名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【後日談2】トロワ・メートル

26.宝石と時計

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 今夜は風も穏やかで、水辺に打ち付ける波音は優しく柔らかい。月の光を纏いながら、葉子と蒼が歩く小路へと届く。

 時々一緒に散歩している小路だから、歩きながら会話をする。

「もうすっかりワインにはまっちゃった。こんな日が来るんだなあって驚いているの」
「そうだなあ。ハコちゃんは歌手志望で諦めきれないまま大沼に帰ってきたんだもんな」
「そう。もう一度、どうやって東京に帰ろうかと思っていた。毎日。でもお金がなくなっちゃったから、仕方なく実家に帰ってきたの。ただで家にいれると思うな、次のバイトと働き口が決まるまで、うちのレストランを手伝え。その条件でお父さんが実家に置いてくれるというから仕方なくね」

 あの時はどんなオーディションも一次が受かっても二次から向こうになかなか行けずに、なににおいても納得できない『不満の日々』を送っていた。函館でのアルバイトも探したが、東京より時給が安すぎて、独り暮らしなんてしようものならお金が貯まらないだろうと、実家に甘んじることにしたのだ。実家の手伝いで、オーディションを日帰りで受けられる飛行機代ぐらいは貯めておかねばと、そう考えていた。

 その想いを、秀星がいとも簡単に打ち砕いた。
 強烈だったのは『あなたがいま出来ることがあるとしたら、ステージを支えるスタッフのみ』という言葉。それぐらいの力しか、いまのあなたにはありませんよ――と言われたことだった。

 わかっていた。もしオーディションに合格したとしても、その先、すぐに仕事などなかっただろう。なんとかあの業界にしがみついて踏ん張っている友人だって、最後には事務所のお手伝いスタッフになったと聞かされたこともあった。
 その通りの道しか葉子には残されていない。そう聞こえたのだ。

 葉子はそのままの気持ちを、夫の蒼に、いま、月明かりの水辺を歩きながら吐露していた。
 蒼は、こんな時は優しい大人の男の顔で、静かに相づちを打つだけで耳を傾けてくれている。

「そうわかったら……。これから、どうやって生きていけばいいか怖くなった。そんなときに、写真を諦めないで、でも仕事も手を抜かない生き方をしている大人の男性が目の前にいた。仕事さえ続けていれば、いつかチャンスがあるみたいに見えたの」
「だから、ひとまず給仕の仕事を覚えようと思えたのか」
「うん。それから意外だったんだけど……。お料理とワインを合わせるカーブでのちょっとしたお勉強は、一日のうちの楽しみでもあったの。知らない世界だった。あの頃から、唄うこと以外の気になる世界を、私は心に宿していたんだね」

 蒼も静かに頷いてくれる。いま葉子をそっと包み込む金糸雀カナリヤ色の月明かりのように、穏やかな微笑みを湛え、葉子を見つめてくれている。

「唄も好きだけど、フレンチの世界も大好き。ワインは私の宝石になったよ」

 一緒に歩いていた蒼が立ち止まった。
 葉子も訝しみながら立ち止まる。彼を見上げると、泣きそうな顔をしている。

「蒼君?」
「今夜、あのワインを開けてよかったよ。葉子の宝石になったんだろ」
「……うん。記念日用だったのに、ごめんね」

 いいやと、蒼が口元を緩め、首を振る。
 こんな時の彼は、ほんとうに四十を迎えた大人の男の顔になる。なんでも包み込んでくれる、とても安らぐ優しさを感じることができる。

「なんとなく過ごす記念日より、葉子の宝石になってくれたほうが嬉しかったからさ。あ、でもシャトー・ディケムには負けちゃったかなあ!」

 また途端に、いつものおどける男になって真面目な空気を濁そうとしていた。
 ほんとうはちょっと哀しく思っているのかな。奥さんは記念日を準備していた夫の気持ちよりも『目標に向かうための糧』としてワイン開封を望んだし、宝石という言葉がこぼれたのは、世界の王様デザートワイン、シャトー・ディケムを口にした時だったし……。僕は一歩及ばずと思っているのかもしれない。

「負けてないよ。トカイ・エッセンツィア。嬉しかった。勉強してすぐそこにあったのも、シャトー・ディケムと一緒に飲めるだなんて、蒼君が準備してくれていなくちゃできないことだよ。すごく感謝している」
「いーの、いいのー!! 奥ちゃんのためになるなら、なんだっていいの! あー、よかった。やっぱりあのワインを選んでいて! いやあ、シャトー・ディケムだと当たり前のような気もして、それにちょっーーっと手がでなくて……。こんなワインもあるよと俺が教えたかったというか、あ、でも一年後じゃ、遅すぎたかもね……うん……。だから今だったんだよ!!」

 すごくこの場を盛り上げようと一生懸命。いつもなら、そんな元気な蒼くんを見て葉子は笑っているのだけれど……。今日はちょっと心苦しくて、葉子にはそんな彼が痛々しく見えてしまった。

 だから。いま立ち止まっているここだと思って、葉子は肩にかけていたトートバッグに入れていたあるものを取り出す。

「これね。私からのお礼」

 紺色の包み紙に白いリボン。その箱を葉子は月明かりの中、蒼に差し出していた。
 これを渡したくて、散歩を提案したのだ。だから蒼がものすごく目を丸くして固まっている。

「え、なにこれ。葉子ちゃん」
「決めていたの。トカイ・エッセンツィアのお礼」
「えぇぇええ!? ななな、なにやってんの。葉子ちゃんったら、いつの間に!!」
「函館にギターの弦を買いに行くと言って、デパートに行っていたの」
「ああっ。俺が車で連れて行ってやるというのに、めっちゃ拒否されたあの日?」
「甲斐チーフのお世話でお買い物付き合ってあげてと送り出して、一人で出かけたときにね」
「うわー、うわーーー。うっそだーーー。葉子ちゃん? あなた、こんなこと、こんなこと、する人じゃないでしょっ」
「ひどいな。ちゃんとプレゼントぐらい思いつくよ。いらないならいいや、オホーツクにいる昴にあげちゃおう」

 葉子のほうが真顔でふざけてトートバッグにしまおうとすると、蒼が『まて、待って。待って~!!』と、その箱を手に取ってくれた。

「わー、わー。なんだろっ。え~、もうこの時点で、めっちゃうれしい。嬉しいよぅ~泣いちゃう~」

 また『ぶぇえ』と涙ぐんでいるので、相変わらずの賑やかさだなあと、葉子はもう笑っていた。

「開けてみて」
「うん。開けちゃう!! もうすぐに開けちゃう!! 待てないもんっ」

 リボンも包みも解いて、そこから白い箱が出てくる。

「おお、なんだろう~」

 水辺の柔らかいせせらぎの中、蒼がわくわくした顔で箱の蓋を開けた。
 そこから出てきたものを知って、もっとダラシーノ音響で騒いでくれると思ったのに……。真顔になっているのを葉子は知る。

「これ、葉子が選んでくれたの?」
「あ、えっと。既に素敵なものを持っているってわかっていたんだけど……」

 箱の中にあるのは『腕時計』。蒼がいつも腕に巻いているのは銀の金属バンドだから、今回は黒のレザーバンドを選んでみた。

「確かに持っているよ。もう五年ぐらい使っている。これも頑張って働いてやっと手に入れたヤツね」
「でしょ。あちこち買う人じゃないのもわかってる。これと決めたものをきちんと買って大事にしている。だから、すでにお気に入りだってわかっていたの。蒼君、物にはこだわりがあるってわかっていたから、その、物を知らない私が選んでも意味がない気がしていたんだけど……でも、渡したかったの」

 やっと蒼が優しく微笑んでくれる。

「こだわりはあるけど、そんなことより、葉子が選んでくれたというのが、いちばん嬉しいよ」
「ほんと?」
「だって、記念日とか、プレゼントを贈り合うとか、そんなイベントなんて気にしないたちだろ」
「そうかもしれないけれど。今回は、お礼をしたかったの」

 さらに葉子は慌てて、自分のポケットから、もうひとつそれを出した。

「実は、お揃いです……」
「えぇえぇえ!? ちょっと待って! これ、見たところ片方だけでもン万円とみたんだけど!!」
「実家にいたから、それなりに持っていたの」
「そ、そうだね!? あんま使う子じゃないもんね、葉子ちゃんってばっ」
「ここが使いどころだと思いました」
「思いましたって……!」
「トカイ・エッセンツィアだってそれぐらいしたでしょ」
「片方だけね! ペアだったらシャトー・ディケム買えるじゃないですかっ」
「これから、一緒に時を刻みましょうという意味、なんですけど……」

 そこに絶句している彼がいる。いつももっとわーわー騒いでくれているのに、どうしちゃったのかなと、葉子はじっと蒼の目を見つめてばかりいた。

「だ、っだから。そういう目! やめて! 我慢できなくなっちゃう!!」
「もう我慢しなくてもいいと思うんですけど」
「オジサンをからかわないのっ」
「オジサンでも夫だもん」
「あー、もう、くそっ」

 最後に『くそっ』なんて言われるとは思わなくて、葉子もちょっとムッとし始めたその時。遠くフクロウの声が聞こえる中、葉子はもう蒼の腕の中にいた。
 葉子の頭をきつく胸元に押しつけて、彼がもう葉子の耳元へとかがんで、そこに小さくキスをしてくれた。

「ありがとう、葉子。嬉しいよ。大事にする」
「気に入ってくれた?」
「もちろんだよ。なんだよ……。こんなことしないと思っていたから……」

 あ、泣いている。
 そう思ったけれど。蒼はなにも言わなくなって、ずっとそのまま抱きしめて黒髪を撫でてくれるだけだから、葉子も黙ってじっとしていた。

 お揃いの時計で一緒に時を刻もうね。
 それが葉子が妻になって初めての贈り物。
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