波際なのに」
 沖合ではないのにと晴紀が笑う。

「よし、ここだな」
 晴紀が手をかざして太陽の位置を確かめたのがわかった。
「美湖先生。いまから浮いている身体を反転させるから。怖かったら、俺にしがみついていいからな」
 なによ。しがみついていいなんて、ちょっと頼もしそうに言ってくれちゃって生意気と、美湖は密かにむくれた。

 でもここでは晴紀しか頼れないし、晴紀だからここに来た。

 彼がそうっとそうっと美湖の身体を海面に顔が付くようにと反転させる。ようやく晴紀と顔が向きあう。
 彼が美湖の両手を握って『力抜いて抜いて』とスイミングの先生のようにして、一緒に海面に浮いている。

「海の中、見て。先生」
 言われて、美湖はマスクをしている顔を海面から下へとつっこんで覗いてみた。

 揺れるアクアブルーの光、そうっと流れている海流に、小魚だけでなく、大きな魚も深いところで群れになって泳いでいる。まるで、そこは大きな水族館の水槽そのもの!
 無数の魚と海藻と岩場で優雅にそよぐ綺麗なイソギンチャク。海月くらげもいる。透ける青い光の筋を縫って、泳いでる。

 どう、センセ。
 水の上からハルの声が聞こえ、美湖は我に返る。ざばっと顔を上げると、美湖は思わず、すぐ目の前にいる晴紀に抱きついてしまう。

「うっわ、先生! あぶな……」
 真っ正面から美湖が抱きついてきたために、一瞬、晴紀の身体も海中へ沈んでしまう。美湖も一緒に! 晴紀と一緒に青い水泡の中……。また美湖はびっくりして、ざぶっと入ってしまった海水の中でさらに晴紀の首に抱きつく。

 それでも、鍛えている男の腕が力強く、勇ましく、二人分の身体を海上へと揚げてくれた。

 海面に戻れた美湖も、やっと正気に戻って、自力で泳ぐ。

「ご、ごめん。ハル君!」
「びっくりした! 先生、大人しく海中を見ているから、もう怖くないんだと思って油断していた」

 一時離れた美湖の身体を、また晴紀の長い腕が掴んで引き寄せてくれる。
 なのに美湖は目の前に彼が来ると、今度はそっと首に抱きついてしまう。
 晴紀が気が付いた。

「センセ、震えてる……?」
 微かに震えている。
「怖かった? 先生……」
 柔らかく抱きついているその女の身体を、晴紀がそっと抱きとめてくれる。
「恐ろしく……、綺麗だった……別世界……。異世界だった……。人間が入れない、生物の青い異世界……」

 大きな水族館の水槽の真上、そこに浮いている木の葉のような錯覚が起きていた。そして深い深いアクアブルー、冷たい青に吸い込まれそうに思えて怖くなった。だから晴紀に抱きついている。

「先生……」
 濡れた黒髪を晴紀の手が優しく撫でてくれる。
 いま抱きついている彼の向こうも、壮大な緑の島と瀬戸内の海。なのに太陽の光を浴びて鮮やか。
 
美湖もそのまま、晴紀の首元に顔を埋めて、囁く。

「ハル君……も、同じだね」
「え、なにが……?」
「医師は人体の神秘に真向かう。よく勉強しないと、経験を積んで鍛練をしないと向き合えない。命に触れるのは怖いよ」

『うん、そうだな』と彼も訝しみながらも相槌を打ってくれる。

「海も同じだね。地球を流れる潮は血流で脈流。地球の身体を熟知していないと、怖い世界。でも、とても綺麗。近寄りがたいけれど、さっき近づいたよ」
「それで震えてんの、先生?」

 こっくりと彼の首元で頷いた。晴紀の腕がぎゅっと美湖を抱きしめたのがわかる。

「ハル君は、海のセンセだね」

 なにも答えてくれなくなる。航海士の仕事を辞めてしまったから? でも晴紀はそうして美湖を抱いて浮いてくれている。美湖もそのまま抱きついて、しばらく瀬戸内の夏の匂いを光を、色を感じていた。
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