先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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26.船主オーナーの甥

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 ちゃぷんちゃぷんと小さな波が打ち付けて、ときどきゴムボートが大きく揺れる。まるで、いまバランスを必死で取ろうとしている二人の心の不安を知っているかのように不規則に揺れ動く。心許ないこの場所で、晴紀は続ける。

「先生も、今日までの俺を見て思っただろ。口が悪いんだ。ついズケズケ言ってしまう。きっちりしないヤツにはつい」

 つまり私もきちっとしていないように見えていたわけか――と顔をしかめたが、否定できなかった。そしてそれだけ聞いて、美湖も理解する。

「船の運航は安全第一だもんね。いいかげんな仕事は決して許されない。医者も同じ、トラブルはあっても絶対回避、ミスは許されない。ハル君はそれが、許せなかったんだね」

 言いたかったことを先に美湖が見通したせいか、やっと彼が驚いて美湖を見てくれた。

「でも、俺の叱責が追いつめたのではないかと言われていた。仲間は船乗りなら当然の心構え、注意しなくては運航に影響が出ただろうと言ってくれたけれど。結果が全てというのはこういうことなんだと思っている」

 殺人は犯していない。でも精神的に追いつめた責任はあるとハルは思っているようだった。

「そんな……、ハル君の注意でへこたれるような気の弱い子だったの?」

 晴紀は人を見て労れる男だと美湖は思っている。気が弱い子ならそれなりに柔軟に対応が出来るはず。そう信じたい。

「違うよ。逆だよ。俺と張り合うようなヤツだったよ」

 ほら、やっぱり――と美湖もほっとする。でもそれなら自殺なんて精神状態になるのかとそこが腑に落ちない状態になる。

「自分の思い通りにならなくてヤケになったんじゃないかとみんな言っている。それでも俺も衝突する状況を作ってしまった責任が二等航海士としてあったと思っている」
「だから、辞めたの?」
 ハルが頷いた。
「その事件、事故が発生した貨物の運航に損害が出た。俺はその責任を感じている」

 なんだか美湖にも見えてきた気がする。その男、責任感が強い晴紀が苦悩する状況を死んでも作りたかった? だとしたら恐ろしい怨恨だとゾッとしてきた。

「その子に、恨まれるようなことした?」
 晴紀がそっと首を振る。
「でも……、そうなる積み重ねはいっぱいあった。向こうは三等航海士で後輩だった。俺は広島の商船系高専に通っていたんだけれど、そいつも後輩だった。学生の頃から軽薄というか、親の権威をかざして人を動かしたり、自分の思い通りにさせようとしたり、そんな自分の周りに負担をかけるのも平気ないい加減さがあった」

「ハル君と衝突していたんだ。学生の頃から」
 それだけじゃないと晴紀が苦悩するように頭を抱えた。
「あいつの実家、わりといい地位にいる資産家で、学生の頃からそういう態度だった。『資産家』という立場から、俺はよく敵視されていた」

 資産家がハルを敵視する。そっか、やっぱりハル君の実家は重見家は資産家なのかと、ようやく美湖も認識する。

「あいつの婚約者が、俺になびいたのも原因だったと思う」
「彼の婚約者がなびいちゃったの?」

 でも美湖は驚かない。仕事にシビアで田舎とはいえ実家や親戚は資産家、それにこんな男らしい青年だったら、若い女の子は晴紀を気にしてしまうだろうと。

「それで、ハル君……。まさか、その子……」

 聞かずにいられなかった。そうではないと思いながら。
 だから晴紀も心外だったのか、怒るような顔で美湖を睨む。

「そんなわけないだろ! 人の婚約者、女を取るなんてしない!」
「だよね、ごめんね。もしそうだったら、それも自殺しちゃう原因かなと思っちゃって……」
「警察にも聞かれたから……、大丈夫」

 実家の立場も、仕事での食い違いも、女性関係もすべて絡められて取り調べされたようだった。

「そんなに不仲なのに同じ船に乗っちゃったんだね」
「時々あった。同じ商船会社の船員だったから。社会人になっても、あいつと俺はよく比べられたよ」

 実家が資産家で、先輩と後輩で同じ高専学校出身、会社も同じ。ずっとライバルだったということなのだろうか。
 そのライバルに仕事でも女性関係でも優位に立たれて、この男を奈落の底に落とすなら俺が死んで辛い状況に陥れる。そして責任感が強い彼から航海士としての仕事も奪う。美湖にはそうとしか見えなくなる。

「よく、田舎の金持ちだと言われた」
「酷いね。島で血脈を受け継いで来た歴史を軽んじている」

 またハルが美湖を茫然と、うなだれて座っているそこから顔を上げた。

「美湖センセ、そう感じてくれていたんだ……」
「わかるよ。島で、重見家のそば、愛美さんの家族や、漁協の岡さんや、漁師だったというおじいちゃんたちの昔の武勇伝とか往診で聞いていたら。そうして受け継いできたからの財があるって」

 そこで美湖は聞きづらかったことを言ってみる。

「ハル君の実家って、やっぱり資産があるんだね」
「まあ、そこそこ。元船主だったし」

 せんしゅ船主? 聞き慣れない言葉に美湖は首を傾げる。

「その海運でもうけた財で幾分か島と市街の港町に土地を持っているけれど、船に関しては伯父にすべて引き渡した。その手に関しては伯父が今治では実績があるから」

 ん? なんだか聞き慣れない話になってさらに美湖は眉をひそめた。

「伯父さんも、その、せんしゅさん? せんしゅってなに」
「船にあるじで、船主。船の持ち主ってこと」
「え、船……って。その伯父様がいっぱいもっているってことなの?」
「そうだよ。だから、俺が『エヒメオーナーの甥っ子』だとその後輩がムキになって張り合ってきたんだから。商船会社にいると、エヒメオーナーの伯父のほうが立場がいいから、いままで通用した後輩の親の権威が伯父に敵わなかったのもあるのかもしれない」

 エヒメオーナー? また美湖は首を傾げる。

「あ、聞き慣れなかったか。えっと……、伯父はその『エヒメオーナー』の一人。今治という地域は貨物船や大型船を所有する規模がギリシャや香港に並ぶ規模で、世界では『エヒメオーナー』と呼ばれているんだ。つまり、海運の長と言えばいいかな」

 さすがにギョッとした。世界で三つに入る海運のオーナー!?

「待って、待って。なに、そのエヒメオーナーって!」
「だから、今治にはそういう船主が伯父以外にもけっこういるんだって。このあたりの海域は戦国時代から海運で栄えていただろ。それが受け継がれて、いまはエヒメオーナー」
「ええっ! それがハル君の伯父様!?」
「の、一人な。伯父より船を所有しているランクが上の会社は今治では他にあるから。伯父はまあ、五本の指に入るぐらい?」
「そ、そんな大きな会社が今治にはいっぱいあるの??」
「大きくないよ。どこも百人以下、伯父のところは五十人くらいで回している」

 え、たったそれだけ? でも世界では『エヒメオーナー』と言われるくらいの影響力? 美湖は混乱してくる。

「ご、五十人体制で……どうやって、世界に……?」
「そうだな。伯父のところは、所有している大型船、貨物船が、100隻ぐらいかな?」
「そんなに!! それを五十人体制で管理しているの!?」
「うん。一族経営が多いかな。だから伯父も従兄も、俺にも会社の手伝いをしろと言うんだよ。次世代の男子が従兄と俺だけだから。そうだ。来年、また伯父の会社の大型船が完成して、一隻増える。進水式があるんだ。先生も見てみる?」

 殺人の話がぶっとんでしまった。

「まって。大型船って、造船って、すごいお金かかるよね?」
「金がかかるから、エヒメオーナーに『船を造ってくれ』と依頼がくるんだよ。最近では大手商船会社もコストがかかるんで、エヒメオーナーに依頼してレンタルするぐらい。造船と管理についてはプロフェッショナルと言えばいいかな」
「その、お仕事の、お手伝いがアルバイト、なんだ」
「人事の手伝いと、あと二等航海士の資格を維持するために、派遣で船に乗っている。従兄が伯父の会社とは別に、船乗りの派遣会社も経営しているからそこで、入れるシフトの乗船をしているんだ」

 さらに美湖は驚愕する。

「ハル君、島を出たらなかなか帰ってこないと思ったら、船に乗っていたの!」
「瀬戸内海を行き来する内航船だけれどな。だから二週間ほど島を離れたりするんだ」

 甘い雰囲気にとろけそうだった余韻もぶっとんだ。そして美湖は、目の前にいる男がほんとうに、この瀬戸内海の民の血脈を受け継ぐ子孫なんだと目を瞠った。
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