暁の秘薬と森の乙女

もちもち

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第十話「王妃リアナの秘めた想い」

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 香が、満ちていた。

 王の寝室に焚かれた香炉から、ゆっくりと立ち昇る淡い紫煙。
 それは濃すぎず、けれど確かに肌の奥へ染み込むように甘かった。

 リアナは、静かに目を伏せていた。

 王――レナード・イシュタルは、今まさに彼女の肩に手を置いている。
 それはいつもよりも、やや熱を帯びた触れ方だった。

 「……この香、どこか懐かしい」

 そう言った彼の声は、穏やかで、けれどどこか遠い。
 王としての威厳を崩さないまま、彼女の背に手を添える。

 (優しいのに、どうして……)

 リアナは、心の奥でそっと呟いた。

 どうして、こんなに“孤独”なのかと。

 王妃として嫁いで三年。
 まだ十九の年齢で、政略結婚の意味すら十分に理解せぬまま、王宮に入った。

 夫となったレナードは、若く有能な王だった。
 誰よりも冷静で、誰よりも優しく、誰よりも……遠い男だった。

 愛されたかった。
 けれど、彼の目には常に国があり、民があり、弟があり――
 リアナ自身を、ただ“妻”としてしか見ていないような、そんな感覚がいつもあった。

 「……身体を、お崩しにならないでくださいませ」

 リアナはそっと言った。
 香に火が入った夜、王妃はふだんよりわずかに唇に紅をさした。
 髪も丁寧に解き、夜会用の香油をほんの少し、襟元へ垂らした。

 媚香に酔ったように見せぬため。
 王に「自然」に感じてもらうため。
 そういう、小さな策略の数々。

 (この香で、子を……)

 そう命じられた時、胸が軋んだ。

 ――“子を宿すこと”が、愛の証ではなく、義務になる瞬間。

 けれどそれでも。
 リアナは香を受け入れた。

 彼女の中で、子を授かることは、王にとって必要な“安堵”になると知っていたから。

 夜は、ゆっくりと更けていく。

 やがて王の手が、そっと彼女の指を取る。

 「……リアナ。冷たい手だな」

 「ええ……少し、緊張してしまって」

 小さな微笑みとともに、王の目を見る。

 その瞳の奥に、ようやく自分だけを見ているような熱が灯っていた。

 (……シリウス様と、あの魔女の香……)

 どこか懐かしく、そして心の奥を優しくなぞるような香気。
 それが、彼の心にも染み込んでいたのだろうか。

 指先が、ゆっくりと交わる。

 香が、ふたりの間の見えない壁をゆるやかに溶かしていく。

 「リアナ」

 彼女の名を、王が呼ぶ。
 夜に名前を呼ばれることなど、何度あっただろうか。
 その響きに、思わずまぶたが震える。

 「……はい」

 小さく答える。

 彼が肩を引き寄せる。
 頬に口づけが落ちる。
 指先が、帯に触れる。

 (この夜を、忘れてはいけない)

 そう、リアナは思った。

 これは“王の子”を宿すための夜。
 王妃としての使命であり、女としての最後の希望でもある。

 香の甘さが、肌に染み込む。

 着物が滑り落ち、王の手が胸元をなぞる。

 けれど、彼女は目を閉じながら――心の奥で、もうひとつの影を思い出していた。

 ***

 夜の帳が完全に下りた頃。
 リアナは、シリウスの名を思い浮かべていた。

 王弟シリウス・イシュタル。

 誰よりも真っすぐで、けれど心の奥に激しさを秘めた青年。
 数年前、ただ一度だけ――

 (あの夜のことを、私は……)

 彼に触れられたわけではない。
 けれど、視線が交わった。
 肌に指が触れた。
 そして彼は、すぐに身を引いた。

 その手が、熱かった。
 拒むでも、追うでもない。
 けれど、確かに“女として見られた”ことを、彼女は忘れられなかった。

 だからこそ、今日の再会で思った。

 (変わったのは、私ではない。彼の隣に、“選ばれた女”がいた)

 あの魔女。
 名は、カナン。

 王弟が初めて“誰かのために熱を孕んだ”瞳を見せた相手。

 胸の奥で、何かがきしむ音がした。

 子を宿しても、王の愛は、政治のもの。
 そして王弟のまなざしは、すでに別の誰かに向いている。

 リアナは、目を閉じた。

 香に包まれ、王に抱かれながら、
 彼女は心の奥で、誰にも知られてはならぬ感情を、そっと沈めていくのだった――。
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