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本編
第十七話 飛んで火に入る三月の虫
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お前はベッドルームから出てくるなって言われてその事に対して異議を唱えたのは、信吾さんがルームサービスの電話を切った直後。今回は私が応対した方が良いんじゃないかなって提案したら、物凄くしぶい顔されちゃった。
「でも信吾さんが応対しに出たら松橋先輩、一目散で逃げ出しちゃうんじゃないかな。最初は私が出た方が良くない?」
「相手は刃物を持っている可能性もあるんだぞ?」
「それはそうだけど、そこは信吾さんが守ってくるんでしょ?」
黙ってこちらを見下ろしている信吾さんの頭の中が忙しく動いているのが見えるようだ。きっと自分が考えていた段取りを組み直しているんだと思う。
「……だったらせめて着替えろ。そんな恰好を他の男に見せるなんてとんでもない」
溜め息をつきながらの言葉に、やった♪と言いながら着替えを取りに走った。
「まったく……遊びじゃないんだぞ、奈緒」
「分かってるよ? でも少しでも信吾さんの役に立ちたいんだもん」
「本当に分かってるのか?」
「分かってるよー」
ここで取り押さえるつもりでいることはさっき聞いた。だけど信吾さんがドアで出迎えた時にもしかしたら逃げちゃうかもって思ったのは、最初に会った時にその目つきだけで松橋先輩が怯んだのを見たから。それだったら私が先輩に気付かないふりをして出て、中に誘いこんでから取り押さえた方が良いんじゃないかなって考えたんだけど、ダメなのかな。
「それに相手が武器を持っていたら、危ないのは信吾さんだって同じだよね?」
「俺は訓練をつんでいる」
着替えながら自分の考えを伝えると、信吾さんはしぶい顔のまま唸るように答えた。そして不機嫌な顔をしたまま部屋をウロウロしている。
「少し落ち着いたら、信吾さん?」
まるで狭い檻の中でウロウロしている虎か熊みたいな様子にそう言ったらますますしぶい顔になった。
「いったい誰のせいだと思ってる?」
「えっと……私のせい?」
「もしかしなくても奈緒のせいだ」
「普段の訓練でもそんなに苛々することあるの?」
「ハッキリ言うと無い」
だから奈緒のせいだと言っているだろう?とぼやいている。私ってそんなに無茶なこと言ってるのかな? だって刑事ドラマとかでもあるじゃない?犯人を取り押さえる為に被害者の女性が協力するパターンって。あれと同じことだと思うんだけどなあ……。そんなことを呟いたらドラマと現実を一緒にするなって怒られちゃった。
でも、やっぱりダメだって言わないところをみるとちゃんと考えてくれているんだよね? まさかドアチャイムが鳴った途端に私をグルグル巻きにしてベッドルームに閉じ込めるなんてしないよね?
「そうか……その手があったんだな」
「え、そんなの酷いよっ」
しまった、ヤブヘビだった!! 信吾さんが不穏な顔つきになってこちらに近付いてきたのと同時にドアチャイムが鳴った。途端に信吾さんが忌々し気な様子でチッと舌打ちをした。だからチッて舌打ちしないで~!
「奈緒、俺がバスルームでシャワーのお湯を出してからドアを開けろ。“シャワーを浴びている俺”に一声かけてから中に奴を入れるんだ。万が一の時は叫べ」
「分かった」
信吾さんがバスルームへと行き、お湯の流れる音が聞こえてきたのを確かめてからドアを開けた。
「……お待たせしました」
「あ、ありがとうございますー」
メガネをかけて髪の毛が黒くなっているけど松橋先輩に間違いないと思う。顔を隠す為か俯き加減でワゴンを押しているのでハッキリとは見えなかったんだけど。
「信吾さーん、ご飯きたよー。リビングのテーブルにお願いできますか」
「かしこまりました」
お湯を出してシャワーを浴びているふりをし恐らくドアの近くで待機している信吾さんに声をかけると、松橋先輩に背中を向けてリビングへと向かう。
背中を向けるのはちょっと勇気がいったけど、私と先輩の間にはワゴンもあったし、直ぐそばで信吾さんが様子を伺っているから大丈夫かなって考えてのことだったんだ。だけどこのことでは後で信吾さんに滅茶苦茶怒られることになるんだよね、敵に背中を見せるバカが何処にいる?!って。
背中を向けていても空気が動いたのは分かった。だけど振り返って確かめる間もなくワゴンが引っ繰り返る音がして、体を後ろに向き直した時にはすでに松橋先輩は私の目の前の床に引き倒されてた。手元には注射器が転がっている。また私を犬や猫と同じ注射器で刺そうとしたのかと思ったら無性に腹が立ってしまった。私にも一発殴らせてほしいよ。
先輩は胸元を信吾さんの膝頭で押さえつけられていて息が出来ないのか赤黒い顔をしている。これって大丈夫かな。先輩が心配なんじゃなくて、信吾さんが過剰防衛になっちゃったりしないかっていう点でね。
「信吾さん、そんなに強く押さえたら呼吸できなくなるよ」
「奈緒、クローゼットから俺のネクタイをあるだけ持ってこい」
「分かった」
足早にエントランス近くにあるクローゼットを開けて、信吾さんが昨晩来ていた服の横にかけてあった制服のネクタイやら何やらを手にすると急いで戻った。
「制服のも持って来ちゃったけどよかった?」
「ああ、かまわない。それからフロントに電話をかけて警察を呼ぶように伝えろ」
「はい」
信吾さんが椅子に座らせた先輩の両手両足を縛っているのを横目にフロントに電話をかける。最初に出てくれたお姉さんは事情を聞かされていたのか、こちらが名乗ると直ぐに支配人に変わってくれた。
「直ぐに警察、来てくれるって」
「奈緒、警察が到着するまでお前はベッドルームに行ってろ」
「え、どうして?」
「いいから」
「……何もしないよね?」
なんだか殺気立っている信吾さんの様子に、私が見ていないところで先輩に何かするんじゃないかって心配になってきた。
「なんだ、この馬鹿が心配か?」
「そうじゃなくて、信吾さんが困ったことにならないか心配なの。先輩のことはどうでもいい」
「心配するな、何もしやしない。ただお前をこいつの目から隠したいだけだ。お前を見たからって潰すわけにはいかないだろ、こいつの両目を」
ヒッと息を呑む先輩。冗談に聞こえないよ信吾さん……。
「分かった」
寝室に引っ込んだ私の耳に何やらボソボソ話す声が聞こえてきたけど敢えて聞き耳は立てないようにした。知らない方が幸せなことってあるものね。ここは信吾さんの良識に任せることにする。……大丈夫かな。
警察が来たのはそれからきっかり三十分後。ドアチャイムの音に出ようとベッドルームから顔を覗かせた私は信吾さんに部屋に入ってろとばかりに手でシッシッてされちゃった。失礼な、私はワンコじゃないぞっ!
ドアを開けに行った信吾さんに背中を見送りながら部屋に引っ込んでドアを閉めるようとした寸前、先輩と目が合ってしまった。なんだかその目が異様な光り方をしていてゾッとする。急に怖くなって慌ててドアを閉めた。先輩ってあんな顔してたっけ?
それから現場検証みたいなのと簡単な事情聴取が行われた。先輩は私に対する暴行未遂で現行犯逮捕。さすがに信吾さんに対する傷害罪は無理っぽい。反撃する隙も与えずに制圧しちゃったんだから当然と言えば当然なんだけど。余罪に関しても既に警察は把握済みのようで、その点もちゃんと追及するそうだ。私が最初に薬を打たれた件も改めて事情を聞かせて欲しいとのことだったので、担当の刑事さんと私達で電話番号の交換をした。
「なんだかあっさりと逮捕されて行っちゃったね」
ホテルの人が引っ繰り返ったワゴンと汚れた床を綺麗に掃除してくれて、新たにお料理をテーブルに並べてくれた後、ほっと一息ついた私は何となくそう呟いた。
「奈緒」
「なあに?」
「何故あの時、松橋に背中を向けた?」
「へ?」
最初は何のことを言っているのか分からなくて目をパチクリしてしまった。
「あいつが来てリビングに通す時だ。どうして背中を向けた?」
「だって……」
「殺しにかかってくるかもしれない相手に背中を見せるなんて愚の骨頂だぞ? 敵に背中を見せるバカが何処にいる?」
お、怒ってる……信吾さん、めっちゃ怒ってるよ……。
「だって後ろ向きに歩くわけにもいかないし、擦れ違いざまに、その、先輩に近付き過ぎてもイヤかなって……」
「俺がバスルームから出た時、あいつは注射器をお前に刺そうとしているところだったんだぞ」
「でも……」
「でもじゃない。……まあ奈緒に応対させるのを認めたのは俺なわけだから責任は俺にあるんだが」
信吾さんがあれには肝が冷えたぞと呟いた。
「……ごめんなさい、次から気をつけます……」
「次は絶対に無い」
キッパリハッキリ断言されてしまった。
「でも」
「でもじゃない、とにかくこんなことは二度とない。今度こんなことがあったら奈緒はスマキにして部屋に閉じ込めておく」
「えー……」
「えー、じゃない。とにかく飯だ。冷めないうちに食べるぞ」
「ぶぅー……」
ぶーぶーと不満を漏らす私のことなんてお構いなしにテーブルの椅子に私を無理やり座らせると信吾さんも席についた。そして問答無用で“食え”と態度で示してくる。私もお腹が空いていたし、食べないことには何も聞いてくれそうにないので仕方無くお箸を手にした。……美味しいじゃん、この八寸。
しばらく黙ったまま食事を続ける。気まずいよお……何か話題は無いかな……あ、あった。
「私、信吾さんみたいに相手を投げ飛ばす技、覚えたい」
私がそう言うと信吾さんは呆れたように溜め息をついた。
「まったく懲りないヤツだな、奈緒。俺の言うことをちゃんと聞いていたのか?」
「聞いてたよ。でも最近は物騒だからそういうの一つぐらい覚えておいても良いでしょ? 前に教えてくれるって言ったよね?」
「言いはしたが……」
「だったら教えてよ。今すぐじゃなくても良いし、また時間のある時にでも」
「分かった分かった。覚えるなら簡単なものからだぞ?」
「うん♪」
やれやれと首を振られてしまったけど気にしない。それと信吾さんももう怒ってないみたいだし。
「あ、そーだ。みゅうさんに知らせておかないと」
「知らせなくても既に耳に入っていそうだが」
「それでもちゃんとメールしてお礼は言っておかないとダメでしょ?」
ポケットに入れていた携帯を取り出した。
「だからって食べている最中にだな……」
「善は急げなの」
「ふぅ……今時の子というのは……」
ご飯時にお行儀悪いのは承知しているよ。だけど少しでも早く知らせたいんだもの。きっとみゅうさん、私からのメールを待っていてくれると思うし。
その日、自分では気付いていなかったんだけど松橋先輩のことは結構なストレスになっていたみたいで、シャワーを浴びている信吾さんが出てくるのを待っていられなくて、あっという間に眠ってしまった。夜中に一度目が覚めた時は温かい腕の中に抱きしめられていてそのまま安心して眠っちゃったし、久し振りに熟睡出来た感じだった。
そのかわり朝起きたらしっかりと愛されちゃったけどね。
+++++
次の日、信吾さんは早めに駐屯地に戻らなくてはならないということだったので、チェックアウトをしてから荷物をクロークで預かってもらって何処かでお昼ご飯を食べようって話になった。そんなわけで信吾さんは朝から制服をきちんと着ている。制服を着るとオフからオンに切り替わるのか、いつもとちょっと違う雰囲気。
「……? なんだ?」
私がチラチラと見ているのに気が付いたのか首を傾げてこちらを見下ろす。
「なんだか、いつもと感じが違うね」
「そうか?」
「うん。なんかね、ちゃんと自衛官さんしてるよ?」
「そりゃ俺は自衛官だから」
当然だろ?と笑う。その顔はいつもの信吾さんなんだけどな。
「オンとオフの違いみたいな感じでね、制服を着るといつもの信吾さんじゃないみたい」
「自分では意識してないんだけどな」
「そうなの? でもカッコいいよ? 他の女の人がウットリした顔で見てるし」
そうかなって顔をしてる。そしてニヤッと笑うと耳元に口を近付けてきた。
「そんなに気に入ったんだったら次は制服のままで抱いてさしあげましょうか? 奥様がお望みとあらば戦闘服もお持ちしますが?」
「……エッチなところは全然変わってない……」
「そりゃあ制服を着たからって中身が変わるなんてことはないんだから」
「制服の間はお行儀良くしてください。うちのお父さんみたいな人に何を言われるか分かんないから」
「何処で写真を撮られるか分からないっていうのは怖いな。でもそれは俺のせいじゃなくて多分、奈緒のせいだと思うぞ?」
「私?」
なんで? 私は制服着てないけど……。
「片倉の娘が自衛官と結婚するってんで絶対に記者がうろついているはずだ。まあここは大丈夫だとは思うが、外に出たら気をつけろよ? あいつらはこっちの迷惑なんて考えずに写真撮ったりしてくるからな」
「そんなに暇なの、雑誌記者って……」
一般人の結婚で騒ぐよりも、もっと取材しなきゃいけないことってあるんじゃないかなあ。
「ヤツを引き摺り落としたい人間も多いだろうし、そういう連中にとってはかっこうのネタになるんじゃないか? 今でも政治的な立場を切り替えるのかって突っ込まれているみたいだしな」
「ふーん……そんなことで足っ引っ張れるものなのかな、政治の世界のことは良く分かんないけど」
「らしい」
前みたいにいきなり記者が近付いて来たりするんだったら嫌だな。落ち着いて食事も出来ないじゃない? しかも信吾さん今は制服着ていてめっちゃ目立ってるし。
「……」
「なんだ?」
「信吾さん目立ってるから直ぐに分かっちゃうよ?」
「だろうな」
なんだか楽しそう。もしかして記者が来るのを待ち受けてる?
「なんだか楽しそうだね信吾さん」
「今まで散々言い込められてきたんだ。こんな時ぐらい右往左往する相手を高みの見物としゃれ込みたいもんだね」
「うわあ……もしかして積年の恨みってやつ?」
「そんなところだ」
一体どんなやり取りがされていたんだろうってちょっと興味はあるかな。ま、テレビで見る限りではお父さんの言い分が重箱の隅を突くと言うか揚げ足取りと言うか、あんなことずーっと言われていたんだったら温厚な人でも恨みが積もるかもしれない。だから高みの見物をしたいって言う信吾さんの言い分も分からないではない。だけど、それで私にまで余波が来るのは勘弁してほしいかも。
そんな時、携帯が鳴った。いつもりゲームのテーマ曲じゃないからみゅうさんじゃないや。表示を見ると沙織さん。
「信吾さん、沙織さんから電話……もしもし?」
『おはよう、奈緒ちゃん。今、何処にいるの?』
「いまホテルをチェックアウトしたところです。お昼を何処かで食べて、私は自宅に、信吾さんは職場に戻る予定なんですけど」
『ちょうど良かったわ。皆で一緒にご飯食べない? 今日は幸太郎さんもいるし色々と話したがっているみたいなのよね、あの人』
何やら後ろで先生が文句を言っている声がする。仲良しだよね、重光先生と沙織さんって。私が覚えている片倉の家とは大違いだよ。
「ちょっと待って下さいね。……信吾さん、沙織さんが一緒にお昼どうですかって。重光先生も一緒みたい。何か話があるみたいだよ」
「分かった。ご一緒すると伝えてくれ」
頷くと電話に耳を当てる。
「是非ご一緒させて下さい」
『よかった。じゃあ、荷物は持ったままで良いから、そこの地下駐車場のエレベーター前で待っててくれる? そうね、あと二十分ぐらいで杉下が到着すると思うから』
「はい……あと二十分ぐらいで着くから地下駐車場で待っててくれって」
先生が話したいことって何かな。もしかしてお父さんのこと? 沙織さんの口調からするとそんな深刻なことではなさそうだけど。
「でも信吾さんが応対しに出たら松橋先輩、一目散で逃げ出しちゃうんじゃないかな。最初は私が出た方が良くない?」
「相手は刃物を持っている可能性もあるんだぞ?」
「それはそうだけど、そこは信吾さんが守ってくるんでしょ?」
黙ってこちらを見下ろしている信吾さんの頭の中が忙しく動いているのが見えるようだ。きっと自分が考えていた段取りを組み直しているんだと思う。
「……だったらせめて着替えろ。そんな恰好を他の男に見せるなんてとんでもない」
溜め息をつきながらの言葉に、やった♪と言いながら着替えを取りに走った。
「まったく……遊びじゃないんだぞ、奈緒」
「分かってるよ? でも少しでも信吾さんの役に立ちたいんだもん」
「本当に分かってるのか?」
「分かってるよー」
ここで取り押さえるつもりでいることはさっき聞いた。だけど信吾さんがドアで出迎えた時にもしかしたら逃げちゃうかもって思ったのは、最初に会った時にその目つきだけで松橋先輩が怯んだのを見たから。それだったら私が先輩に気付かないふりをして出て、中に誘いこんでから取り押さえた方が良いんじゃないかなって考えたんだけど、ダメなのかな。
「それに相手が武器を持っていたら、危ないのは信吾さんだって同じだよね?」
「俺は訓練をつんでいる」
着替えながら自分の考えを伝えると、信吾さんはしぶい顔のまま唸るように答えた。そして不機嫌な顔をしたまま部屋をウロウロしている。
「少し落ち着いたら、信吾さん?」
まるで狭い檻の中でウロウロしている虎か熊みたいな様子にそう言ったらますますしぶい顔になった。
「いったい誰のせいだと思ってる?」
「えっと……私のせい?」
「もしかしなくても奈緒のせいだ」
「普段の訓練でもそんなに苛々することあるの?」
「ハッキリ言うと無い」
だから奈緒のせいだと言っているだろう?とぼやいている。私ってそんなに無茶なこと言ってるのかな? だって刑事ドラマとかでもあるじゃない?犯人を取り押さえる為に被害者の女性が協力するパターンって。あれと同じことだと思うんだけどなあ……。そんなことを呟いたらドラマと現実を一緒にするなって怒られちゃった。
でも、やっぱりダメだって言わないところをみるとちゃんと考えてくれているんだよね? まさかドアチャイムが鳴った途端に私をグルグル巻きにしてベッドルームに閉じ込めるなんてしないよね?
「そうか……その手があったんだな」
「え、そんなの酷いよっ」
しまった、ヤブヘビだった!! 信吾さんが不穏な顔つきになってこちらに近付いてきたのと同時にドアチャイムが鳴った。途端に信吾さんが忌々し気な様子でチッと舌打ちをした。だからチッて舌打ちしないで~!
「奈緒、俺がバスルームでシャワーのお湯を出してからドアを開けろ。“シャワーを浴びている俺”に一声かけてから中に奴を入れるんだ。万が一の時は叫べ」
「分かった」
信吾さんがバスルームへと行き、お湯の流れる音が聞こえてきたのを確かめてからドアを開けた。
「……お待たせしました」
「あ、ありがとうございますー」
メガネをかけて髪の毛が黒くなっているけど松橋先輩に間違いないと思う。顔を隠す為か俯き加減でワゴンを押しているのでハッキリとは見えなかったんだけど。
「信吾さーん、ご飯きたよー。リビングのテーブルにお願いできますか」
「かしこまりました」
お湯を出してシャワーを浴びているふりをし恐らくドアの近くで待機している信吾さんに声をかけると、松橋先輩に背中を向けてリビングへと向かう。
背中を向けるのはちょっと勇気がいったけど、私と先輩の間にはワゴンもあったし、直ぐそばで信吾さんが様子を伺っているから大丈夫かなって考えてのことだったんだ。だけどこのことでは後で信吾さんに滅茶苦茶怒られることになるんだよね、敵に背中を見せるバカが何処にいる?!って。
背中を向けていても空気が動いたのは分かった。だけど振り返って確かめる間もなくワゴンが引っ繰り返る音がして、体を後ろに向き直した時にはすでに松橋先輩は私の目の前の床に引き倒されてた。手元には注射器が転がっている。また私を犬や猫と同じ注射器で刺そうとしたのかと思ったら無性に腹が立ってしまった。私にも一発殴らせてほしいよ。
先輩は胸元を信吾さんの膝頭で押さえつけられていて息が出来ないのか赤黒い顔をしている。これって大丈夫かな。先輩が心配なんじゃなくて、信吾さんが過剰防衛になっちゃったりしないかっていう点でね。
「信吾さん、そんなに強く押さえたら呼吸できなくなるよ」
「奈緒、クローゼットから俺のネクタイをあるだけ持ってこい」
「分かった」
足早にエントランス近くにあるクローゼットを開けて、信吾さんが昨晩来ていた服の横にかけてあった制服のネクタイやら何やらを手にすると急いで戻った。
「制服のも持って来ちゃったけどよかった?」
「ああ、かまわない。それからフロントに電話をかけて警察を呼ぶように伝えろ」
「はい」
信吾さんが椅子に座らせた先輩の両手両足を縛っているのを横目にフロントに電話をかける。最初に出てくれたお姉さんは事情を聞かされていたのか、こちらが名乗ると直ぐに支配人に変わってくれた。
「直ぐに警察、来てくれるって」
「奈緒、警察が到着するまでお前はベッドルームに行ってろ」
「え、どうして?」
「いいから」
「……何もしないよね?」
なんだか殺気立っている信吾さんの様子に、私が見ていないところで先輩に何かするんじゃないかって心配になってきた。
「なんだ、この馬鹿が心配か?」
「そうじゃなくて、信吾さんが困ったことにならないか心配なの。先輩のことはどうでもいい」
「心配するな、何もしやしない。ただお前をこいつの目から隠したいだけだ。お前を見たからって潰すわけにはいかないだろ、こいつの両目を」
ヒッと息を呑む先輩。冗談に聞こえないよ信吾さん……。
「分かった」
寝室に引っ込んだ私の耳に何やらボソボソ話す声が聞こえてきたけど敢えて聞き耳は立てないようにした。知らない方が幸せなことってあるものね。ここは信吾さんの良識に任せることにする。……大丈夫かな。
警察が来たのはそれからきっかり三十分後。ドアチャイムの音に出ようとベッドルームから顔を覗かせた私は信吾さんに部屋に入ってろとばかりに手でシッシッてされちゃった。失礼な、私はワンコじゃないぞっ!
ドアを開けに行った信吾さんに背中を見送りながら部屋に引っ込んでドアを閉めるようとした寸前、先輩と目が合ってしまった。なんだかその目が異様な光り方をしていてゾッとする。急に怖くなって慌ててドアを閉めた。先輩ってあんな顔してたっけ?
それから現場検証みたいなのと簡単な事情聴取が行われた。先輩は私に対する暴行未遂で現行犯逮捕。さすがに信吾さんに対する傷害罪は無理っぽい。反撃する隙も与えずに制圧しちゃったんだから当然と言えば当然なんだけど。余罪に関しても既に警察は把握済みのようで、その点もちゃんと追及するそうだ。私が最初に薬を打たれた件も改めて事情を聞かせて欲しいとのことだったので、担当の刑事さんと私達で電話番号の交換をした。
「なんだかあっさりと逮捕されて行っちゃったね」
ホテルの人が引っ繰り返ったワゴンと汚れた床を綺麗に掃除してくれて、新たにお料理をテーブルに並べてくれた後、ほっと一息ついた私は何となくそう呟いた。
「奈緒」
「なあに?」
「何故あの時、松橋に背中を向けた?」
「へ?」
最初は何のことを言っているのか分からなくて目をパチクリしてしまった。
「あいつが来てリビングに通す時だ。どうして背中を向けた?」
「だって……」
「殺しにかかってくるかもしれない相手に背中を見せるなんて愚の骨頂だぞ? 敵に背中を見せるバカが何処にいる?」
お、怒ってる……信吾さん、めっちゃ怒ってるよ……。
「だって後ろ向きに歩くわけにもいかないし、擦れ違いざまに、その、先輩に近付き過ぎてもイヤかなって……」
「俺がバスルームから出た時、あいつは注射器をお前に刺そうとしているところだったんだぞ」
「でも……」
「でもじゃない。……まあ奈緒に応対させるのを認めたのは俺なわけだから責任は俺にあるんだが」
信吾さんがあれには肝が冷えたぞと呟いた。
「……ごめんなさい、次から気をつけます……」
「次は絶対に無い」
キッパリハッキリ断言されてしまった。
「でも」
「でもじゃない、とにかくこんなことは二度とない。今度こんなことがあったら奈緒はスマキにして部屋に閉じ込めておく」
「えー……」
「えー、じゃない。とにかく飯だ。冷めないうちに食べるぞ」
「ぶぅー……」
ぶーぶーと不満を漏らす私のことなんてお構いなしにテーブルの椅子に私を無理やり座らせると信吾さんも席についた。そして問答無用で“食え”と態度で示してくる。私もお腹が空いていたし、食べないことには何も聞いてくれそうにないので仕方無くお箸を手にした。……美味しいじゃん、この八寸。
しばらく黙ったまま食事を続ける。気まずいよお……何か話題は無いかな……あ、あった。
「私、信吾さんみたいに相手を投げ飛ばす技、覚えたい」
私がそう言うと信吾さんは呆れたように溜め息をついた。
「まったく懲りないヤツだな、奈緒。俺の言うことをちゃんと聞いていたのか?」
「聞いてたよ。でも最近は物騒だからそういうの一つぐらい覚えておいても良いでしょ? 前に教えてくれるって言ったよね?」
「言いはしたが……」
「だったら教えてよ。今すぐじゃなくても良いし、また時間のある時にでも」
「分かった分かった。覚えるなら簡単なものからだぞ?」
「うん♪」
やれやれと首を振られてしまったけど気にしない。それと信吾さんももう怒ってないみたいだし。
「あ、そーだ。みゅうさんに知らせておかないと」
「知らせなくても既に耳に入っていそうだが」
「それでもちゃんとメールしてお礼は言っておかないとダメでしょ?」
ポケットに入れていた携帯を取り出した。
「だからって食べている最中にだな……」
「善は急げなの」
「ふぅ……今時の子というのは……」
ご飯時にお行儀悪いのは承知しているよ。だけど少しでも早く知らせたいんだもの。きっとみゅうさん、私からのメールを待っていてくれると思うし。
その日、自分では気付いていなかったんだけど松橋先輩のことは結構なストレスになっていたみたいで、シャワーを浴びている信吾さんが出てくるのを待っていられなくて、あっという間に眠ってしまった。夜中に一度目が覚めた時は温かい腕の中に抱きしめられていてそのまま安心して眠っちゃったし、久し振りに熟睡出来た感じだった。
そのかわり朝起きたらしっかりと愛されちゃったけどね。
+++++
次の日、信吾さんは早めに駐屯地に戻らなくてはならないということだったので、チェックアウトをしてから荷物をクロークで預かってもらって何処かでお昼ご飯を食べようって話になった。そんなわけで信吾さんは朝から制服をきちんと着ている。制服を着るとオフからオンに切り替わるのか、いつもとちょっと違う雰囲気。
「……? なんだ?」
私がチラチラと見ているのに気が付いたのか首を傾げてこちらを見下ろす。
「なんだか、いつもと感じが違うね」
「そうか?」
「うん。なんかね、ちゃんと自衛官さんしてるよ?」
「そりゃ俺は自衛官だから」
当然だろ?と笑う。その顔はいつもの信吾さんなんだけどな。
「オンとオフの違いみたいな感じでね、制服を着るといつもの信吾さんじゃないみたい」
「自分では意識してないんだけどな」
「そうなの? でもカッコいいよ? 他の女の人がウットリした顔で見てるし」
そうかなって顔をしてる。そしてニヤッと笑うと耳元に口を近付けてきた。
「そんなに気に入ったんだったら次は制服のままで抱いてさしあげましょうか? 奥様がお望みとあらば戦闘服もお持ちしますが?」
「……エッチなところは全然変わってない……」
「そりゃあ制服を着たからって中身が変わるなんてことはないんだから」
「制服の間はお行儀良くしてください。うちのお父さんみたいな人に何を言われるか分かんないから」
「何処で写真を撮られるか分からないっていうのは怖いな。でもそれは俺のせいじゃなくて多分、奈緒のせいだと思うぞ?」
「私?」
なんで? 私は制服着てないけど……。
「片倉の娘が自衛官と結婚するってんで絶対に記者がうろついているはずだ。まあここは大丈夫だとは思うが、外に出たら気をつけろよ? あいつらはこっちの迷惑なんて考えずに写真撮ったりしてくるからな」
「そんなに暇なの、雑誌記者って……」
一般人の結婚で騒ぐよりも、もっと取材しなきゃいけないことってあるんじゃないかなあ。
「ヤツを引き摺り落としたい人間も多いだろうし、そういう連中にとってはかっこうのネタになるんじゃないか? 今でも政治的な立場を切り替えるのかって突っ込まれているみたいだしな」
「ふーん……そんなことで足っ引っ張れるものなのかな、政治の世界のことは良く分かんないけど」
「らしい」
前みたいにいきなり記者が近付いて来たりするんだったら嫌だな。落ち着いて食事も出来ないじゃない? しかも信吾さん今は制服着ていてめっちゃ目立ってるし。
「……」
「なんだ?」
「信吾さん目立ってるから直ぐに分かっちゃうよ?」
「だろうな」
なんだか楽しそう。もしかして記者が来るのを待ち受けてる?
「なんだか楽しそうだね信吾さん」
「今まで散々言い込められてきたんだ。こんな時ぐらい右往左往する相手を高みの見物としゃれ込みたいもんだね」
「うわあ……もしかして積年の恨みってやつ?」
「そんなところだ」
一体どんなやり取りがされていたんだろうってちょっと興味はあるかな。ま、テレビで見る限りではお父さんの言い分が重箱の隅を突くと言うか揚げ足取りと言うか、あんなことずーっと言われていたんだったら温厚な人でも恨みが積もるかもしれない。だから高みの見物をしたいって言う信吾さんの言い分も分からないではない。だけど、それで私にまで余波が来るのは勘弁してほしいかも。
そんな時、携帯が鳴った。いつもりゲームのテーマ曲じゃないからみゅうさんじゃないや。表示を見ると沙織さん。
「信吾さん、沙織さんから電話……もしもし?」
『おはよう、奈緒ちゃん。今、何処にいるの?』
「いまホテルをチェックアウトしたところです。お昼を何処かで食べて、私は自宅に、信吾さんは職場に戻る予定なんですけど」
『ちょうど良かったわ。皆で一緒にご飯食べない? 今日は幸太郎さんもいるし色々と話したがっているみたいなのよね、あの人』
何やら後ろで先生が文句を言っている声がする。仲良しだよね、重光先生と沙織さんって。私が覚えている片倉の家とは大違いだよ。
「ちょっと待って下さいね。……信吾さん、沙織さんが一緒にお昼どうですかって。重光先生も一緒みたい。何か話があるみたいだよ」
「分かった。ご一緒すると伝えてくれ」
頷くと電話に耳を当てる。
「是非ご一緒させて下さい」
『よかった。じゃあ、荷物は持ったままで良いから、そこの地下駐車場のエレベーター前で待っててくれる? そうね、あと二十分ぐらいで杉下が到着すると思うから』
「はい……あと二十分ぐらいで着くから地下駐車場で待っててくれって」
先生が話したいことって何かな。もしかしてお父さんのこと? 沙織さんの口調からするとそんな深刻なことではなさそうだけど。
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