名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

10.ワインエキスパート

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 はるばる九州からやってきたお師匠さんを、まさかのセルヴーズである葉子の専属、すぐ上の役職をもつ『シェフ・ド・ラン』にしたいと蒼が言い出す。

 なのに父は妙に頷いて黙っている。まるでもう蒼の意図を読み取っているかのよう。
 仕事では相棒である父と蒼は通じているのに、夫と妻である葉子にはさっぱりわからなくて、どういうことか知りたくて気が急く。

 葉子同様に甲斐氏もわからないようで、当惑した顔をしていた。

「シェフ・ド・ランでということは、かまわないのですが。どうして十和田葉子さんの直属なのでしょう。ホールで食事をしながら眺めていたところ、篠田給仕長の補佐を担っている青年が一人いたようで、彼がシェフ・ド・ランの可能性があるなと見定めていたのですが、こちらのレストランではまだ不在ですか」

 よく見定めていると、葉子はますます畏れを抱いた。
 蒼の手が足りないところを、葉子ではない、もう一人の青年の江藤君でもない、神楽君が蒼と話し合って動いていると見抜いていた。

 それは蒼も『さすがだなあ』と、ちょっぴりだけ元部下だった弱さを見せ肩を小さくすくめている。だがそのままお師匠さんに向き直った。

「そのシェフ・ド・ランは、いま私、篠田の補佐をしています。同時に十和田と江藤というギャルソンとのまとめ役としています」
「既にシェフ・ド・ランがいる、このレストランなら一人で充分でしょう。私はコミ・ド・ランで大丈夫ですよ」
「正直なところ、小さなレストランではありますが、常に満席状態が続いているので、もうひとり経験あるシェフ・ド・ランがいると非常に助かります。ほんとうは葉子も既に見習いである『コミ・ド・ラン』は卒業できているし、本来なら『シェフ・ド・ラン』に任命したいほどでした」
「それなら、二人目のシェフ・ド・ランは葉子さんが、私は葉子さん付のコミ・ド・ランで結構ですよ」
「んー。正式にはどう呼べばいいかわからないので、シェフ・ド・ランとしたのですがぁー」

 急に蒼が給仕長としての厳格な雰囲気を解いてしまい、いつもの蒼君の口調に戻って、なにか考えあぐねている。

「どちらも『ソムリエ』ではないのですけれど。甲斐さんには『ワインアドバイザー兼任のシェフ・ド・ラン』を、葉子ちゃんには『ソムリエ修行』をする『コミ・ソムリエ』的なセルヴーズの立場を作り上げてほしいので、その指南役をお願いしたいと思っています」

 再度、履歴書に蒼は目線を落としている。

「ソムリエの試験は、二十歳以上、実務経験が三年以上。まず『ソムリエ資格』を取得できる。さらに『ソムリエ・エクセレンス資格』の場合は、三十歳を越えていること、通算十年以上の実務経験があり、なおかつ現在も継続して勤務していることで取得可能。自分はメートル・ドテルでサービスを極めたかったので、実務経験がなくても二十歳以上であれば誰でも、愛好家でも取得できる『ワインエキスパート』まででした」

「自分もおなじですよ。履歴書を見ていただければわかりますよね」

「ですがメートル・ドテルになるのならば、ワインの知識もほしい。だからソムリエかワインエキスパートを取る。秀星先輩も持っていたからこそ、ここ『フレンチ十和田』のワインリストにも力を入れていた――ですよね。シェフ」
「そうだな。秀星もワインエキスパート資格持ちで、あいつが来てからは、毎日のワインのセレクトが楽になったし、料理と合わせてくれて安心だった。仕入れも目利きも任せていたもんな」

 履歴書に『ワインエキスパート』の資格が記されていたから、父が『あ、これ。葉子に教えてもらえる』と思って、蒼と一緒に頷いていたことが葉子にもやっとわかった。
 蒼もそう。ほんとうはお師匠さんを大分のご家族の元に帰すべきとわかっているけれど、採用したとして『いい利点がある』と見抜いてしまったのだろう。

「自分も『ワインエキスパートの資格』は持っているけれど、甲斐さんのほうが年季がありますもんね。忙しくてなかなか彼女に時間を取ることができなかったので、そこをお願いしたいです」
「つまり、ソムリエをめざしていると?」
「はい。彼女の次の目標です。桐生が毎晩、少しずつ教えていたようですが、あのことで突然、教育が止まったといいましょうか。自分も毎晩彼女と自宅でドリンクタイムを持っているので、そこで持っているコレクションで教えることはできますが、実務訓練となると職場での経験が必要となります。勤務先に専属の指導役が一人いると随分違います」

 つまり。甲斐氏は蒼と同じく『ワインエキスパート』の資格を持っていて、葉子専属のソムリエ勉学のアドバイザーとしてそばに付けたいということらしい。

「ソムリエを目指すといえども、基本は接客サービスですから。引き続きセルヴーズとしての教育もお願いしたいです。そんな意味での、シェフ・ド・ランです」

 途端に、甲斐氏の表情がきらっと輝いた。
 それはもう、蒼が元気いっぱいの男になる時にそっくりで葉子は目を瞠る。

「と、いうことは! その役目で採用としてくれるってことですか。篠田給仕長!」
「いえ、ですから。ご家族のご了承を取ってからです。息子さんからのお手紙を一筆、私宛にください」
「わかった! 待っていてくれよ! いますぐ!」
「はい?? いま、すぐって……」
「しばし、失礼いたします」

 甲斐氏はバッグからスマートフォンを取り出すと、そのままリビングの外にある廊下へと出て行ってしまった。
 もう蒼も父もきょとんとしている。

「蒼君、覚悟しておいたほうがいいな、これ」
「えーーっ、ちょっとパパ。オーナーシェフとして、大分に帰ったほうがいいですよって言ってくださいよ。俺なんて、どうあっても『小僧』なんですから、言うこときいてくれませんって」
「うーむ、あの年齢の方を雇ったことがないからという迷いがなければ、いい経歴の持ち主で、なかなか来てくれない、勿体ないと思うほどのものだよなあ」
「わかってますよ。そんなの俺だって。だってだって、俺の上司だったし、秀星さんのお師匠さんですよ! アドバイザーとしても最高の人材ですよ。でもお歳とお住まい!」

 どうするんだろう、どうなるんだろうと、オーナーの父と上司である蒼の男二人が判断しかねているだけで、葉子もドキドキハラハラ。
 母もこれはどうにもならないわと思ったのか、キッチンへと蒼がやりかけたお料理の続きへと向かってしまった。
 葉子も母の手伝いをしようかと思ったら、廊下から甲斐氏が戻ってきた。

「お待たせいたしました。はい、篠田給仕長。私の息子がお話しをしたいそうです」
「え、息子さん??」
「何度か会ったことあるだろ」
「十年以上前ですけどっ」

 それでも蒼が甲斐氏が差し出しているスマートフォンを手に取った。
 もう息子さんに説得してもらうもんねと言わんばかりの力んだ勢いで、電話を耳に当てる。

「お久しぶりです。篠田です。お父様の突然の申し出についてですけれど――」

 さあ。息子さんはどう蒼に答えるのか。
 葉子と父の政則は父娘でおなじような顔を揃えて固唾を呑む。

「え、あの、ですけれど。お父様お一人になってしまわれるんですよ。はい……、ええ、まあ、その、経歴はばっちりですよ。もちろん。はあ……、はい……」

 どんどん勢いがなくなって、あちらの息子さんと話せば話すほど、あの蒼が無口になって意気消沈していく。
 息子さんはいったい、どう考えているのだろうか。葉子も、その電話の会話を一緒に聞きたい衝動に駆られている。

 蒼がため息をつきながら、まるで諦めたように黒髪をかいて顔をしかめている。

「いかがでしょう。篠田給仕長」
「まず三ヶ月ですよ」
「ということは、『採用』ですか。篠田給仕長」

 甲斐氏は勝ち誇った明るい笑顔を輝かせていて、蒼は敗北感いっぱいに、頭を重たそうに項垂れ、がっくりしている。

「シェフ、よろしいでしょうか」
「んー、そうですね。まずは三ヶ月ということで。篠田が良き人材と思うのならば、私からも是非」
「え~っと、採用です!! もう、いいですよ。採用ってことで!!」

 蒼が悔しそうにして、破れかぶれに叫んだ。
 甲斐氏が『やった』とガッツポーズを見せる。

 うそー、うそ!! 師匠の師匠が『フレンチ十和田』に雇われちゃった!!
 しかも、葉子専属の『ワインアドバイザー、シェフ・ド・ラン』として!!

 どうなるの!? そんな戸惑いの向こうで、葉子の心が少し躍っている。

 秀星さんと過ごしたような日々がまた始まる?
 お師匠さんの向こうから、秀星が戻ってくるような気もして……。
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