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第四話「香に宿るもの」
しおりを挟む香炉の中で、白煙がゆらりと立ち昇る。
命のしるしを含んだ香は、まだ火を灯されてはいなかった。
静寂の中、カナンは調合を終えた両手をそっと洗い、清めの布で拭き取ると、ひと息をついた。
全身から、緊張と汗が抜けていくような疲労が押し寄せていた。
だが――その視線は、ひとつだけ気がかりなものに引き寄せられていた。
シリウス・イシュタル。
彼は、あの一瞬の放たれた熱のあと、自分の身体から力が抜けたように、やや膝を折っていた。
その顔は、初めて見せる狼狽と羞恥に染まっていた。
「あっ……すまない、少し……下がっていてくれないか」
シリウスは低く、抑えた声で言った。
普段の王弟殿下からは考えられないような、僅かに動揺を含んだ声音だった。
彼は慌てて、手近に置いていた布を引き寄せる。下腹部から滴り落ちるものを拭い、布で包み隠すようにしながら、何かから身を守るように身体を折り曲げていた。
その動きは、これまでの彼からは想像もつかぬものだった。
――王族らしい気高さも威厳も、今この瞬間だけは、彼の中で崩れていた。
「……こんな、姿を見せるつもりじゃなかったんだ」
声がかすれる。
カナンは言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
魔術師としては冷静を保っているつもりだったが、視界の端で見た“彼の絶頂”の様子が、なおも胸の奥に残って離れない。
(あれが、男性の……放たれる瞬間……)
火照ったように頬が熱くなる。
カナンは慌てて顔を背けた。彼のためではなく、自分自身の動揺を隠すために。
「……申し訳ありません、私の……拙さで……」
シリウスはかぶりを振る。
下着を穿き直しながらも、その手はわずかに震えていた。
「君のせいじゃない。……俺の方こそ……初めてだったんだ、こういう形で他人に触れられて、こんなふうに……」
それは、素直な告白だった。
彼は、今まで決して人前で乱れた姿を見せたことがない。
王宮で育ち、秩序と威厳を身に刻みつけてきた男。その彼が、年若い魔女の手で、自らの“本能”を引きずり出され、晒してしまったのだ。
それが、彼の理性を揺るがしていた。
「……君の手が、あまりに真っ直ぐだったから……余計に、どうすればいいのか……分からなかった」
その言葉に、カナンは再び顔を向ける。
彼はようやく下着を整え、外套を羽織りながらも、まだどこか所在なげだった。
その姿が、カナンにはまるで少年のように見えた。
凛々しい王弟ではない。ひとりの、年若い“男”としての姿。
「……私も、初めてで……」
彼女がそう言うと、シリウスの視線が静かにこちらに向いた。
「……怖かった。でも……命の香を作るためには、どうしても必要で……それに……」
言いかけて、カナンは口を閉じた。
彼に“触れた”あの瞬間の感触が、掌にまだ残っている気がした。
それを思い出すだけで、下腹に得体の知れぬ熱が広がっていく。
「……それに?」
彼が柔らかく問う。カナンは、ほんの少しだけ、目を伏せてから答えた。
「……殿下が……受け入れてくださったことが、嬉しかったんです」
その一言に、シリウスの喉が静かに鳴った。
部屋の空気が、先ほどまでとまるで違って感じられる。
お互いの裸を見たわけではない。
だが、最も“本能”に近いところで触れ合い、受け入れ合った。
だからこそ、服を着て向かい合っていても、肌が焼けるように意識してしまう。
「……じゃあ、準備が整ったら……香を焚くか?」
彼が話題を戻した。
香――その本来の目的は、兄王夫妻の子を授けるための“力”。
だが、カナンは心の奥で思っていた。
この香を最初に浴びるのは、兄夫婦ではない。
それを生んだ、このふたり。
魔女と王弟こそが、“命の香”の力を最初に受け止める者になるのだと。
「……はい。では、香炉に……火を」
震える指先で、カナンは導火線に火をつける。
香の煙が、白くゆらゆらと揺れ、部屋中に漂い始めた。
その香は、甘く、蕩けるような花の香と、かすかに湿った、肉の気配を含んでいた。
男と女が交わる前に、ほんの少しだけ心を融かす――そんな、淫らでいて優しい香。
そして、ふたりは同時に気づいた。
この香がただの“授かり香”ではないことに。
それは、欲望を呼び起こし、心を溶かし、ふたりの距離を“自然”に近づける――媚薬の香だった。
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