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第五話「香に酔う」
しおりを挟む香炉の中で火が静かに燃えていた。
白い香煙は花弁のように漂い、廬の天井に薄く広がる。それは、普通の香と何ら変わりないように見えた。だが、香りが鼻腔に届いた瞬間――ふたりは、言葉を失った。
「……甘い……けれど、どこか……熱い香り……」
カナンが呟く。
それは確かに、彼女が調合した香である。だが、そこに込められた“命の滴”が、香の性質をいっそう濃厚なものに変えていた。
まるで、夜花が熱に悶えるような――肌の奥を撫でるような感触。
「……ッ、く……っ……!」
先に変化が現れたのは、シリウスだった。
寝台の端に腰を下ろしていた彼が、突如として息を詰める。指先がわずかに震え、首筋に汗が浮かぶ。
「殿下……?」
「……大丈夫、だ……少し、熱いだけ……」
そう言いながら、彼の喉がごくりと鳴る。
その顔は徐々に火照り、瞳はかすかに潤みはじめていた。
(これは――理性を削る“香”)
媚薬。
香を焚きしめ、穏やかに、だが確実に精神を侵していくこの香の力は、想像以上だった。
「……っ、……く……カナン……」
シリウスは呼吸を荒げながら、思わず彼女の名を呼んだ。
目を閉じていても、香の甘い気が鼻腔から脳へ、脳から下腹へと落ちてくる。
衣の内側で、身体が疼く。
彼女の手で得た記憶が甦る。触れられた感触。滴る熱。
あの時は耐えられた。だが、今は――
「くっ……なぜ、こんなにも……」
片膝をつき、苦しげに額を押さえる。
香は、彼の若き体を容赦なく苛んでいた。
(熱い。息が、うまくできない。触れてほしい――いや、触れたい)
シリウスは思わず、カナンの袖を掴んだ。
驚いたカナンは、その目を彼に向ける。
そこにいたのは、いつもの理知的な王弟ではなかった。
顔は上気し、口元は緩み、額には汗。瞳は微かに焦点を失い、必死に彼女を見ている。
「……カナン……どうか……」
懇願するような声だった。
「君が、そばにいないと……おかしく、なりそうで……」
思わずカナンは息をのんだ。
(これは……香の効果だけ? それとも、この人の本心……?)
彼女自身にも、香の作用はわずかにあった。
胸元が熱い。下腹がじんわりと疼く。
だが、魔女として薬に接してきた分、ある程度の耐性があり、冷静な判断を保っていた。
けれど、シリウスの姿――必死に耐え、だが抗い切れず、もがきながら求める“男”の姿を前にすると、理性がざわついた。
彼の指が、震える手で自分の袖を掴み、熱を帯びた眼差しでこちらを見つめている。
彼女にしかできない。彼女でなければ、彼の理性は保てない。
「殿下……私が、そばにいます」
カナンはゆっくりと、彼の傍に膝をついた。
「……大丈夫です。私は、ここにいます。ですから……」
彼の額にそっと手を添える。
肌に触れた瞬間、驚くほどの熱が伝わってきた。
これは、単なる体温ではない。香に煽られた“情”そのもの。
シリウスは、苦しげに目を閉じた。
「……俺は……だめだ……このままじゃ……君を……」
彼女に触れたくてたまらない。抱きしめて、熱を分け合いたい。
だが、それが王弟としての理性に反すると、どこかで分かっている。
だからこそ、もがく。
だがその姿は、すでに――王族の威厳ではなく、“ひとりの若い男”の葛藤だった。
「カナン……君が欲しい……いや、ちがう……俺は……っ」
言葉がもつれる。
香の効果で身体が勝手に疼き、視線が彼女の唇や首筋に吸い寄せられてしまう。
(いけない……殿下は今、苦しんでいる)
カナンは、自らの鼓動が早くなっているのを感じながらも、彼を静かに抱き留めるように、胸元へと招いた。
「大丈夫です。私は、魔女です。香の導きも、あなたの苦しみも、すべて……受け止める役目です」
そう言って彼の頭を抱いたとき、シリウスの身体がわずかに震えた。
「……カナン……」
彼の声は震え、荒く、微かに甘く。
それはもう、王族のものではなかった。
彼女の胸元に顔を埋め、荒い息を吐きながら、カナンの身体を抱きしめる。
震える手が背をなぞり、唇が、布越しに彼女の鎖骨を探る。
それでもカナンは、彼を拒まなかった。
香が、二人を支配している。
そして、カナンもまた――その香に、深く、ゆっくりと酔わされ始めていた。
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