俺の彼女は中の人

鏡野ゆう

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本編

第十一話 佐伯さんの始めの一歩?

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 あのね医院さんの建物の裏手に回ると、東雲しののめさんと台車を押してきたらしい、商店街の自治会の人が待っていた。東雲さんは、マツラー君と並んでさも当然のように佐伯さえきさんが歩いてきたものだから、ちょっと驚いた顔をしている。って言うか最初は誰だか分からなくて、途中で誰なのか気がついて驚いた顔をしたっぽい。

「お疲れ様でした~。武藤むとうさんが、ここでマツラー君を引き渡したら、私は終業だって言ってましたけど」
「ああ。ここしばらく休み返上だろ? だからね。立原たちはらさんの荷物、持ってきといたよ」

 台車の上には小道具を入れて運んでいるコンテナが置かれていて、その中に私のバッグとコートが入っていた。周囲に誰もいないことを確かめてから、後ろのファスナーを下げてもらって外に出る。中の人が出たり入ったりするのを見せるのは夢を壊しちゃうから、こういうシーンはできるだけ人目につかない方が良いのだ。

「さむっ」

 防寒仕様になっていないマツラー君でも、入っているとそれなりに暖かい。外に出ると空気の冷たさに思わずブルッと体が震えてしまった。“風邪ひくぞ”って言いながら、佐伯さんが肩にコートをかけてくれた。風邪ひき防止のキャンペーンをしに来たのに、風邪をひいたらシャレにならないよね。

「すみません」
「これで今日の仕事はおわり?」
「みたいです。本当に良いんですかね?」

 もう一度確認すると、東雲さんは、何故かちょっと気まずそうな顔をしながらうなづいた。

「うん。武藤さんからもそう聞いているから、終業してくれて良いよ。お疲れ様」
「はい。じゃあお先に失礼します」

 コートのボタンをとめるとバッグを持って、東雲さんと商店街の自治会の人にあいさつをして歩き始める。佐伯さんはしばらく黙ったまま私の横を歩いていたんだけど、建物を回りこんで商店街の中に入ったと同時に、プッと噴き出した。え? 何でそこで噴き出して笑うんですか?

「なに笑ってるんですか」
「いや、あの丸っこいのが引っくり返るところって、なかなか愉快だなあって」

 どうやら笑いたかったのをずっと我慢していたらしいくて、今は横で体を震わせて笑っている。そんなにマツラー君が転ぶところがおかしかった? 中の人としては、それなりに緊急事態なんだけどな、あれ。

「私、足腰をきたえないとダメでしょうかね、ドアにぶつかったぐらいで引っくり返っちゃうなんて」
「いやいや。可愛いから、たまにああやって転がるのも良いかもしれないよ」
「汚れちゃうからイヤです」

 今日みたいに室内で転がるならともかく、マツラー君の活動場所は圧倒的に屋外が多いんだもの。転がるたびに汚れちゃって、それこそクリーニング代が大変なことになってしまう。

「そうなのか、残念だな……プッ」

 まだ笑ってるし。

「もう、いい加減に笑うのやめてくださいよ。引っくり返っちゃうと自力では起き上がれないから、私にとってはけっこう深刻な緊急事態なんですから」

 そう言えば、初めて佐伯さんとあった時も、引っくり返っちゃったんだっけ。マツラー君の時に佐伯さんと顔を合わすのは、気をつけた方が良いかもしれない。だって二度あることは三度あるって言うし? 三度目の正直とかいうことわざもあることだし、それこそ大惨事になったら困るものね。それを佐伯さんに言うと、「なるほど」とうなづいている。そこで納得されると困っちゃうな。できることならそこで、そんなことないよって言って欲しかったかも。何となく三度目が近いうちに起きるような気がしてきた……。

「俺が来るたびに転がるのがクセにならなければ良いけどな。抱き起こすのが挨拶代わりなんて困るだろ? どうせ挨拶をするなら、あんなキスとかこんなキスとかそんなキスが良いもんな」
「キスしかないじゃないですか。しかもあんなとかこんなとかそんなって、何でそんなにあるんですか」
「うーん、他のことは公共の場で口にするのは、はばかられるから?」
「何でそこに、普通に挨拶するってのが含まれてないんです?」
「熱烈なハグでも良いけど?」

 だから普通の御挨拶の選択肢はないのですかー?

「遠慮します」
「そりゃ残念」

 笑っている佐伯さんの顔を見上げながら、そう言えば、と質問をする。

「ところで佐伯さん、お仕事は? っていうか、いつこっちに?」

 たしか最新のメールに添付されていたのは、かつおを口にくわえた招き猫だった。

「帰港したのは一昨日おとといなんだ。それで今日は当直あけで午後から休みだったから、マツラー君がここで仕事だって聞いていたから、ちょっとのぞきに来たってわけ」
「え? だったら早く帰って寝なくちゃ。寝てないんでしょ?」

 もしかしてこんな場所でキスキス言うのは、寝不足でハイテンションになっているからかもしれない。だったらこれ以上変なことを言い出さないうちに、早く寝なきゃ。

「大丈夫だよ、慣れてるし。それに明日は丸一日休みだから」
「ここまでは車?」
「まあね」
「だったらますます早く帰って寝なきゃ。車でここからお家まで、どのぐらいかかるのか知りませんけど、途中で眠くなっちゃったら、どうするんですか?」

 私の質問に、ちょっと考えている様子。

「一時間ちょっとだから平気だよ。杏奈あんなさんが助手席に座って、俺が眠くならないようにひたすら話しかけてくれると、さらに安心ではあるけど?」
「一緒に車に?」
「明日は休みなんだろ? 大丈夫、明日の夕方までには、こっちに送ってあげるから」
「それって、佐伯さんちに御招待されてるんですか、私」
「官舎だから、招待するほどおしゃれな住まいではないけどね。そりゃ、杏奈さんが自宅に招待してくれたら嬉しいけど、それだとほら、ご近所の目もあるだろ?」

 まあお堅い公務員ですから?御近所の目は、気にした方が良いかもしれない。お互い独身なんだし、今時そんなの気にしないって人も少なくはないけど、どこで誰が見ているか分からない。そういうことにうるさい誰かが、職場に電話をかけて大袈裟に抗議しないとも限らない。たまに、何でそんなことで苦情を市役所に?みたいな人もいるからね。

「佐伯さんちに遊びに行っても良いんですか? えーと、ほら……民間人は勝手に入ったらダメとかそんなのは?」
「そんなこと言ってたら、子供がいるところなんて友達を誰も呼べないだろ? 住んでいる俺が招待しているんだから問題ないよ。杏奈さんがうちに来て、変なビラを配ったり勧誘したりしない限りはね」

 なるほど。もっと堅苦しい場所なんだと思っていたけど、住む場所に関しては普通の社宅と変わらないみたいで安心した。

「で?」
「佐伯さんの家がどんな感じか興味はあるかな」
「だったら来る?」
「行きたいです。でもその前に、お昼ご飯を食べさせてください。もう空腹で倒れそう」

 お腹がさっきからグーグーいってて、そのうち佐伯さんに聞えちゃうんじゃないかって心配になるぐらい、お腹の虫が騒いでる。当直あけにも関わらず、せっかく会いに来てくれたって言うのに、私の頭の中の半分ぐらいは、食べ物のことで占められている。……なんて言ったらガッカリするかな。だけど佐伯さんはニッコリとしただけだった。

「ああ、食べないと元気が出ないんだったね。実のところ俺も昼飯はまだなんだ。けど俺、この辺のことあまり詳しくないんだけどな。杏奈さんの方が詳しいんじゃ?」
「佐伯さんは何が食べたいです?」
「俺? カレー以外なら何でも良いよ」
「カレー以外?」
「毎週金曜日が強制的にカレーだから」
「ああ、金曜日はカレーの日ってやつですね。ってことは昨日に食べたばかり?」
「そういうこと」

 話には聞いたことがある。長い航海をしていると曜日感覚が狂ってくるので、毎週金曜日をカレーの日にして、曜日感覚が狂わないようにしているらしいって。でも何で金曜日なの?って話よね。だって自衛隊の人って、銀行や官公庁と違って土日休みじゃないんだし、私てきにはカレーの日が水曜日でも日曜日でも、べつに良いんじゃないの?なんて思うわけ。密かにどうして金曜日になったか調べてみようと、頭の中のメモ用紙に書き込んだ。

「じゃあカレーはパスですね。んー……だったら海鮮丼のおいしいお店、知ってますよ? 仕事で海に出ていることが多くても、お魚が食べたくないってことはないでしょ? 甲板で魚釣りして食材確保しているわけじゃなさそうだし」
「おもしろそうだけど残念ながら、甲板で釣りは無理だなあ、その気があっても」

 佐伯さんは、法的な問題もあるけど、甲板から海面までの高さがありすぎて、釣り糸がトンでもないことになるよって笑った。そう言えば港で見た護衛艦って、乗り込む時に結構な高さまで、階段をのぼらなきゃいけなかったような気がする。漫画なんかでありがちな、甲板で日がな一日を釣りしてすごすなんて無理そうだ。

「もちろん海鮮丼だけじゃなくて、他にもおいしいものありますけど、ガッツリ焼肉とか、そんな気分じゃないですか?」
「それは特にないかな。それに海鮮丼って聞いてその気になってるから、いまさら違う店につれていかれたら、ショックかもしれない」
「じゃあ決まりですね。海鮮丼食べに行きましょう!」
「賛成」

 駅へと歩いていく途中にあった文具屋さんの前で、佐伯さんが急に立ち止まった。どうしたんだろう?って彼がのぞきこんでいる店先の展示品を見ると、可愛らしいスタンプがたくさん並んでいる。その中に幼稚園や小学校で使われる、お花の形をした『大変よくできました』『よくできました』もあった。そしてその横には、いろんな形をした『大変よくできました』スタンプが並んでいる。

「俺達が子供の頃の時は、こんな色々なよくできましたはなかったよなあ」
「最近は可愛いのが増えましたね」
「……」
「どうしたんです?」
「え? ああ、いや、今日の俺は、どのスタンプを押してもらえるかな~なんて考えてた」
「今日ですか?」

 ちょっと考える。

「今日は“よくできました”だと思いますよ」

 その言葉にちょっとガッカリした顔をする。その顔はやめてください。本当に可愛くて、ムギューって抱きしめたくなるから! じゃなくて。

「そりゃ嬉しいですよ、会いにきてくれたんだもの。だけど、当直あけで眠いのに、無理して車を運転してきちゃダメです。嬉しいけど、まずは佐伯さんの体調が大事だから。ちょっと心配だから“大変よくできました”は今回おあずけ」
「そっかー……まだもらえないのか、残念」
「そんなに意識してたら疲れちゃいますよ。できる範囲で無理せず楽しくです。私は佐伯さんの仕事のこと分かってますから、努力はしてほしいけど無理しちゃダメです」
「そのサジ加減が難しいな」

 確かにね。私もこんなに頻繁ひんぱんに写真を送っても良いのかなー?とか、電話しちゃって良いのかなーって悩むことがある。迷惑じゃないかなとか、ウザいって思われてないかなとか。

「メールだけでも良かったんですよ?」
「うん。だけど杏奈さんの顔、見たかったしね」
「……」
「どうした?」
「今の一言で、大変よくできましたをあげたくなっちゃった」
「お」
「だけどやっぱりあげません。また当直あけに無理してきたら困るから」

 期待した顔がガッカリしたものになった。それからしばらく何か考え込んでいる。そして何か思いついたみたい。

「よし」
「よし?」
「じゃあ“大変よくできました”をもらえるように、今夜は頑張ってみようか」
「は?」
「うんうん、それなら無理してるわけでもないし」
「あのう……」
「頑張るから、期待してて良いよ、杏奈さん」

 いや、別にそう言う意味で頑張ったからって、“大変よくできました”スタンプを押してあげるわけじゃないんだけどな、佐伯さん。

 上機嫌な顔になると、私の手を取って海鮮丼の店ってここから遠い?なんて呑気な顔で話しかけてきた。御招待、受けなければ良かったかな。明日は何処にも行けない気がしてきたんだけど。
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