先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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27.グリーンフラッシュを見せたい

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 市街の港にあるマリーナにクルーザーを預けて、そこから晴紀オススメのダイニングカフェに連れて行ってくれた。帰りの海上では、途中で釣りをさせてくれて、時間が過ぎていく。
 その時にはもう、晴紀との会話は、いつもの『かわいくねえ』が何度もはいるものになっていたし、晴紀も最後には笑っていた。

 夕陽でオレンジ色に輝く海を往く。
 また美しい色彩に美湖は包まれる。船首の操縦席には操舵を持って波しぶきを散らしてクルーザーを動かしている青年の姿。

「綺麗だねー、ほんとうに、なにもかも綺麗」

 美湖がそう言っても、晴紀はなにも言わないで、またオレンジ色の水平線と燃える夕陽を見据えている。

「センセ、グリーンフラッシュって知ってる?」
「グリーンフラッシュ?」

 晴紀の目は美湖へ向かない。ずっと燃える夕陽を見ている。綺麗なまつげも夕焼けにそっと艶めいている。でもその眼差しも表情ももう優しい。

「日が昇る時、沈む時。一瞬だけ緑色に光ることがあるそうなんだ。それがグリーンフラッシュ。外航船で長く航海をしていると、大きな海原でたまに見られるらしい」
「滅多にみられないの? 赤い太陽なのに緑の光?」

 晴紀が頷く。

「そう滅多に見られない。それを見られたら幸せになれるんだという、船乗りがいつか見てみたいと思っているものだよ」
「幸せになれるかはともかく。滅多に見られない現象なら、それを見られただけでやっぱり幸せだね」

 美湖の言葉に、晴紀が嬉しそうに微笑んでくれる。

「それを見たかったな。いまは、センセに見せたい。俺は見られなくても――」

 やだ。そんな健気なこと言われると……。かわいくない先生でも泣いちゃいそう。美湖はつい夕陽を眺めるふりをして、操縦している晴紀から背を向けてしまった。

「そんなもん見られなくても、幸せになれるよ!」

 でも。自分が見たかったものを、先生に見せたい、自分は見られなくてもいいからなんて言ってくれる男の気持ちが美湖には切なくてしようがない。
 晴紀はもう俺はそれを見られないだろう。見る資格もないだろう。でも先生にはその資格があるからそうなってほしいと言われているようで。

 この罪を心に刻んで生きている青年と一緒に、これからも。美湖もそこは心に刻む。

 クルーザーが島のマリーナに到着した頃、ちょうど日の入りになり、あっという間に海が紫色に鎮まっていく。



 船から桟橋へ移ろうとするその前に、薄暗くなったマリーナ、クルーザーの甲板で晴紀に抱きしめられる。

「ハル君……」
 後ろから抱きしめられ、美湖もそっと肩越しに振り返る。
「嬉しかった。でも……」
 でも……。その先が言えずに憂う声色。

 美湖もそっとうつむき、自分の両肩を囲う逞しい男の腕に顔を埋める。

「先のことはその時に。今は今で一緒にいよう」

 いまこうして彼が抱きついているのは、いまは一緒にいたいことを意味していると思ったから、美湖もそう言っていた。

「明日も、うちにおいでよ」

 そう答えると、やっと安心したように晴紀が離れた。我に返ったようにして気後れした顔で、美湖の手を取ると、そのまま桟橋へとあげてくれる。

 帰ろう。診療所に。
 またそこで、いままでとは違う彼との毎日が始まる。美湖の手を引く青年、晴紀の手に任せて。一緒に帰る。



◇・◇・◇



 晴紀と少し違う関係になったようで、でも美湖の生活は変わらない。
 診療所でまた島民を診察する日々。青い異世界を通じて起きた甘く感じた熱は、いまは奥に仕舞う。

 それでも、診察室の窓辺に見える海から夕凪が見えてくると『俺は見られなくても、センセには見せたい』と言ってくれた青年の姿が浮かんできてしまってしようがない。

「美湖先生、お疲れ様でしたー」
 診療時間が終了し、愛美が帰宅する。
 だが美湖がいる診察室の灯はまだ落ちない。

 そこで美湖はカルテを振り返る。
 年齢、性別、季節。多かった症状がないか。また慢性的になっている症状はあるか、あればどうするか。いままでの診療履歴などと照らし合わせる。
 一週間分の往診予定を眺めて、スケジュールの見通しを立てる。
 最後は吾妻から借りた資料や書籍を開いて読み込む。

 そうしていると、空が美しいワイン色に染まる。その時間は僅かで、少し眺めている間に空も海も藍に消える。だが、遠くタンカーや漁船の漁り火が煌めき始める。

 風は潮の匂い。瀬戸内の夏の夜。島は静か、夏虫の声。

「センセ、お疲れさん。まだやってんの」
 診察室のドアが開き、そこから晴紀が覗いている。
「うん。でももう終わるよ」
「メシ、食ってなさそう」
「ああ、うん。お肉と野菜でも炒めて食べようかと思ってた」
 晴紀がちょっと窺うように美湖を見ている。
「俺、作ろうか?」
「え! 作れるの、ハル君!」
「船乗りの時は食べる施設が整っていたけれど、陸では独り暮らしだったし、いまだって母ちゃんと一緒に作ったりしているけれどな」

 ちゃんと自立しているのが年下の彼のほうで、お姉さんであるはずの美湖は情けなくなってしまう。

「これ。今日、漁協でアサリが獲れて、もらっていたんだ。ボンゴレにしようか、酒蒸しとかもさっとできるけれど、ニンニク入れる派、入れない派?」
「ボンゴレ! もうもうずううっと食べていない! ニンニク入れる派!!」
「じゃ、それにするな。あ、ロッソとビアンコ、どっちがいい?」
 どっちも作れるんですかーと、美湖はますます自分が情けなくなりつつ観念して甘えてしまう。
「ビアンコでお願いします」
「白ワイン、持ってきたから、これで作るな。三十分くらいで出来ると思うから待っていて」
「うん。じゃあ、もうしばらくここで雑務を片づけておくね」

 診察室には一歩も入らないで、晴紀はキッチンへ向かっていく。
 美湖はまたデスクに向かった。メールが来ている。吾妻からだった。

『島で手術を希望している患者がいる。家族が市街に通うのが負担になること、早急な手術が必要なため、港中央病院で引き受けることにした。助手をしてくれないか』という内容だった。症状と吾妻が計画している術式が説明されていた。麻酔科医も市街の大学病院から派遣してらえる手続きを済ませているということだった。

 心臓外科のアシスタントも依頼したほうがいいのではないかと思ったが、自分はそう思うけれども間に合わないのであれば助手をすると返答しておいた。

 その術式の資料が添付されていたため、美湖はそれを眺めておく。
 窓から潮騒。遠く料理をする音。ニンニクとオリーブオイルの匂い。

 センセ、美湖先生。美湖……。
「美湖サン」
 その声にはっと振り返る。開け放たれていた診察室のドア、そこにまた晴紀がいる。

「あ、ハル君……」
「出来たんだけど」
「う、うん。もう行くね」
「本当に? またそのモニターに向かったら、一時間は戻ってこない気がする」

 もしかして――と、美湖は時計を見た。晴紀が作るとキッチンに行ってしまってから一時間以上が経っている。
 驚いて、思わずデスクに手を突いて慌てて立ち上がった。
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