名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

25.珠玉の一瞬、珠玉の一滴

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 どうして秀星が宝石と喩えたのか葉子にもわかるようになった。
 自分の中で尊いと思えたもの、感動したもの、すべてが宝石。
 秀星は大沼を宝石に思い、とくに、最後の夜明け、吹雪開けに見えた風景を宝石としていたのだ。

 それがなかなか手に入らない宝石だからこそ、手に入れたいという欲にまみれて撮影をしたともいえる。そう、だから、秀星が言っていた『欲にまみれた』という言葉が、ようやく葉子にも伝わってきたのだ。
 その欲にまみれて撮った写真、大事な人たちも愛も置いて、自分の命さえも投げだして。だから『エゴ』。
 いつ? 秀星さんは、いつあの写真のような風景を『宝石』と感じたのだろう? いつからあの瞬間を欲しい宝石として心に宿していたのだろう? どこであの宝石があると知ったのだろう?

 そのキッカケはもう彼本人にしかわからないことになったが、ずっとずっと秀星の中に君臨していた宝石だったはず。
 あまりにもそれが尊いものだから、誰も彼を引き留められなかった。
 ままならない自然のなかの一握りの宝石を狙うには、あの日、あの行動をするしかなかったのかもしれない。

 だったら。秀星はほんとうに満足をして逝ったのだろう。あらためて、その気持ちがワインに触れ始めた葉子にも、すんなりと流れ込んできた。

 今日の葉子には見える。
 吹雪の中、三脚にカメラをセットして、あの水辺で暴風に踏み耐え、夜明けの瞬間を待っている男の姿が、彼の目が。
ごめん、ハコ、帰れないよ。僕が探していた宝石が目の前にあるんだ。ごめん。欲しいんだ。どうしても欲しいんだ!
 彼が仕事の時に見せていた鋭い目つきがそこにある。獰猛に狙いを定めたハンターとおなじだったに違いない。そこにすべてを集結させて……。
 秀星にとって、それは魔性の風景だったのだろう。ずっと心の中にあった『尊いもの』があの写真だった。あれ以上のものはないから、逝くことができた?

 人にとって尊いもの。
 敵わぬ自然の中から生み出される風景に魅せられた男。
 ままならぬ自然に毅然と向き合い品質を守り抜くワインに魅せられた葉子。
 自然に翻弄されているからこそ、思い通りにならないことも起きる。

 そこから手に入れられる『珠玉の一瞬』、『珠玉の一滴』。

 自然の営みの中から、それぞれの宝石をみつけること。
 それが人の生き甲斐になっていくのだ。
 秀星には、あの撮影そのものが生き甲斐だったのかもしれない……。存命のころ、誰も知らなかった生き甲斐だったが、秀星はそれを待っていたのだろう。

 葉子は思わず、涙に濡れるままホールを後にした。

 涙を拭きながら辿り着いたのは、蒼の給仕長室。
 灯りがついたままになっている部屋に入ると、月明かりの向こうに浮かぶ大沼の湖面が輝いているのが見えた。

 蒼が追いかけて来て、間を置かずに給仕長室に現れる。

「葉子、どうしたの」

 窓辺で涙を拭いている葉子の目の前、ガラス窓に蒼の哀しそうな顔が映り込んで見えていた。
 その顔、もうわかってるね? 私がこんなふうになっちゃうのは、どんな時かもう知ってるから、そんな顔をしているんだよね?
 いつまでも秀星のことで、心を揺らしている姿を見られると、葉子は申し訳なくなる。

「気にしてるのかな。俺は気にしないよ。むしろ、俺だけを愛してくれなんて、傲慢なことはいいたくない。そんなの、もったいない」

 もったいない? 

「蒼君のほうが、私にはもったいない大人の男性だよ」
「そんなことを言っているんじゃないんだ。葉子が持っている感性を狭めたくないと言っているんだ。そんな意味の、もったいない」

 意味がわからないと、葉子の目からこぼれていた涙が止まる。
 頬に残っている涙を拭きながら、葉子は窓辺から彼へと振り返る。

「俺はね。秀星さんを想って、たった一人で水辺に立ってひたむきに唄っている葉子に惚れたの。恋でもないのに、ただ一人の男のためを想って頑張っている葉子のことをね。クールな顔をして、葉子は愛をたくさん持っているし感じられるんだよ。そんなところ、愛しているんだ」

「蒼くん……」

「これからも、その大きな愛を、俺の目の前で見せて。俺はそばにいる。応援していく」

 今度は違う涙が込み上げてきた。もう我慢できなくて、まだ制服のままだけれどと、葉子は構わずに蒼の胸へと飛び込む。蒼もなにも言わずに抱きついてきた葉子をきつく抱き留めてくれる。

「感受性強い子だね。なにか見たんだ。いいな、俺も一緒に見たかった」
「秀星さんが、撮影していた。最後のあの夜明け、あれが秀星さんの尊い宝石だったんだって気がついたの」
「そっか……。また先輩に会えちゃったんだ……」

 どこか切なそうにくぐもっている声に聞こえたのに、蒼はいつも一緒に眠る時と同じように、葉子の黒髪を撫でてくれている。葉子もそのまま、彼の白いシャツに頬を埋めてずっと抱きついていた。

 ふたりをそっとしてくれているのか。ここには、誰も来なかった。
 しばらく、彼とふたりきり。気が済むまで抱きあっていた。






 泣いた葉子のことなどなかったかのように、ホールに戻ると父と厨房の料理人達も、ワインの飲みくらべに参加していた。その賑やかさに紛れて、葉子も元の試飲の会へと戻った。
 父が作ってくれたフォアグラのピンチョスとブルーチーズと生ハムのカナッペも合わせて、デザートワインとのマリアージュも体験。
 最後、矢嶋社長からのお土産だった『トカイ・サモロドニ サラーズ』も試飲する。
 そこに、懐かしさを覚えた。やっぱりそうだったんだと……そっくりではないが、覚えがある味覚だと葉子には思えた。

もう一度、よく味わってごらん。

 あのワインが思い出に残っていたから、あの日に還るかのようにして、葉子は勉強をした。
 教えて。秀星さん。どうしてあのワインを飲ませてくれたの?
 甲斐チーフが先にその意図に気がついて、秀星が語れなかった想いを汲み取ってくれたから届いたあの時の彼の想い。
 それを葉子は感じながら、トカイの白ワインも新しい記憶に刻んだ。



 やっとお開きになったが、今日は蒼もアルコールを飲んでしまったために車の運転をすることが出来なくなった。そのため実家の十和田家に泊まっていくことに。
 制服から私服に着替えて、一緒に母が待つ十和田家へと向かう。
 レストランの従業員玄関を出ると、今日もカエルの鳴き声、そして晩夏を思わせる虫の声も聞こえるようになってきた。見上げる空には大沼自慢の満天の星。

「ね、蒼君。ちょっと散歩していかない」
「うん? いいよ。思いのほか酔っちゃったしね~。あー、ひさびさに飲んじゃったな~。いいワインだった!!」

 ラフな服装になった蒼が星空の下、大きく伸びをした。
 給仕長ではない夫に戻った蒼を見上げて、葉子ももう微笑んでいる。

 レストランの白樺木立の横にある小路を歩いて、湖畔まで。

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