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第八話「禁忌の果てに」
しおりを挟むまだ夜明けきらぬ薄闇の中、香炉の火はすっかり消えていた。
部屋に残っているのは、ほのかな甘い残り香と、重なったふたりの体温。
カナンは静かに目を開けた。
隣にいるはずのぬくもりを確かめるように、そっと寝返りを打つ。
そこにいたのは、王弟シリウス――だが、彼はもう眠ってはいなかった。
寝台に腰を下ろし、上半身を起こして静かに外を眺めている。
背中が見える。
夜のあいだに脱がされた衣は、無造作に畳まれて傍らに置かれていた。
その背はまだ若く、けれどしなやかで、鍛えられた痕が随所にあった。
「……起きていたんですね」
声に、彼がこちらを振り返る。
その顔には、昨夜の熱とはまた違った、澄んだ静けさが宿っていた。
「……悪い。君を起こすつもりはなかった」
「いえ。……少し、夢を見ていた気がします」
カナンは布を胸元まで引き寄せながら、そっと身を起こす。
体の奥には、昨夜の“結び”の余韻が微かに残っていた。
疼きではない。
ただ、確かに誰かとひとつになったという“存在の記憶”だった。
「……あの香は、恐ろしい力を持っていますね」
そう言うと、シリウスは微かに笑った。
「君がいなければ、俺はきっと……香に溺れて、理性を失っていただろうな」
「……実際、少し失ってましたよ?」
冗談のように言うと、彼は苦笑した。
けれど、それは恥じる笑みではなかった。
むしろ、どこか愛しげに、彼女の存在を確かめるような目をしていた。
「……俺は、王弟だ。いずれ政略のために、誰かを娶ることになるかもしれない。……それでも、昨夜のことは……後悔していない」
カナンの心が、小さく揺れる。
「……それは、香のせいじゃなく?」
問いに、シリウスはまっすぐ彼女を見た。
「香がきっかけでも、俺が望んだことには変わらない。……君だから、触れたいと思った。君だから、心を許した。香のせいだなんて、言い訳にしたくない」
その言葉に、カナンは思わず視線を伏せた。
胸の奥に、ひとつだけ小さな痛みがある。
自分は“魔女”だ。
誰の隣にも立てぬと、教えられて育った。
王族とは決して交われぬ、異なる血の末裔――
(それでも、今だけは)
「……じゃあ、今だけは……その言葉に、甘えてもいいですか?」
シリウスは驚いたように目を見開いたあと、すぐに柔らかく笑んだ。
「今だけじゃない。……君が望む限り、俺は“君の側”にいる」
彼の手が、カナンの手に重なる。
優しく、熱を伝えるように包み込んだ。
それは、誓いの代わり。
契約でも義務でもない、ただふたりの間にしかない“確かな思い”。
「カナン」
「……はい」
「この香を……王兄に届けよう。目的を果たさなければ、俺たちは……この夜を正当化できない」
カナンは頷く。
“媚香”としての効果はすでに確かめられた。
あとは、兄王夫妻のもとで真価を発揮できるかどうか――
「王妃リアナ様は、繊細な方です。香に頼るのではなく、さりげなく……」
「分かっている。……だがそれ以上に」
言いかけて、彼は言葉を飲んだ。
そして、静かに続ける。
「俺たちも……次は香なしで、同じ場所に辿り着けるように、なりたい」
その言葉に、カナンは微笑んだ。
“香”に酔った夜を、忘れない。
だが、次こそは――香などなくとも、求め合えるように。
夜は、確かに終わりを迎えようとしていた。
だがふたりの間に芽生えた感情は、
静かに、そして確かに、未来へと続いていた。
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