75 / 103
【後日談2】トロワ・メートル
14.揺れる想い
しおりを挟む
興奮が収まらない。
葉子は思わず、本日の軽食を詰めたパックを持って、外へと昼食へ出かける。
あの東屋で、ひとりで食べて熱を冷まそうと思ったのだ。
レストランでランチタイムがあるのは週三日、その日の昼休みは二時間休憩になっている。その時、レストランから外に出る場合、私服に着替えていく規則ができた。
夏は汗をかきやすいので外で制服を汚さないこと、観光シーズンで人目が多い土地柄なので、制服姿で休憩をして、気を抜いている様子をサービスマンとして見られないようにと考慮してのことだった。
いつものスポーツスタイルで出勤している葉子は、この日は夏の湖面のような碧いTシャツと、いつものスカート付きの黒スパッツパンツに着替え、ジョギングシューズを履いて外に出る。
今日は平日だが、夏休みの最中でいちばん大きな湖になる大沼から、賑やかな声が聞こえてくる。
睡蓮も最盛期だが、そろそろ見頃が終わる。
緑に燃ゆる駒ヶ岳、青く輝く湖に遊覧船がゆく。大沼は浮遊している小島が多く、そのうちの六つの島を繋いでいる橋を渡り歩いて散策することができる。
その大沼湖月橋の周囲には今年も、睡蓮が取り囲み、観光客がカメラにスマートフォンを構えて、湖面の花々を撮影している姿がよく見られる。
久しぶりに昼休みのランチをするため、外へと出かける。
気持ちを落ち着けたい。なんだか興奮していて、これはダメだ、ふわふわして失敗しそうだと感じ取っていた。
一人になって、熱を冷まそう。
お師匠さんから、秀星を見た。
いまも秀星に会えたような錯覚に陥ると、葉子の心はかき乱される。
哀しさよりも、会えたという喜びが勝っている。もっと言っていいなら、秀星さんが会いに来てくれたとさえ……。
動画配信は不定期になったのに、いまも葉子はギターを持って出勤する。動画配信の機材もおなじくだった。それらは店の休憩室に置いてきたが、ギターだけは担いできた。
今日の賄い軽食ランチは、スモークサーモンとアボカドのサンドと、フルーツサンド。そして、特製ピクルス。
いつもの東屋に到着する。
奥まった場所にあって、森林に囲まれた水辺がある。こちらは大沼と違って、ほんとうに沼のような静寂を湛えている。観光客もよほどでないと、ここまで歩いてくることもない。それでもハイキングで来た人々のために、休憩所として、または雨宿りができるようにと、奥まったここに、この東屋がある。
ここの水面にも、咲き終わりの睡蓮が揺れていた。こちらもモネの絵画のような、しっとりとした風情のまま。ここにくると葉子は落ち着く。
緑の深さ、ほのかな花の香り、森の奥からさざめいて届く風。湿った土と水辺の匂い。鬱蒼とした木々の緑が葉子をひんやりと包んでくれる。
そして、秀星との思い出が、優しく葉子の心を撫でる。
彼がそこで微笑んでいる。
『どうしたの、ハコちゃん。でも僕の上司、凄いでしょ』
「うん。凄かった。やっぱり秀星さんの先生だった」
やっと心のざわめきが凪いだように、葉子は感じた。
お馴染みの東屋で、いつもの場所に座って、葉子はランチの軽食を開ける。
ギターとトートバッグもベンチの傍らに置いて、スマートフォン片手にサンドイッチを頬張る。
「世界の、貴腐ワイン、デザートワイン……と」
まずインターネットで検索をしてみた。
すぐに知りたい。答えを見つけたい。そんな探求心が自然と湧き上がってくる。
そこで葉子はスマートフォン片手に検索結果の画面を見ながら、ふと我に返る。
「唄だけしか考えられなかったのに。不思議だね。いくつも、生きていく方法があったんだね」
そう言いたい。だが、そう思えるのに、葉子の心は次には沈んでいた。
「秀星さんには他の生き方もあったのに。持っていたのに。一流のサービスマンだったのに。写真家であろうとする人生を選んだんだね。なのに私には、唄以外の生き方を遺してくれて……。やっぱり一緒に、この仕事やりたかった。ずっと一緒に」
身体の芯が熱くなるほど、今日の葉子は甲斐チーフから秀星を生々しく感じられたのだ。
それはもう自分の心に一区切り付けていたはずなのに、やっぱりまだ恋しい人としていつだって蘇る。
恋ではなかった。でもいまなら恋に思える。でもそれは自分が大人の女になったからだ。結婚したいと思える男性と出会って、女として愛することを知ったからだ。
彼が隣にいるとき、葉子に優しく微笑んでいるとき、葉子は少しも秀星のことを男だとは意識していなかった。でも、ずっとそばにいたかった。
いまもここに座っていると、カメラを持って幸せそうな顔をしている秀星の匂いも体温も、思い出す。肌に感じている。鼻孔が彼の髪の匂いを覚えている。
もう、やめよう。いつまで私は……。そう思ったから、デザートワインのことを調べるのもやめた。
とにかく、ここで心をからっぽにして戻ろう。
そんな時だからこそ。葉子は食べ終わると、ギターを手に取っていた。
ケースから出して、バンドを肩にかけて、ピックを持つ。
弦を上から下へと撫でると、しゃららんと優しい音が鳴る。
「たった一度しか、唄ってあげられなかったね。あれから私、お母さんのCDを全部借りて、ZARDをたくさん聴いたよ。そうしたら秀星さん、アパートのお部屋におなじものを持っていたね……。好きだったんだね」
揺れる想い ZARD
タイトルと同じ歌詞で始まるフレーズから、葉子は深い緑に包まれているここで、ひとりきりのここで、声を張り上げた。ギターの弦をかき鳴らし、葉子は唄う。
届け、あなたに。聴いて、あなたに唄いたかった歌を――。
「凄いね! もう歩いているそこから聞こえてきた!!」
緑の散策道から、そんな通る声が響いて、葉子はとてつもなく驚く。声も弦をならす指先も止まった。
「はあ、追いつくの大変でした。やっぱり歳だなあ」
甲斐チーフだった。葉子を追いかけてきてしまったらしい?
葉子は思わず、本日の軽食を詰めたパックを持って、外へと昼食へ出かける。
あの東屋で、ひとりで食べて熱を冷まそうと思ったのだ。
レストランでランチタイムがあるのは週三日、その日の昼休みは二時間休憩になっている。その時、レストランから外に出る場合、私服に着替えていく規則ができた。
夏は汗をかきやすいので外で制服を汚さないこと、観光シーズンで人目が多い土地柄なので、制服姿で休憩をして、気を抜いている様子をサービスマンとして見られないようにと考慮してのことだった。
いつものスポーツスタイルで出勤している葉子は、この日は夏の湖面のような碧いTシャツと、いつものスカート付きの黒スパッツパンツに着替え、ジョギングシューズを履いて外に出る。
今日は平日だが、夏休みの最中でいちばん大きな湖になる大沼から、賑やかな声が聞こえてくる。
睡蓮も最盛期だが、そろそろ見頃が終わる。
緑に燃ゆる駒ヶ岳、青く輝く湖に遊覧船がゆく。大沼は浮遊している小島が多く、そのうちの六つの島を繋いでいる橋を渡り歩いて散策することができる。
その大沼湖月橋の周囲には今年も、睡蓮が取り囲み、観光客がカメラにスマートフォンを構えて、湖面の花々を撮影している姿がよく見られる。
久しぶりに昼休みのランチをするため、外へと出かける。
気持ちを落ち着けたい。なんだか興奮していて、これはダメだ、ふわふわして失敗しそうだと感じ取っていた。
一人になって、熱を冷まそう。
お師匠さんから、秀星を見た。
いまも秀星に会えたような錯覚に陥ると、葉子の心はかき乱される。
哀しさよりも、会えたという喜びが勝っている。もっと言っていいなら、秀星さんが会いに来てくれたとさえ……。
動画配信は不定期になったのに、いまも葉子はギターを持って出勤する。動画配信の機材もおなじくだった。それらは店の休憩室に置いてきたが、ギターだけは担いできた。
今日の賄い軽食ランチは、スモークサーモンとアボカドのサンドと、フルーツサンド。そして、特製ピクルス。
いつもの東屋に到着する。
奥まった場所にあって、森林に囲まれた水辺がある。こちらは大沼と違って、ほんとうに沼のような静寂を湛えている。観光客もよほどでないと、ここまで歩いてくることもない。それでもハイキングで来た人々のために、休憩所として、または雨宿りができるようにと、奥まったここに、この東屋がある。
ここの水面にも、咲き終わりの睡蓮が揺れていた。こちらもモネの絵画のような、しっとりとした風情のまま。ここにくると葉子は落ち着く。
緑の深さ、ほのかな花の香り、森の奥からさざめいて届く風。湿った土と水辺の匂い。鬱蒼とした木々の緑が葉子をひんやりと包んでくれる。
そして、秀星との思い出が、優しく葉子の心を撫でる。
彼がそこで微笑んでいる。
『どうしたの、ハコちゃん。でも僕の上司、凄いでしょ』
「うん。凄かった。やっぱり秀星さんの先生だった」
やっと心のざわめきが凪いだように、葉子は感じた。
お馴染みの東屋で、いつもの場所に座って、葉子はランチの軽食を開ける。
ギターとトートバッグもベンチの傍らに置いて、スマートフォン片手にサンドイッチを頬張る。
「世界の、貴腐ワイン、デザートワイン……と」
まずインターネットで検索をしてみた。
すぐに知りたい。答えを見つけたい。そんな探求心が自然と湧き上がってくる。
そこで葉子はスマートフォン片手に検索結果の画面を見ながら、ふと我に返る。
「唄だけしか考えられなかったのに。不思議だね。いくつも、生きていく方法があったんだね」
そう言いたい。だが、そう思えるのに、葉子の心は次には沈んでいた。
「秀星さんには他の生き方もあったのに。持っていたのに。一流のサービスマンだったのに。写真家であろうとする人生を選んだんだね。なのに私には、唄以外の生き方を遺してくれて……。やっぱり一緒に、この仕事やりたかった。ずっと一緒に」
身体の芯が熱くなるほど、今日の葉子は甲斐チーフから秀星を生々しく感じられたのだ。
それはもう自分の心に一区切り付けていたはずなのに、やっぱりまだ恋しい人としていつだって蘇る。
恋ではなかった。でもいまなら恋に思える。でもそれは自分が大人の女になったからだ。結婚したいと思える男性と出会って、女として愛することを知ったからだ。
彼が隣にいるとき、葉子に優しく微笑んでいるとき、葉子は少しも秀星のことを男だとは意識していなかった。でも、ずっとそばにいたかった。
いまもここに座っていると、カメラを持って幸せそうな顔をしている秀星の匂いも体温も、思い出す。肌に感じている。鼻孔が彼の髪の匂いを覚えている。
もう、やめよう。いつまで私は……。そう思ったから、デザートワインのことを調べるのもやめた。
とにかく、ここで心をからっぽにして戻ろう。
そんな時だからこそ。葉子は食べ終わると、ギターを手に取っていた。
ケースから出して、バンドを肩にかけて、ピックを持つ。
弦を上から下へと撫でると、しゃららんと優しい音が鳴る。
「たった一度しか、唄ってあげられなかったね。あれから私、お母さんのCDを全部借りて、ZARDをたくさん聴いたよ。そうしたら秀星さん、アパートのお部屋におなじものを持っていたね……。好きだったんだね」
揺れる想い ZARD
タイトルと同じ歌詞で始まるフレーズから、葉子は深い緑に包まれているここで、ひとりきりのここで、声を張り上げた。ギターの弦をかき鳴らし、葉子は唄う。
届け、あなたに。聴いて、あなたに唄いたかった歌を――。
「凄いね! もう歩いているそこから聞こえてきた!!」
緑の散策道から、そんな通る声が響いて、葉子はとてつもなく驚く。声も弦をならす指先も止まった。
「はあ、追いつくの大変でした。やっぱり歳だなあ」
甲斐チーフだった。葉子を追いかけてきてしまったらしい?
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
『 ゆりかご 』
設楽理沙
ライト文芸
- - - - - 非公開予定でしたがもうしばらく公開します。- - - -
◉2025.7.2~……本文を少し見直ししています。
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
――――
「静かな夜のあとに」― 大人の再生を描く愛の物語
『静寂の夜を越えて、彼女はもう一度、愛を信じた――』
過去の痛み(不倫・別離)を“夜”として象徴し、
そのあとに芽吹く新しい愛を暗示。
[大人の再生と静かな愛]
“嵐のような過去を静かに受け入れて、その先にある光を見つめる”
読後に“しっとりとした再生”を感じていただければ――――。
――――
・・・・・・・・・・
芹 あさみ 36歳 専業主婦 娘: ゆみ 中学2年生 13才
芹 裕輔 39歳 会社経営 息子: 拓哉 小学2年生 8才
早乙女京平 28歳 会社員
(家庭の事情があり、ホストクラブでアルバイト)
浅野エリカ 35歳 看護師
浅野マイケル 40歳 会社員
❧イラストはAI生成画像自作
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる