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【1】 サフォークの丘 スミレ・ガーデンカフェ 開店です

④ 妻も恋人もいらない、カフェがしたい

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 話を聞いてすぐの休暇日。普段の舞は『花のコタン』に近い森林地区のアパートで独り暮らしをしているのだが、久しぶりに実家へと帰省した。

 実家は、札幌市内でも高級住宅街と呼ばれている北海道神宮周辺にある。
 曾祖父の代から三代、舞の世代で四代目になる土地に一軒家を持つ。
 都市部とはいえ神宮周辺は、円山まるやまと呼ばれる小高い山が寄り添い、その麓は緑のもりが広がり、北海道らしい自然豊かな街となっている。よくいえば『セレブ街』だった。

 白樺の林に囲まれた道を軽自動車で往き、緩やかな坂道の住宅地に到着する。
 再度、話し合うと連絡をしていたため、父も待ち構えていた。

「おかえり、舞」
「ただいま。久しぶりになっちゃった」

 郊外の森林地区に住み仕事ばかりの五年を過ごしてきた舞にとって、実家に帰ることは希なことだった。

 もちろん忙しく余裕がないのもあったが、父には好きなように生きてほしい、恋人ができても、今度こそ娘の自分は邪魔にならないようにと思って、気ままに帰省するということはしないようになってしまったのだ。

 実家に帰宅したら、まずやりたいことも決まっている。

「お母さんが好きだったお菓子、買ってきたんだ」
「おお、三方六さんぽうろくだな」

 道内有名製菓会社のバームクーヘンを持ってきた。わっかの形ではなく、それを薪割りのように縦に切った三角形が特徴。外側には白樺模様をイメージした白と黒のチョコレートでコーティングされている、道内ロングセラーの菓子である。

 小さな頃、母と一緒に食べた記憶がある。だから余計に舞にとっては特別なお供えものとなっている。

 父と共に仏間へ。母に三方六を供え、かわいがってくれた祖父母にも手を合わせ挨拶をする。その後は、父と暮らしていたときに一緒に食事をしていたダイニングへ向かう。

 珈琲会社でメニュー開発部にいる父だから、お持て成しのお茶も菓子の準備も完璧で、娘が好きな紅茶と生チョコレートを添えてくれた。

 その紅茶を飲むとほっとする。ああ、お父さんのお茶だ。舞にとっては父親のぬくもりをかんじる瞬間でもあった。

 ダイニングで向かい合ってお茶をしていると、父から話を始める。

「お父さんのお父さん、舞の祖父ちゃんが死んだのは何歳だったか知っているか」
「えっと、六十幾つぐらいだったかな」
「父さんも、あと十数年したら同じ年頃だ」

 どこか空しそうに父がティーカップを呷っているように見えた。
 舞にはピンとこない。そんな人生八十年と言われて久しいだろうし、まだまだ父は若いのにと思うからだ。

「もし。父さんも祖父ちゃんと同じ頃に亡くなるとしたら……。もうそれしか時間がないのだなと、最近よく思うんだ」
「まだ若いじゃない。いまは長生きする時代でしょう。そんなまだまだ時間あるよ。いま七十歳だって若くて元気な人いっぱいいるじゃない」

 だが父は憂う眼差しを落とし、呷っていたティーカップを静かにソーサーに置いた。

「長寿の時代と言われても、お父さんのお父さんは六十までしか生きられなかったよ」

 そのとき、父はまだ三十少しの年齢だったはず。いまの舞ぐらいの年齢だ。おそらく、妻と父親を相次いで亡くした頃に違いない。父にとって『家族の死』はとても近いもので、それを常に肌身に感じる人生だったのかもしれない。それでも舞は父へと向かう。

「だったらお父さん、だからこそ元気なうちにも好きなことをしたら……」

 したらいいじゃない――と続けようとして、舞はハッとして口をつぐんだ。その『やりたいこと』がなにかわかっているから。

 父が怖いほどの目で舞を見据えていた。

「それだよ。舞。父さんがやりたいことは、気に入った土地でカフェ経営をすることだ」
「だから、どうして士別市なの。札幌にだって適切な土地あるでしょ、札幌じゃなくても、千歳でも江別でも恵庭でも。石狩でも、喜茂別きもべつニセコだって! 都市部周辺にもカントリーな雰囲気が素敵な土地はいっぱいあるじゃない」
「それもたくさん見て回った。迷ってばかりだったが、あのスミレの家がピンときたんだ」
「お母さんの名前と一緒なだけじゃない!」
「夢だったんだ。スミレという名の店を持つ。お母さんと若いときに約束をした。夢を見て珈琲会社で一緒に働いていた。いつか独立をするのが夢だったんだ」

 舞は目をしばたく。目の前の父はいつだって余裕がある大人で、頼りがいがあるお父さんだった。舞が大人になったから? いま『夢』を吐露した父は『夫』であって『男』にも見えた。そのうえ、父の隣に『母』を感じた。

 そして初めて気がつく。父がほしいのは、やりたことは、『妻や恋人』とか『結婚』ではない。そんなことはとっくに眼中になかったのだと。

 さらに父が事もなげに告げる。

「この家と土地を売ろうと思う」

 また舞に衝撃が襲う。気が遠くなりそうだった。だからすぐに言葉で返せない。そんな頭の中が真っ白になっている舞をわかってか、父から切り出す。

「実はな。姉さんと義兄さんの和菓子屋が、あまりいい経営状態では無いらしく、このまま行くと閉店しなくてはならないそうなんだ」
「伯母さんのお店が!?」

 これにも舞は驚きを隠せない。父の姉、伯母は母が亡くなってからも舞の面倒をよく見てくれた親戚だけに、舞にとっても他人事ではない。

 舞が子供の頃、父の仕事が遅ければ、伯母がよく店がある自宅に連れて行ってくれた。年頃も近い従兄たちと、本当の兄妹のように喧嘩しながら、子供らしく過ごせた伯母宅、好きなお店でもあった。和菓子といえども、その時の流行を取り入れたモダンなものも取りそろえ、その地区では愛されてきた老舗とも言われていた。弟はエルム珈琲の社員で『食べ物好きの、舌が肥えた姉弟』としても業界では有名らしい。

「あの店も随分古くなったのと、コンビニの台頭で昔ほどの売り上げが維持できないらしい。当面の借金を返す資金が必要なんだ。父さんのところに相談に来たのが一年前だ」

 もうだいぶ前だったため、なにも知らないで自分の生活に精一杯だった舞は、まめに実家に帰ってこなかったことに、初めて後悔を覚えた。

「伯母さんはなんて……」
「もう閉めるしかないと言ってはいるけれど。本心はまだ辞めたくないんだろうな。あの地区の人々に先代から何十年も愛されてきた老舗だ。おいそれと自分の代で潰したくないという気持ちも強いだろう。そこで決めたんだ。この家は、父さんひとりしか住んでいない。舞のために残しておきたいという気持ちもある……、だが、」

 父もまだ迷いがあるのか、言葉を濁した。それでも、ここの土地を売るのがいちばん金になるというのは舞にもわかる。

「舞が許してくれたら。この土地と家を売った金は、伯母さんと弟の私で折半する。それをカフェ開店の資金にあてる。士別市の家が、父さんと舞の新しいこれからの家になる」

 そんなことを急に言われても、すぐに『はい』なんて言えない。

「曾お祖父ちゃんの時から、ここに住んでいたんでしょ。一度、立て替えもしてでもここに住んでいたんでしょう。お父さんにとっても、私にとっても、生まれ育った家だよね」
「そうだ。伯母さんにとってもだ」
「それを売ってしまうの? 他に方法はないの?」
「家族を助ける手っ取り早い方法ということになる。でなければ、姉弟で借金をすることになる」

 それはそれでまた重荷になる。『手っ取り早く身軽になる』のがこの家を売ること?

「泣いていたよ、伯母さん。仏壇に手を合わせてね、祖父ちゃんと祖母ちゃんと、曾祖父ちゃん、曾祖母ちゃんに、ごめんなさい、ごめんなさいって。剛のせいじゃない、姉の私のせいだ、怒るなら私にしてくれと言ってね……。義兄さんも頭を下げていた。不甲斐ない婿だったとね」

 大好きな伯母が泣いて詫びていたと聞いて、これは親戚一同の危機だったんだと、舞もやっと実感する。胸に迫るものがあった。

「あとは、私が承知するだけなんだ」
「うん」
「伯母さんのお店でさえ経営が傾く時代なのに。お父さんはそれでも飲食店を、しかも、人口も少ない町で店を開くというの?」

 同じ事を繰り返すのではないか。姉が経営に苦しんでいるというのに、弟はできた資金で経営を始めようとしているだなんて。

 だが父も至極真剣な顔で言い切った。

「失敗をしても良いと思っている。二、三年を目処に、経営が上手くいかなかった場合は、父さんもカフェからは手を引こうと思っている」
「もう帰る家はないんだよ、そのときには」

 そこで父がティーカップを手に取り、冷めた紅茶を揺らしながら、ふっと静かな笑みを見せた。

「だから。見つけたあの家がつい棲家すみかになるんだ」

 終の棲家。また父が消えていきそうな言葉を使うので、舞は泣きたくなってくる。

「あのスミレに囲まれて死ぬのもいいなと思って……」

 舞は顔を覆って、泣いた。声を立てず、涙を隠して。
 そんなことを言わないで、お父さん。お父さん、どこに行こうとしているの?
 そんな父を舞は放っておけない。きっと。
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