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第十一話「胎動」
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その知らせは、早朝の侍女の口からもたらされた。
「……リアナ様が、……ご気分を悪くされて」
王弟シリウスは思わず顔を上げた。
それは、ほんの一夜の香を焚いた翌朝のことだった。
カナンはすでに薄く瞼を上げており、隣の彼を見つめていた。
彼女の瞳に、わずかに走る予感。
「……まさか、すぐに?」
シリウスは黙って立ち上がった。
王宮の医師が招かれ、王妃の私室には多くの侍女たちが慌ただしく出入りしていた。
だが彼女自身は、ゆったりと寝台に身を預け、どこか静かに遠くを見ていた。
カナンと共に、そっと室内に入ったシリウスは、王妃に視線を向ける。
その姿は、どこか安堵に満ちていた。
けれど、目の奥にある何か――それは決して晴れたものではない。
「……やはり、“兆し”が」
カナンの問いに、リアナはうなずいた。
「ええ。……王の子を、授かったようです」
その声には感情がなかった。
だが、それが“虚無”ではないことを、カナンは肌で感じ取っていた。
それは――覚悟。
「おめでとうございます、王妃陛下」
カナンがそう言うと、リアナは微笑んだ。
「ありがとう。……これで、私は王妃としての役目を果たせる」
だがその瞬間、扉の向こうで誰かの靴音が響いた。
入ってきたのは、宰相マルケス公。
年老いたその貴族は、かねてよりレナード王の側近として権勢をふるっていた人物だ。
香の件をめぐっても沈黙を貫いていたが――彼の目は、今、鋭く光っていた。
「……お見事です、王弟殿下。……そして、魔女殿」
低い声には、賞賛と同時に、確かな警戒が滲んでいた。
「まさか、あの一夜でこのような成果を上げるとは。……いや、やはり“媚香”というものは、ただの迷信ではなかったのですね」
「それが……本当に香の力によるものかどうかは、まだ断定はできません」
カナンが静かに応じた。
だがマルケスは首を振る。
「いや……国の未来を繋ぐ“力”があると証明された今、その存在は……王宮にとって、無視できぬ“神託”に等しい」
シリウスは小さく息を呑んだ。
(……香が、利用される)
それは、恐れていたことだった。
媚香は、心を近づける“補助”であって、媚び惑わせる呪術ではない。
けれど――それをどう解釈するかは、使う者次第。
「……陛下には、すでにお話を?」
シリウスが尋ねると、マルケスは無言でうなずいた。
「陛下は……この“香”を、宮廷内の一部に限定して活用したいとお考えのようだ。……御子を望む貴族家の間で、試験的に供されるかもしれぬ」
「まさか……薬として?」
カナンの言葉に、マルケスは笑みを浮かべた。
「民の数を増やすためだ。……魔女殿、そなたがそれに応じるならば、王室の庇護を約束する。……それも、厚く、手厚く、な」
ぞっとするような、微笑だった。
王弟の背で、静かにカナンの指が揺れた。
(これが……“王宮”)
媚香は奇跡ではない。
けれど、それを奇跡と見なす者たちが――すでに、動き始めている。
⸻
その夜、シリウスとカナンはふたりだけで庭園を歩いていた。
月は淡く、あの日の廬での夜よりも冷たい。
「……俺の選んだことが、間違っていたのかもしれない」
シリウスがぽつりと呟く。
「私が調香した香です。……私も同罪です」
そう返したカナンの声は、穏やかだった。
だが、心は静かに揺れていた。
媚香は、王妃を“救った”。
けれどその代償に、香が“道具”として扱われようとしている。
誰かを想うために作った香が、愛の代替品にされようとしている。
「……シリウス様。私、戻ろうと思います」
「戻る?」
「森へ。私の廬へ。……もう、宮廷の香は、私の手を離れたものです」
その言葉に、シリウスの表情が変わった。
「……ひとりで、背負うな」
「いえ……違います。あなたまで、香の責任を負う必要はないんです」
「違う。……俺が“求めた”香だ。君を、ここへ連れてきたのは、俺だ」
そう言って、彼はそっとカナンの手を取った。
「君が帰るなら、俺も行く」
「……それは、王弟としての責務を捨てるということです」
「責務なら、兄上に問う。媚香を、“誰のため”に使うのか。……“愛する者のため”に作られた香を、愛なき婚姻の道具にはさせない」
その目はまっすぐだった。
森で見た、炎のような光を宿す瞳。
カナンはその瞳を、ただ見つめ返すことしかできなかった。
「……リアナ様が、……ご気分を悪くされて」
王弟シリウスは思わず顔を上げた。
それは、ほんの一夜の香を焚いた翌朝のことだった。
カナンはすでに薄く瞼を上げており、隣の彼を見つめていた。
彼女の瞳に、わずかに走る予感。
「……まさか、すぐに?」
シリウスは黙って立ち上がった。
王宮の医師が招かれ、王妃の私室には多くの侍女たちが慌ただしく出入りしていた。
だが彼女自身は、ゆったりと寝台に身を預け、どこか静かに遠くを見ていた。
カナンと共に、そっと室内に入ったシリウスは、王妃に視線を向ける。
その姿は、どこか安堵に満ちていた。
けれど、目の奥にある何か――それは決して晴れたものではない。
「……やはり、“兆し”が」
カナンの問いに、リアナはうなずいた。
「ええ。……王の子を、授かったようです」
その声には感情がなかった。
だが、それが“虚無”ではないことを、カナンは肌で感じ取っていた。
それは――覚悟。
「おめでとうございます、王妃陛下」
カナンがそう言うと、リアナは微笑んだ。
「ありがとう。……これで、私は王妃としての役目を果たせる」
だがその瞬間、扉の向こうで誰かの靴音が響いた。
入ってきたのは、宰相マルケス公。
年老いたその貴族は、かねてよりレナード王の側近として権勢をふるっていた人物だ。
香の件をめぐっても沈黙を貫いていたが――彼の目は、今、鋭く光っていた。
「……お見事です、王弟殿下。……そして、魔女殿」
低い声には、賞賛と同時に、確かな警戒が滲んでいた。
「まさか、あの一夜でこのような成果を上げるとは。……いや、やはり“媚香”というものは、ただの迷信ではなかったのですね」
「それが……本当に香の力によるものかどうかは、まだ断定はできません」
カナンが静かに応じた。
だがマルケスは首を振る。
「いや……国の未来を繋ぐ“力”があると証明された今、その存在は……王宮にとって、無視できぬ“神託”に等しい」
シリウスは小さく息を呑んだ。
(……香が、利用される)
それは、恐れていたことだった。
媚香は、心を近づける“補助”であって、媚び惑わせる呪術ではない。
けれど――それをどう解釈するかは、使う者次第。
「……陛下には、すでにお話を?」
シリウスが尋ねると、マルケスは無言でうなずいた。
「陛下は……この“香”を、宮廷内の一部に限定して活用したいとお考えのようだ。……御子を望む貴族家の間で、試験的に供されるかもしれぬ」
「まさか……薬として?」
カナンの言葉に、マルケスは笑みを浮かべた。
「民の数を増やすためだ。……魔女殿、そなたがそれに応じるならば、王室の庇護を約束する。……それも、厚く、手厚く、な」
ぞっとするような、微笑だった。
王弟の背で、静かにカナンの指が揺れた。
(これが……“王宮”)
媚香は奇跡ではない。
けれど、それを奇跡と見なす者たちが――すでに、動き始めている。
⸻
その夜、シリウスとカナンはふたりだけで庭園を歩いていた。
月は淡く、あの日の廬での夜よりも冷たい。
「……俺の選んだことが、間違っていたのかもしれない」
シリウスがぽつりと呟く。
「私が調香した香です。……私も同罪です」
そう返したカナンの声は、穏やかだった。
だが、心は静かに揺れていた。
媚香は、王妃を“救った”。
けれどその代償に、香が“道具”として扱われようとしている。
誰かを想うために作った香が、愛の代替品にされようとしている。
「……シリウス様。私、戻ろうと思います」
「戻る?」
「森へ。私の廬へ。……もう、宮廷の香は、私の手を離れたものです」
その言葉に、シリウスの表情が変わった。
「……ひとりで、背負うな」
「いえ……違います。あなたまで、香の責任を負う必要はないんです」
「違う。……俺が“求めた”香だ。君を、ここへ連れてきたのは、俺だ」
そう言って、彼はそっとカナンの手を取った。
「君が帰るなら、俺も行く」
「……それは、王弟としての責務を捨てるということです」
「責務なら、兄上に問う。媚香を、“誰のため”に使うのか。……“愛する者のため”に作られた香を、愛なき婚姻の道具にはさせない」
その目はまっすぐだった。
森で見た、炎のような光を宿す瞳。
カナンはその瞳を、ただ見つめ返すことしかできなかった。
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