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本編
第五話 結花先生のターン
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次の日の朝、杉下さんが手帳に書かれている今日一日の予定を読み上げるのを聞きながら、あくびを噛み殺した。昨晩は、霧島さんが言い残していったことを色々と考え続けていたせいで、普段より少し寝不足気味だ。
「先生、もしかして寝不足ですか?」
何度目かのあくびを噛み殺していると、杉下さんが心配そうな顔をして私の顔を覗き込んできた。
「なにかお休みになれなかった原因でも? それとも夜更かしでもされたんですか? 休み前でもないのにお珍しいですね」
確かに次の日が休みの日は、録画しておいたドラマを観たり映画を観たりして夜更かしもするけれど、平日にそれはない。それより気になるのは、いつもは朝から仕事モードで真面目な顔をしている杉下さんなのに、どことなく面白がっているような表情をしていることだ。昨晩のことで、彼女は何か思い当たることでもあるのだろうか。
「ちょっと考えごとをしたら眠りそこなっちゃったのよね。一応は鏡の前でチェックしたんだけど、クマでもできてる?」
「それは大丈夫ですよ。もしあったとしても、ちゃんと隠れていて分かりません」
「そう? なら良いんだけど」
最近は、テレビでもネットでもあれこれチェックが厳しいから気が抜けない。いつから私達政治家まで、芸能人と同じような扱いを受けるようになったんだか。
「あ、そうだ。杉下さん、今日の伊勢谷先生の午後からの予定って、どうだったかしら?」
私の問い掛けに、杉下さんは手帳の違うページを開いた。
「伊勢谷先生ですね? 夕方から都内のホテルで、若手議員有志との外交に関しての勉強会に、参加されると聞いてますが……ええ、間違いありません、今夜は外交に関しての勉強会です」
彼女の手帳は本当に魔法の手帳だ。そこには私の予定だけではなく、主だった先生達の予定までメモ書きされていて、質問をすれば大抵のことはその場で答えてくれる。
私の気ままな行動も、彼女の魔法があるから可能なわけで、杉下さんがいなかったらきっと、今の私の仕事は成り立たないと思う。そんな彼女を今まで散々振り回していたんだから、私ってとんでもなく我が儘お嬢さん議員だったんだなあと、今更ながら改めて反省。
だけど、もうちょっとそれに付き合ってもらおうかしらね、杉下さんには申し訳ないけれど。
「それまでは?」
「予算審議の方に出席される予定です。それ以外には特にないようです」
「ふむ……」
「伊勢谷先生に何かご用がおありなんですか? でしたら、お昼にでもアポを取っておきますが」
「ううん。用があるのは先生じゃなくて、先生にひっついてウロウロしている人の方なのよ」
杉下さんがフムと呟いた。
「……そうなんですか? でしたらその方に連絡をとりましょうか?」
「そんなことしなくても大丈夫。先生さえ捕まえれば、必ずその人もくっついてくるから」
首をかしげながら。なにやら考え込んでいる杉下さん。
「先生? その時間、こちらも予定が入っているので、もし何か込み入ったお話をされるのでしたら、前もって仰っていただいた方が良いかと思います。先生だけではなく、伊勢谷先生のためにも」
「ああ、それも大丈夫。今日は単なる宣戦布告みたいなものですぐに終わるから。たぶん五分もかからない」
杉下さんが驚いて顔をあげた。
「え、伊勢谷先生に宣戦布告なさるんですか?」
「違うわよ。先生にひっついてウロウロしている人にってこと」
「ああ、そうなんですね。分かりました、じゃあ問題ありません」
そう言って再び手帳に目を落とす。そのさも当然というような口調に、こちらが逆に首をかしげてしまった。
「……ねえ杉下さん」
「なんでしょう?」
「その言い方だと、伊勢谷先生にさえ宣戦布告しなかったら、後は誰に布告してもかまわないって言っているように聞こえるんだけど」
「そうですね。まあ伊勢谷先生だったとしても、弱点を調べるとか後ろ暗いことを調べ上げるぐらいのことでしたら、お手伝い出来ると思いますよ?」
「…………」
「どうされました?」
「杉下さんが秘書で良かったなあって思っているところ」
私がそう言うと、ニッコリと可愛らしい笑顔になって私を見た。
「それは良かったです。父からも、お仕えする先生の良き片腕たれと教えられてきましたから。あ、そろそろ時間ですよ、準備はよろしいですか?」
「……うん、そうね。出かけましょう」
「はい、先生」
今更だけど、本当に敵にしなくて良かった……。
+++++
「伊勢谷先生、今ちょっとお時間よろしいですか?」
審議が終わって議場を出たところで、私よりも先に出ていた伊勢谷先生に声をかけた。
「やあ、結花君。聞いたよ、もしかしたら次は、重光の選挙区から出るかもしれないんだって?」
立ち止まった伊勢谷先生は、私が横に立つと声をひそめて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「さすがお耳が早いですね。父からは、時間をかけて考えなさいとは言われているんですけれど、多分そうなると思います。うちの父、私に何もかもを押し付けて、自分は奥さん孝行がしたくて仕方がないようですから」
「人に無理やり大臣職を押し付けておいて、自分はさっさと引退する算段をしていたとはね。まったく呆れたヤツだな」
先生が愉快そうに笑った。
伊勢谷先生は父親と同世代の議員で、若い頃から一緒に党を引っ張ってきた議員の一人だ。父親は今は国務大臣を務めていないけれど、伊勢谷先生はいまだに外務大臣として、あちらこちらの国に精力的に出向いている。
「それで? 私に何か頼みごとでも? 重光を引き留める算段かい?」
「いえ、そんな大それたことじゃないんですよ。今日はこれから都内のホテルでお勉強会でしたよね? ほら、お勉強会の熱中してしまうと、つい時間が経つのを忘れてしまうでしょう? お手洗いを先に済ませておいた方が良いんじゃないかなって、心配になったものですから。まさかSPの方に、トイレまで担いで走ってもらうわけにもいきませんし?」
さりげなく決めていた単語を強めに言うと、伊勢谷先生はニッコリと笑ってから片目をつぶって見せた。
「時間的にはそんなに余裕がないから長くは無理だけど、そうだな、十分ぐらいなら粘れると思うよ。何せ年寄りだから、個室で用を足すのも一苦労だしね。ああ、失礼、女性の前でこんなことを口にして」
「助かります」
軽く頭を下げると、先生は若いって良いねえ言いながら笑った。そして、少し離れた場所に立っていた霧島さんに手招きをした。話の分かる伊勢谷先生の警護担当が霧島さんだったのは、本当にラッキーだった。
「すまない、霧島君。ここを出る前に、ハバカリに行ってきても良いかな。年をとるとなにぶん近くなっちゃってね。ほんと、年はとりたくないね。十分ぐらいの遅れなら特に問題は無いよね?」
「分かりました。念のために、あちらには少し遅れると連絡を入れます」
そう言いながら、霧島さんはチラリと私の方を見てから、先生の少し前に立って廊下を歩きだす。すれ違いざまに何やら冷たい視線が飛ばしてきたけど、私は先生とあれこれと楽しくお喋りをしながら歩いていたので、まったく気にならなかった。
「しかし、重光は本気で引退するつもりなのかい? まさか都知事に出るとか言い出さないよね?」
「それは無いと思いますよ。だって妻孝行する時間が取れないって、口癖のように言っていますもの」
「比例区にするとも言ってないのかい?」
「そんな気はさらさらないようです。自分の選挙区を熱烈に愛しているので、残るなら小選挙区でしょうね」
「僕達が老体にムチ打って働いているのにけしからんな、何か手立てを考えるか……」
執行部は父親と私次第だと言っていたけれど、伊勢谷先生は別の考えを持っているらしい。これはもしかして愉快な一悶着があるかもしれない。しばらくはそれとなく、父親や伊勢谷先生をマークしておくことにしよう。
「じゃあ結花君、ここで失礼するよ」
そう言った先生は、トイレの中までついてこようとする霧島さんに気づいて立ち止まった。
「君も苦労性だね。国会内のトイレにまで何かあるわけないだろ? 個室の前に立たれると落ち着かなくて。出るものも出なくなるから、廊下に出ていなさい」
そう言いながら、しぶる霧島さんをトイレから追い出して個室へと入っていく。ほんと、察しの良い先生で助かった。
「こういうのは感心しないぞ、先生」
伊勢谷先生に言われ、しぶしぶ廊下に出てきた霧島さんが私のことをにらむ。
「何の話かさっぱり分からないけれど」
「俺と話をする時間を作るために、伊勢谷先生に何か頼んだろ」
「私は何も頼んでないわよ。勉強会の前にお手洗いに行かなくても良いですかって。言っただけ。うちの父親も年のせいかトイレが近いって言ってたし、心配ですもの。伊勢谷先生とは小さい頃から交流があるから、そういう遠慮のないことも言えるのよ、私。それに、何で私がわざわざ霧島さんと話をする時間を作らなきゃいけないの?」
「……」
おお、あの霧島さんが言葉につまっているじゃない。なんだか愉快。
「あら珍しい、貴方が言葉に窮するなんて。もしかして夜遊びでもして、風邪でもひいたちゃったのかしら。大丈夫? それとも、飲みなれないカクテルを飲んで二日酔い?」
「余計なお世話だ」
ムッとした口調になって、さっさと話せという顔つきになった。
「ああ、先生は十分ぐらいしか粘れないっておっしゃっていたから手短によね。うちのね、この手の事柄についてのモットーは先手必勝、一撃必殺、後悔先に立たずなの」
「は?」
「つまり、恋愛に関しては先手必勝、一撃必殺、後悔先に立たず。ま、後悔先に立たずは、我が家のって言うより父親から学んだ教訓ってとこかしらね」
「一体どんなモットーなんだ……」
呆れた顔で私を見下ろす。だけど何処かで面白がっているでしょ? 眼鏡の向こう側の目が、さっきまでの冷たい視線じゃなくなったんだもの、彼は絶対に面白がって興味をひかれたはず。
「まあ、その辺りの事情について詳しくすると、父親の話で長くなって十分じゃ終わらなくなるから省略するわね。知りたかったら、そのうちゆっくりと聞かせてあげる。で、先手必勝に関しては、すでに言ったもの勝ちってやつで貴方に白星を譲っておくけど、ここからは私のターンだから」
そう言って、霧島さんの一部の隙もないスーツのネクタイを掴むと、力いっぱい引っ張ってかがませた。だってそうでもしないと、この180センチも身長のあるお兄さんと視線が同じ位置にならないんだもの。ちょっと乱暴だけど仕方がないわよね。
「覚悟はおあり?」
私の言葉に最初は驚いていた霧島さんだけど、やがて愉快そうに口元を歪めた。
「なるほど。これは俺に対する宣戦布告ってやつなのかな、先生?」
「まあそんなところね。元防衛大臣の父親を持つ議員としては、その言葉を使うのはちょっとばかり不穏当な気はするけれど。それで? 政治家とこういうやり取りをするとなれば、ある程度の注目を浴びることになるかもしれないけど、構わないのよね?」
その質問にニヤリと笑った。
「今までどれだけ、マスコミ連中の目をかいくぐって、議員先生達をあちこちに移動させてきたと思ってるんだ? それは君だって同じだろう」
「それこそ、今まで私がどれだけマスコミに見つからずに、あっちこっちのお店で羽根をのばしてきたと思ってるの?」
そう言い返すと、なるほどとうなづく。
「ならばこの勝負、是非とも受けて立つよ」
「後で逃げ出したくなっても逃がさないわよ?」
「それはこっちのセリフだ」
霧島さんはそう言うと、素早く唇を重ねてきた。そしてさっと顔を上げて満足げに笑う。
「俺を驚かせたことでポイントが並んだと思っただろ? だがこれで再び俺のリードだな。次はどう反撃するか楽しみにしているよ、先生」
私が言い返そうとして口を開いたところで、水を流す音がして伊勢谷先生が個室から出た気配がした。そして手を洗ってハンカチで手を拭きながら廊下に出てくると、私がまだいたことに気がついて申し訳なさそうな顔をした。
「少し早すぎたかね?」
霧島さんはネクタイの歪みをさりげなく直すと、私と先生の間に割り込むような形で立った。
「いえ、早々に出てきていただいて助かります。今からでしたら、予定通りにホテルに到着できると思いますので急ぎましょう」
「それは良かった。じゃあ結花君、これで本当に失礼するよ。ああ、重光に言っておいてくれるかな、自分だけ楽をしようなんざ十万年早いぞって」
「必ず伝えます」
二人を見送りながら頭に浮かんだのは「悔しい」の一言。
「完全にしてやられた……!!」
せっかく並んだと思ったのに、早々に一歩先んじられてしまった。なかなか手強い男だ……!!
「先生、もしかして寝不足ですか?」
何度目かのあくびを噛み殺していると、杉下さんが心配そうな顔をして私の顔を覗き込んできた。
「なにかお休みになれなかった原因でも? それとも夜更かしでもされたんですか? 休み前でもないのにお珍しいですね」
確かに次の日が休みの日は、録画しておいたドラマを観たり映画を観たりして夜更かしもするけれど、平日にそれはない。それより気になるのは、いつもは朝から仕事モードで真面目な顔をしている杉下さんなのに、どことなく面白がっているような表情をしていることだ。昨晩のことで、彼女は何か思い当たることでもあるのだろうか。
「ちょっと考えごとをしたら眠りそこなっちゃったのよね。一応は鏡の前でチェックしたんだけど、クマでもできてる?」
「それは大丈夫ですよ。もしあったとしても、ちゃんと隠れていて分かりません」
「そう? なら良いんだけど」
最近は、テレビでもネットでもあれこれチェックが厳しいから気が抜けない。いつから私達政治家まで、芸能人と同じような扱いを受けるようになったんだか。
「あ、そうだ。杉下さん、今日の伊勢谷先生の午後からの予定って、どうだったかしら?」
私の問い掛けに、杉下さんは手帳の違うページを開いた。
「伊勢谷先生ですね? 夕方から都内のホテルで、若手議員有志との外交に関しての勉強会に、参加されると聞いてますが……ええ、間違いありません、今夜は外交に関しての勉強会です」
彼女の手帳は本当に魔法の手帳だ。そこには私の予定だけではなく、主だった先生達の予定までメモ書きされていて、質問をすれば大抵のことはその場で答えてくれる。
私の気ままな行動も、彼女の魔法があるから可能なわけで、杉下さんがいなかったらきっと、今の私の仕事は成り立たないと思う。そんな彼女を今まで散々振り回していたんだから、私ってとんでもなく我が儘お嬢さん議員だったんだなあと、今更ながら改めて反省。
だけど、もうちょっとそれに付き合ってもらおうかしらね、杉下さんには申し訳ないけれど。
「それまでは?」
「予算審議の方に出席される予定です。それ以外には特にないようです」
「ふむ……」
「伊勢谷先生に何かご用がおありなんですか? でしたら、お昼にでもアポを取っておきますが」
「ううん。用があるのは先生じゃなくて、先生にひっついてウロウロしている人の方なのよ」
杉下さんがフムと呟いた。
「……そうなんですか? でしたらその方に連絡をとりましょうか?」
「そんなことしなくても大丈夫。先生さえ捕まえれば、必ずその人もくっついてくるから」
首をかしげながら。なにやら考え込んでいる杉下さん。
「先生? その時間、こちらも予定が入っているので、もし何か込み入ったお話をされるのでしたら、前もって仰っていただいた方が良いかと思います。先生だけではなく、伊勢谷先生のためにも」
「ああ、それも大丈夫。今日は単なる宣戦布告みたいなものですぐに終わるから。たぶん五分もかからない」
杉下さんが驚いて顔をあげた。
「え、伊勢谷先生に宣戦布告なさるんですか?」
「違うわよ。先生にひっついてウロウロしている人にってこと」
「ああ、そうなんですね。分かりました、じゃあ問題ありません」
そう言って再び手帳に目を落とす。そのさも当然というような口調に、こちらが逆に首をかしげてしまった。
「……ねえ杉下さん」
「なんでしょう?」
「その言い方だと、伊勢谷先生にさえ宣戦布告しなかったら、後は誰に布告してもかまわないって言っているように聞こえるんだけど」
「そうですね。まあ伊勢谷先生だったとしても、弱点を調べるとか後ろ暗いことを調べ上げるぐらいのことでしたら、お手伝い出来ると思いますよ?」
「…………」
「どうされました?」
「杉下さんが秘書で良かったなあって思っているところ」
私がそう言うと、ニッコリと可愛らしい笑顔になって私を見た。
「それは良かったです。父からも、お仕えする先生の良き片腕たれと教えられてきましたから。あ、そろそろ時間ですよ、準備はよろしいですか?」
「……うん、そうね。出かけましょう」
「はい、先生」
今更だけど、本当に敵にしなくて良かった……。
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「伊勢谷先生、今ちょっとお時間よろしいですか?」
審議が終わって議場を出たところで、私よりも先に出ていた伊勢谷先生に声をかけた。
「やあ、結花君。聞いたよ、もしかしたら次は、重光の選挙区から出るかもしれないんだって?」
立ち止まった伊勢谷先生は、私が横に立つと声をひそめて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
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「人に無理やり大臣職を押し付けておいて、自分はさっさと引退する算段をしていたとはね。まったく呆れたヤツだな」
先生が愉快そうに笑った。
伊勢谷先生は父親と同世代の議員で、若い頃から一緒に党を引っ張ってきた議員の一人だ。父親は今は国務大臣を務めていないけれど、伊勢谷先生はいまだに外務大臣として、あちらこちらの国に精力的に出向いている。
「それで? 私に何か頼みごとでも? 重光を引き留める算段かい?」
「いえ、そんな大それたことじゃないんですよ。今日はこれから都内のホテルでお勉強会でしたよね? ほら、お勉強会の熱中してしまうと、つい時間が経つのを忘れてしまうでしょう? お手洗いを先に済ませておいた方が良いんじゃないかなって、心配になったものですから。まさかSPの方に、トイレまで担いで走ってもらうわけにもいきませんし?」
さりげなく決めていた単語を強めに言うと、伊勢谷先生はニッコリと笑ってから片目をつぶって見せた。
「時間的にはそんなに余裕がないから長くは無理だけど、そうだな、十分ぐらいなら粘れると思うよ。何せ年寄りだから、個室で用を足すのも一苦労だしね。ああ、失礼、女性の前でこんなことを口にして」
「助かります」
軽く頭を下げると、先生は若いって良いねえ言いながら笑った。そして、少し離れた場所に立っていた霧島さんに手招きをした。話の分かる伊勢谷先生の警護担当が霧島さんだったのは、本当にラッキーだった。
「すまない、霧島君。ここを出る前に、ハバカリに行ってきても良いかな。年をとるとなにぶん近くなっちゃってね。ほんと、年はとりたくないね。十分ぐらいの遅れなら特に問題は無いよね?」
「分かりました。念のために、あちらには少し遅れると連絡を入れます」
そう言いながら、霧島さんはチラリと私の方を見てから、先生の少し前に立って廊下を歩きだす。すれ違いざまに何やら冷たい視線が飛ばしてきたけど、私は先生とあれこれと楽しくお喋りをしながら歩いていたので、まったく気にならなかった。
「しかし、重光は本気で引退するつもりなのかい? まさか都知事に出るとか言い出さないよね?」
「それは無いと思いますよ。だって妻孝行する時間が取れないって、口癖のように言っていますもの」
「比例区にするとも言ってないのかい?」
「そんな気はさらさらないようです。自分の選挙区を熱烈に愛しているので、残るなら小選挙区でしょうね」
「僕達が老体にムチ打って働いているのにけしからんな、何か手立てを考えるか……」
執行部は父親と私次第だと言っていたけれど、伊勢谷先生は別の考えを持っているらしい。これはもしかして愉快な一悶着があるかもしれない。しばらくはそれとなく、父親や伊勢谷先生をマークしておくことにしよう。
「じゃあ結花君、ここで失礼するよ」
そう言った先生は、トイレの中までついてこようとする霧島さんに気づいて立ち止まった。
「君も苦労性だね。国会内のトイレにまで何かあるわけないだろ? 個室の前に立たれると落ち着かなくて。出るものも出なくなるから、廊下に出ていなさい」
そう言いながら、しぶる霧島さんをトイレから追い出して個室へと入っていく。ほんと、察しの良い先生で助かった。
「こういうのは感心しないぞ、先生」
伊勢谷先生に言われ、しぶしぶ廊下に出てきた霧島さんが私のことをにらむ。
「何の話かさっぱり分からないけれど」
「俺と話をする時間を作るために、伊勢谷先生に何か頼んだろ」
「私は何も頼んでないわよ。勉強会の前にお手洗いに行かなくても良いですかって。言っただけ。うちの父親も年のせいかトイレが近いって言ってたし、心配ですもの。伊勢谷先生とは小さい頃から交流があるから、そういう遠慮のないことも言えるのよ、私。それに、何で私がわざわざ霧島さんと話をする時間を作らなきゃいけないの?」
「……」
おお、あの霧島さんが言葉につまっているじゃない。なんだか愉快。
「あら珍しい、貴方が言葉に窮するなんて。もしかして夜遊びでもして、風邪でもひいたちゃったのかしら。大丈夫? それとも、飲みなれないカクテルを飲んで二日酔い?」
「余計なお世話だ」
ムッとした口調になって、さっさと話せという顔つきになった。
「ああ、先生は十分ぐらいしか粘れないっておっしゃっていたから手短によね。うちのね、この手の事柄についてのモットーは先手必勝、一撃必殺、後悔先に立たずなの」
「は?」
「つまり、恋愛に関しては先手必勝、一撃必殺、後悔先に立たず。ま、後悔先に立たずは、我が家のって言うより父親から学んだ教訓ってとこかしらね」
「一体どんなモットーなんだ……」
呆れた顔で私を見下ろす。だけど何処かで面白がっているでしょ? 眼鏡の向こう側の目が、さっきまでの冷たい視線じゃなくなったんだもの、彼は絶対に面白がって興味をひかれたはず。
「まあ、その辺りの事情について詳しくすると、父親の話で長くなって十分じゃ終わらなくなるから省略するわね。知りたかったら、そのうちゆっくりと聞かせてあげる。で、先手必勝に関しては、すでに言ったもの勝ちってやつで貴方に白星を譲っておくけど、ここからは私のターンだから」
そう言って、霧島さんの一部の隙もないスーツのネクタイを掴むと、力いっぱい引っ張ってかがませた。だってそうでもしないと、この180センチも身長のあるお兄さんと視線が同じ位置にならないんだもの。ちょっと乱暴だけど仕方がないわよね。
「覚悟はおあり?」
私の言葉に最初は驚いていた霧島さんだけど、やがて愉快そうに口元を歪めた。
「なるほど。これは俺に対する宣戦布告ってやつなのかな、先生?」
「まあそんなところね。元防衛大臣の父親を持つ議員としては、その言葉を使うのはちょっとばかり不穏当な気はするけれど。それで? 政治家とこういうやり取りをするとなれば、ある程度の注目を浴びることになるかもしれないけど、構わないのよね?」
その質問にニヤリと笑った。
「今までどれだけ、マスコミ連中の目をかいくぐって、議員先生達をあちこちに移動させてきたと思ってるんだ? それは君だって同じだろう」
「それこそ、今まで私がどれだけマスコミに見つからずに、あっちこっちのお店で羽根をのばしてきたと思ってるの?」
そう言い返すと、なるほどとうなづく。
「ならばこの勝負、是非とも受けて立つよ」
「後で逃げ出したくなっても逃がさないわよ?」
「それはこっちのセリフだ」
霧島さんはそう言うと、素早く唇を重ねてきた。そしてさっと顔を上げて満足げに笑う。
「俺を驚かせたことでポイントが並んだと思っただろ? だがこれで再び俺のリードだな。次はどう反撃するか楽しみにしているよ、先生」
私が言い返そうとして口を開いたところで、水を流す音がして伊勢谷先生が個室から出た気配がした。そして手を洗ってハンカチで手を拭きながら廊下に出てくると、私がまだいたことに気がついて申し訳なさそうな顔をした。
「少し早すぎたかね?」
霧島さんはネクタイの歪みをさりげなく直すと、私と先生の間に割り込むような形で立った。
「いえ、早々に出てきていただいて助かります。今からでしたら、予定通りにホテルに到着できると思いますので急ぎましょう」
「それは良かった。じゃあ結花君、これで本当に失礼するよ。ああ、重光に言っておいてくれるかな、自分だけ楽をしようなんざ十万年早いぞって」
「必ず伝えます」
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