暁の秘薬と森の乙女

もちもち

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第九話「王弟と魔女、王城へ」

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 王城は、何も変わっていなかった。

 白い石造りの回廊、整えられた庭園、静かに微笑む侍女たちの姿。
 だが、数日の間に森の廬で過ごしたシリウスとカナンにとって、それは少しだけ異質に映った。

 冷たく、どこか無機質で――“香”の香気に満ちていたあの夜とは対極の、理性の世界。

 「……ご足労を感謝する。カナン殿」

 謁見の間で彼女を迎えたのは、若き王、レナード・イシュタル。

 玉座に座すその姿は威厳に満ち、正しき統治者の面影を宿していた。
 だが、真に彼女の目を引いたのは、その隣に静かに座る王妃――リアナの姿だった。

 彼女は美しい女性だった。
 豊かな栗毛を結い上げ、王妃としての品格に満ちた姿。
 けれど、瞳の奥に浮かぶ影だけは、カナンにははっきりと見えた。

 (……この人は……孤独だ)

 リアナは微笑んでいた。
 けれどその微笑みは、何かを隠すように整えられたものだった。

 「……魔女として、力を貸していただけるのですね?」

 静かに問う王妃に、カナンはうなずいた。

 「はい。王妃陛下が子を授かるよう、香を調合してまいりました。……ですが、これはあくまで、“夫婦の心が通い合っていること”が前提となります」

 その言葉に、リアナの瞳がわずかに揺れたのを、カナンは見逃さなかった。

 (やはり……)

 彼女は“理由”を知っている。
 王妃が子を授からないのは、単なる身体の問題ではない。
 そしてレナード王も、どこかそれを理解しているような眼差しだった。

 「……王弟よ。この件、おまえが責任を持って監修せよ」

 兄王の声に、シリウスは恭しくうなずいた。

 「は。香の焚き方や使用の時機、すべてカナンと共に調整いたします」

 「頼む。……この国に、未来を託すためにな」

 その言葉に、リアナはわずかに視線を落とした。

 (……託す未来、か)

 カナンは胸の奥に、薄く張り詰めた不安を感じていた。



 王城の一角、かつてシリウスが使っていた客間に、ふたりは通された。

 「……ずいぶん、広い部屋ね」

 カナンが小さく呟くと、シリウスがわずかに笑った。

 「王族の“孤独部屋”だよ。立場はあるが、用も少ない者に割り当てられる」

 「それを自嘲するの?」

 「していない。……ただ、皮肉なことに、今はこの部屋が落ち着く」

 彼はそう言って窓辺に立つ。

 廬で過ごした夜を経て、カナンは彼の表情の陰影を少しだけ読めるようになっていた。

 その目は静かだが、深く、強い。
 王宮の空気に押し潰されそうになっても、彼は自分の意思を忘れていなかった。

 「シリウス様……リアナ様は、何かを……」

 「そうだな。兄上とは……夫婦として、少し“すれ違っている”」

 それだけ言って、彼は言葉を切った。

 「……だからこそ、俺たちの作った香が、ふたりの“橋”になってくれればと思っている」

 その“ふたり”に、自分とカナンも含まれているのか――それは分からない。

 けれど、彼の瞳に浮かぶ光が、その言葉の重みを語っていた。



 その夜、香炉は王妃の私室へと運ばれた。
 シリウスとカナンは、リアナに香の説明をするため、直接その場へ出向くことになった。

 香を受け取ったリアナは、ふたりに礼を述べると、そっとシリウスに目を向けた。

 「……あなたは、変わられましたね」

 その言葉に、カナンの胸が小さく鳴る。

 「そう、見えますか」

 シリウスは淡く笑ってみせた。

 リアナは頷き、そして――カナンの方へと視線を移す。

 その目は、静かに、しかし確かに何かを問うていた。

 「あなたが、変えたのでしょう」

 カナンは答えなかった。

 だが、何も言わなくても伝わることがある。
 香を通して、肌を通して、心に触れた夜――それが偽りでない限り、もう何も恐れることはない。

 リアナは、小さく香炉を抱きしめた。

 「……この香が、命を繋ぐものであるように、祈ります」

 カナンは静かに頭を下げた。

 その夜、王宮に初めて“香”の甘い気が満ちた。

 だがその煙の先にある未来が、祝福か、波乱か――
 まだ、誰にも分かっていなかった。
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