俺の彼女は中の人

鏡野ゆう

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本編

第二十八話 甘いかしょっぱいか side - 佐伯

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「了解ですー。んじゃ、行ってらっしゃいとお休みなさい~」

 俺が渡した鍵をベッドサイドの自分の携帯電話の横に置くと、杏奈さんは欠伸を噛み殺しながらタオルケットにくるまって目を閉じてしまった。平日で、しかも炎天下でずっと活動をしていた彼女をこんなふうに明け方近くまで離さずに寝かさなかったのはさすがに申し訳なかったと今更ながら後悔した。だが頭では申し訳ないと思っていても体の方はそんなこと全くお構い無しのようで、こちらも同じように殆ど寝ていないにも関わらずまだ続けられるぞと元気に主張している。だが生憎と今日も仕事だ、我慢しろよ相棒。眠ってしまった彼女の薬指で光る指輪を眺めながら、ちょっとした優越感に浸りつつ出掛ける準備を始めた。

 職場に行くと当直明けの寺脇がニヤニヤしながら待っていた。こっちに帰ったら彼女の返事を聞くことになっているとそれとなく話してからずっとこんな調子だ。

「その様子だと首尾は上々だったらしいな」
「どんな様子だよ」
「まさに色々な意味で“ご満悦”。寝不足状態で大丈夫なのか仕事」
「一日二日の徹夜でへたばるものか」
「お前じゃないよ、マツラーのことだよマツラーの」
「あー、彼女か」

 どうだろうなぁと呟くと寺脇は仕方ないヤツだなお前と苦笑いした。確かに杏奈さんは今日と明日もイベント会場でマツラーの中の人をする。しかも今週は晴天続き、天気予報では今日もかなり気温が上がるということだ。そう言う意味でもやはり申し訳なかったかと少しだけ本気で後悔した。時計のアラームが鳴るまで少しでも睡眠時間を取り戻せると良いんだが。

「それで? ちゃんと返事は貰えたのか? まさか問答無用ってことはないだろうな」
「ちゃんと貰ったよ。俺の為にウエディングドレスを着てくれるそうだ」
「そうか。じゃあ俺達がマツラーを囲んで拝み倒す必要はなくなったわけだ」

 寺脇は彼女からの返事が芳しくない場合は俺達に任せろと言っていた。まったく何をするつもりなのやらと呆れていたのだが、どうやら総員でイベントに参加しているマツラーのところに押し掛けて泣き落としをするつもりだったらしい。……まさか艦長までかんでいるってことはないよな?

「お前等、それ、本当にする気だったのか?」
「当たり前だ、親友の老後がかかっているからな」
「老後かよ……」

 申し送りが終わった後、寺脇は御機嫌な顔をして帰っていったがその途中でマツラーの元に立ち寄ったらしいことを知ったのはその夜になってから。杏奈さんに聞いたところ、会場に入ったらマツラーのお腹にお祝いのメモ書きが貼ってあったそうだ。確かにあの文字は寺脇だった。まったく当直明けはハイになる奴が多くて困る。更には超強面で知らない人はいないとまで言われている先任伍長の海津さんまでが挨拶に行くと言い出す始末。これは単なる当直明けのハイなのかうちの連中のノリが良すぎるのか。

「まあここしばらく訓練漬けでしたからね、皆、お祭りが楽しくて仕方が無いんでしょう」

 自分も一尉の婚約者殿のご尊顔を拝見したいものですと笑いながら言ったのは補給科の江崎。給養員にまで話が伝わっているとは一体どこまで話は拡がっているのやらと恐ろしくなった。まさか全員が杏奈さんの顔を見にいくなんてことは無いよな?と心配していたのだが、まさか週末の二日間で殆どの連中がマツラー詣でをすることになろうとは……。海自は暇人の集まりかと思われたらどうするんだ。寺脇とは少し話し合わなければいけないかもしれないと思った瞬間だった。

 そしてこの時点で杏奈さんの素顔をちゃんと知っているのが寺脇だけということに気が付いたのは自宅に戻ってから。そう、イベント会場に押し掛けたにも関わらず全員がマツラーとしか会えていないのだ。俺が結婚する相手がマツラーだなんて誰も本気で考えないよな? マツラーは男なんだから。

+++

 じゃあそれからは週末初日の反省を踏まえ、杏奈さんにちゃんと睡眠をとらせてやれたのかと問われれば正直言って自信がない。というのも自宅に戻るという彼女をどうせこっちでマツラー君をするなら近くて良いじゃないかと無理やりこちらで連泊させた上に、イベントが終わって今日こそ自宅に戻りますと宣言した彼女を自宅に送り届けた後も結局俺が泊り込んでしまったのだから。

 今回のことで杏奈さんがその表情は反則です!と怒る理由が分かった。なるほど、こういう表情に彼女は弱いのか。これはいいことを知った……内心そうほくそ笑んだのは俺だけの秘密だ。

「もう駄目ですスタンプを押しても効き目が無いような気がしてきました。何か別のペナルティ考えなきゃ」

 杏奈さんはちょっと遅めの朝食を作りながらぼやいている。

「なんだよ、最後は杏奈さんの方から折れたんじゃないか。別に俺が駄々をこねたわけじゃないだろ?」
「だから、あの顔が反則なんですってば」
「それ、何度か聞いているけど俺にはよく分からないなあ……」

 作戦にはフェイクも必要である。

「これでも手加減したんだけどな」
「当たり前です。睡眠不足な上にこれで本気なんて出されちゃったら週明けから仕事にならないでしょ? あ、そうだ。ペナルティ、金曜日はカレーにしてあげないとかどうかな」

 ちょっとドヤ顔の彼女を見詰めながら絶対に何か誤解しているよなと思う。

「杏奈さん」
「はい?」
「金曜日がカレーなのは俺達が毎週カレーを食べなきゃ死んじゃうほどカレー好きな集団なわけじゃなくて、単に曜日感覚がずれないようにすることから始まった伝統だから」
「え、じゃあ週一でカレーを食べなくても全然困らないとか?」
「少なくとも俺はまったく困らない」

 そりゃ護衛艦ごとにそれぞれの秘伝のレシピなんてのがあって拘りがあるのは事実だし、金曜日を楽しみにしている人間がいるのも確かだが、当然のことながらそのカレーを毎週金曜日に食べなければどうかなるというわけでない。

「……そう」

 彼女はちょっと残念そうな顔をしてから更に考えて込んだ。その可愛い頭の中でいったい何を考えているのやら。次に何を提案するか楽しみなのでニヤニヤしながら待つことにした。

「あ、だったら一週間カレー続きとか」
「俺は全然平気だけど。杏奈さんの作ったカレーなら一週間でも二週間でも大歓迎」

 まあさすがに飽きるとは思うが。そして更に何か無いかと唸りながら杏奈さんはだし巻き玉子を皿に並べている。この玉子は朝から甘いか塩辛いかでちょっとした論争になったものだ。ちなみに俺は塩辛い派で杏奈さんは甘い派。俺が甘いのは伊達巻だろ?と言えば彼女は塩辛いってオムレツなんじゃ?と返してきた。意外なところでお互いに関東関西出身ということを実感する出来事だ。で、結局どうしたかと言うと彼女のだし巻き玉子なら有りですという一言でだし巻き玉子となった。

「じゃあ……次に帰ってきた時にエッチ禁止にするとか」

 また物凄い提案をしてきたものだと笑いながらテーブルに玉子焼きの乗った皿を並べる。

「それ、杏奈さんだって辛いんじゃ? なかなか会えないのに一緒にいられる時に愛し合えないなんて」

 派手にシンクに何か落ちる音がした。どうしたのかとそっちを見ればギョッとした顔で振り返った彼女の顔は真っ赤だった。

「ああああ愛し合うって?!」
「え? エッチするってことはそう言うことだろ? 違うのか?」

 何を慌てているのか分からずに首を傾げてみせる。これは冗談とかではなく、どうして杏奈さんがそんなに顔を真っ赤にして慌てているのか本当に分からない。

「そ、そうなんですけど、改めてそう表現されると」
「されると?」
「は……」
「は?」
「は、恥ずかしいですっ!!」

 台所でジタバタしている彼女が可愛くて思わず笑ってしまった。こういう彼女自身の仕草がマツラーを可愛く見せているんだろうな。あのマスコットが人気者になったのも頷ける。

「じゃあ杏奈さん、俺が愛してるよとか言っても恥ずかしいと、か?」

 尋ねるだけ愚問だったかもしれない。女性が台所で悶絶している光景なんてなかなかお目にかかれないものだ。

「結婚するってことはそういうことなんだけど、もしかして杏奈さんは俺のこと愛してないとか?」
「うわあああ、言わないで下さい!! 恥ずかし過ぎる!!」
「……なんか、意外な一面だね」

 少しだけ真面目に言ってはみたがとても面白いことを知ってしまったというのが正直なところだった。

「まさか体の相性だけで結婚を承諾したとか言わないよね? 俺は杏奈さんのこと愛……」
「ご飯、炊けましたよ!! ちゃんと朝ご飯は食べないと一日が始まりません! 食べましょう!」
「……中の人とかしているからそんなことないと思っていたんだけど、杏奈さんって意外と恥ずかしがり屋さんなんだね」
「ご飯!」
「はいはい」

 これは暫く退屈しないで済みそうなネタだなと思っていたら、彼女から何でそんなに黒い笑みを浮かべているんですか?!と即座に指摘を受けてしまった。いかんいかん、礼儀正しい海の男は女性の弱味を見つけてもそれをネタにからかったりしないもの。ここはきちんとポーカーフェイスを貫かないと。

「だけど杏奈さん、俺だって杏奈さんに愛してるって言ってもらいたいからさ。恥ずかしいのは分かったけど口にすることや耳にすることに慣れてもらわないと」

 そう言って努めて邪気の無い微笑みを浮かべて見せると彼女は物凄く微妙な顔をしていた。


+++++


「佐伯さん、緊張してます?」
「ん?」

 次の週、待ち合わせをした俺達は彼女の実家に向かう為に電車に乗っている。緊張していないと言えば嘘になる。週明けに彼女の兄である健人さんから連絡があり、両親は非常に喜んでいるから安心しろということを聞かされていたからその点では心配はしていない。だがやはり杏奈さんの両親と直接話すとなるとそれなりに緊張はするものだ。

「なんだか普段と違うから」
「そりゃ緊張しなかったら嘘だろ? 愛する女性の御両親に結婚するって報告しに行くんだから」

 効果てき面。あっという間に彼女の顔が赤くなった。

「もう! 恥ずかしいからやめてって言ってるのに~! しかも外でとか!」
「何が?」
「だから、その、あーなんとかって言うの!」
「俺は“あーなんとか”なんて言葉は発してないけどな。杏奈さんの空耳じゃ?」

 杏奈さんが“愛している”と言われることが恥ずかしいと知ってからは、言われることも慣れてもらわないとねという口実のもと頻繁に口にするようにしていた。本人は恥ずかしくて死にそうだからやめてと言うが、本気で嫌がっているのか俺には分からないので自分が言いたい時はちゃんと伝えるようにしている。その度に電話口で何やら彼女が騒いでいるのだが顔が見えないから何とも言えないな。

「自分が緊張しているからって私をからかって喜んでいるなんて酷いです!」
「からかうなんて酷いな、杏奈さんのことを愛しているのは本当のことなのに」

 まあ今みたいにその反応が分かっていてわざと言う時も確かにある。

 それに俺だって杏奈さんの口から“愛している”と言われたい。だから口にしても耳にしてもそんな風にじたばすることなく“私も愛してる”と早く言って欲しい。そうすればいつもの場所に『大変よくできました』スタンプを押してあげるんだがな。

「佐伯さん、また黒い笑みが浮かんでる」
「そう? 気のせいじゃないかな?」

 努めて穏やかな笑みを浮かべて見せたが杏奈さんの目は誤魔化せなかったようだ。
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