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第二話「戸惑いの香炉」
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火を落とした廬の中は、ひっそりと静まり返っていた。
棚には乾いた薬草が束ねられ、瓶の中には琥珀色の液体が浮かぶ。香の原料として、樹脂、花弁、根草、あらゆる命のかけらが集められているが――一つだけ、決定的に足りないものがある。
若き男性の“しるし”。
体液。
それは、生の気のもっとも濃く、力を帯びたもの。命を揺り動かす香には、それが必要不可欠だった。
だが、カナンにとってはあまりに――重すぎる代物だった。
彼女は木の椅子に腰をかけたまま、手元の香材をぼんやりと見つめていた。
「……ずっと、夢の中のことのように思っていた」
ひとりごとのように呟く。
「本当に来てしまうなんて……王家の方が、こんな森の奥まで……」
夢見がちな乙女の想像ではなく、現実となった訪問。しかも、若く美しい王弟殿下が、自分に助けを求めに来たのだ。
そのことが、カナンを奇妙な恍惚と不安で満たしていた。
*
その夜。
外の焚き火が弱まり、カナンは手にした白布を何度も握りしめていた。
シリウスは離れの小部屋で休んでいる。
彼の剣と外套は脇に置かれ、寝台の上でゆったりと横たわっていた。だが、その気配は眠っておらず、静かな緊張が室内に張っている。
カナンは、その部屋の前で立ち止まっていた。
顔は紅潮し、唇を何度も噛みしめては解く。
(私が……直接、お願いしなくては……)
代用品はない。動物のそれでも、人のものであっても、年を取ったものでは香の力が鈍る。若く、まだ命のうねりが強い者――つまり、彼。
カナンはおずおずと、扉を叩いた。
「……王弟殿下……シリウス様……あの……よろしい、でしょうか……?」
中から応じる声は低く、穏やかだった。
「構わない。どうかしたのか?」
カナンは扉を開け、そっと部屋に入った。月光が差し込む中、寝台の傍に腰を下ろす。
「……お願いがあります。大変……申し上げにくいこと、なのですが……」
シリウスの表情がわずかに動いた。
「……あの香に必要なもの、だな?」
カナンは驚いて、思わず彼を見上げた。
「……気づいて、おられたのですか」
「君の顔色を見れば……誰でも察しがつく」
彼は少し苦笑したように言ったが、その目は真剣だった。
「俺は構わない。だが……本当に、君がそれを望むのか?」
その言葉に、カナンの胸がぎゅっと締めつけられた。
(私が望む……?)
思い返す。彼女はずっと森に一人きりで、外の世界とは隔絶されて育った。男という存在を間近に見たのも、シリウスが初めてだった。
それは恐れであり、興味でもあり、なにより――初めて触れる、生きた異性というものだった。
「……お願い、します……。どうか……材料を、わたしに……」
震える声でそう言うと、シリウスは息を整えながらも、彼女の目を見据えた。
「俺は君を傷つけたくない。だが……君の言葉を信じる」
カナンは小さくうなずいた。
手にした白布を膝に置くと、彼の前に座り直した。二人の間には、ほんの少しの距離。
「……それは……手で……?」
彼女は問いかけたが、その頬は真っ赤に染まっていた。処女である彼女には、それが最も“穏やか”な方法と思えた。
「それが……最も穢れが少なく……香の力が、濁りません」
シリウスは無言で頷く。だがその瞳には、どこか気遣いと迷いが揺れていた。
「カナン。君が、本当に嫌なら……やめていい」
「いいえ……これは、私の仕事です。祖母が教えてくれた、たった一度の秘技。失われてしまっては……もう二度と、誰の子も授けられなくなる」
そう言うと、カナンはゆっくりと、震える指先をシリウスの腰元に伸ばす。
その手が触れる寸前――
彼女は、手を止めた。
「……やっぱり、少しこわい、です」
その小さな声に、シリウスはふと笑った。
「正直でいい。……でも、それなら、俺が少しだけ……君の手を取ろう」
彼は優しく、カナンの手を包んだ。
熱い。生きた体の、熱と脈が手のひらを通じて伝わってくる。
カナンは目を閉じ、頬を染めたまま、小さく息をのんだ。
こうして、二人は初めて――命のしるしを、生み出すための“儀”に向き合った。
香は、まだ焚かれていない。
だがその夜、廬の奥では、言葉にならない沈黙の時間が流れていた。
棚には乾いた薬草が束ねられ、瓶の中には琥珀色の液体が浮かぶ。香の原料として、樹脂、花弁、根草、あらゆる命のかけらが集められているが――一つだけ、決定的に足りないものがある。
若き男性の“しるし”。
体液。
それは、生の気のもっとも濃く、力を帯びたもの。命を揺り動かす香には、それが必要不可欠だった。
だが、カナンにとってはあまりに――重すぎる代物だった。
彼女は木の椅子に腰をかけたまま、手元の香材をぼんやりと見つめていた。
「……ずっと、夢の中のことのように思っていた」
ひとりごとのように呟く。
「本当に来てしまうなんて……王家の方が、こんな森の奥まで……」
夢見がちな乙女の想像ではなく、現実となった訪問。しかも、若く美しい王弟殿下が、自分に助けを求めに来たのだ。
そのことが、カナンを奇妙な恍惚と不安で満たしていた。
*
その夜。
外の焚き火が弱まり、カナンは手にした白布を何度も握りしめていた。
シリウスは離れの小部屋で休んでいる。
彼の剣と外套は脇に置かれ、寝台の上でゆったりと横たわっていた。だが、その気配は眠っておらず、静かな緊張が室内に張っている。
カナンは、その部屋の前で立ち止まっていた。
顔は紅潮し、唇を何度も噛みしめては解く。
(私が……直接、お願いしなくては……)
代用品はない。動物のそれでも、人のものであっても、年を取ったものでは香の力が鈍る。若く、まだ命のうねりが強い者――つまり、彼。
カナンはおずおずと、扉を叩いた。
「……王弟殿下……シリウス様……あの……よろしい、でしょうか……?」
中から応じる声は低く、穏やかだった。
「構わない。どうかしたのか?」
カナンは扉を開け、そっと部屋に入った。月光が差し込む中、寝台の傍に腰を下ろす。
「……お願いがあります。大変……申し上げにくいこと、なのですが……」
シリウスの表情がわずかに動いた。
「……あの香に必要なもの、だな?」
カナンは驚いて、思わず彼を見上げた。
「……気づいて、おられたのですか」
「君の顔色を見れば……誰でも察しがつく」
彼は少し苦笑したように言ったが、その目は真剣だった。
「俺は構わない。だが……本当に、君がそれを望むのか?」
その言葉に、カナンの胸がぎゅっと締めつけられた。
(私が望む……?)
思い返す。彼女はずっと森に一人きりで、外の世界とは隔絶されて育った。男という存在を間近に見たのも、シリウスが初めてだった。
それは恐れであり、興味でもあり、なにより――初めて触れる、生きた異性というものだった。
「……お願い、します……。どうか……材料を、わたしに……」
震える声でそう言うと、シリウスは息を整えながらも、彼女の目を見据えた。
「俺は君を傷つけたくない。だが……君の言葉を信じる」
カナンは小さくうなずいた。
手にした白布を膝に置くと、彼の前に座り直した。二人の間には、ほんの少しの距離。
「……それは……手で……?」
彼女は問いかけたが、その頬は真っ赤に染まっていた。処女である彼女には、それが最も“穏やか”な方法と思えた。
「それが……最も穢れが少なく……香の力が、濁りません」
シリウスは無言で頷く。だがその瞳には、どこか気遣いと迷いが揺れていた。
「カナン。君が、本当に嫌なら……やめていい」
「いいえ……これは、私の仕事です。祖母が教えてくれた、たった一度の秘技。失われてしまっては……もう二度と、誰の子も授けられなくなる」
そう言うと、カナンはゆっくりと、震える指先をシリウスの腰元に伸ばす。
その手が触れる寸前――
彼女は、手を止めた。
「……やっぱり、少しこわい、です」
その小さな声に、シリウスはふと笑った。
「正直でいい。……でも、それなら、俺が少しだけ……君の手を取ろう」
彼は優しく、カナンの手を包んだ。
熱い。生きた体の、熱と脈が手のひらを通じて伝わってくる。
カナンは目を閉じ、頬を染めたまま、小さく息をのんだ。
こうして、二人は初めて――命のしるしを、生み出すための“儀”に向き合った。
香は、まだ焚かれていない。
だがその夜、廬の奥では、言葉にならない沈黙の時間が流れていた。
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