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第十二話「決別と誓約」
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王妃の懐妊は、王宮中に静かな衝撃をもたらした。
誰も表立って語らぬが、すべての者がその“香”の効果を噂し合った。
王弟シリウスのもとには、貴族からの書状が日に何通も届く。
曰く、「その香の再調合を」「民に開放を」「我が家の嫁に与えよ」――
だがシリウスは、その一通も返事をしなかった。
「……こんなはずじゃなかった」
庭園の奥、石造りの泉の縁で、シリウスは額に手を当てていた。
カナンは隣に座り、黙って空を見上げていた。
夏の兆しは濃く、風に香の残り香が揺れる。
「おそらく……王妃様が、あなたに会いに来ます」
その言葉に、シリウスは顔を上げた。
「……王妃がなぜ?」
「懐妊のきっかけを与えたあなたと……いま、一度だけ向き合わねば、きっと王妃様は、母になれません」
そう――カナンは分かっていた。
あの目の奥にある“未練”と“矛盾”を。
そしてその根底に横たわる、かつての“想い”を。
⸻
王妃リアナがシリウスを訪ねたのは、陽が落ちた直後のことだった。
淡い藤色の衣に身を包み、侍女を伴わずに、ひとりで。
誰もいない王弟の書斎。
蝋燭の灯りだけが、ふたりの間を照らしていた。
「……香を作らせたのは、あなたでしょう?」
リアナは、低く静かに言った。
「そうだ」
シリウスもまた、真正面から答える。
「……でもそれは、兄上と貴女のためだった」
「本当に?」
問い返され、シリウスは目を細めた。
「……何が言いたい」
リアナは小さく笑った。
「王宮に来たばかりの私を、寒い回廊で見つめたあなたの目は、たしかに“女”を見ていた。……覚えているかしら」
沈黙が落ちる。
やがて、シリウスは吐息を落とした。
「……忘れてなど、いない」
それは、初めての――そして最後の告白だった。
「でも、あの時点で分かっていた。君は“兄のもの”になると」
「私も分かっていたわ。だから、何も求めなかった。……でも、だからこそ、あなたが“香”を運んできた時、少しだけ――夢を見たの」
その“夢”とは――
たった一晩でも、自分という存在を「誰かの記憶」に残したいという、ささやかな願い。
「……リアナ。君は、間違っていない」
「分かっているわ。私は、王妃であり、これから母になる。あなたと交わる資格も、立場も、もうない」
だから――これが最後。
「ただ、ひとつだけ。私の“わがまま”を許してちょうだい」
リアナはそっと手を伸ばし、シリウスの手に触れた。
指先だけが、わずかに重なる。
「……あなたの熱を、ひとときだけ、思い出として残しておきたいの」
それは、肉体ではない。
唇も、肌も交わらぬ。
ただ――あの夜、自分を“誰かとして見た目”を、胸に刻みたい。
シリウスは目を閉じた。
そして、彼女の手を、包むように握った。
「……なら、俺も忘れない」
「ふふ、どうせ……すぐに忘れるわ。あなたの隣には、魔女がいる」
「――だが、俺が“君をひとりの女性として見た”あの記憶は、俺の中の真実だ」
それだけは、誰に奪われるものでもない。
言葉では、叶わぬものだった。
けれど、目をそらさず交わされた“本心”は、偽りではなかった。
リアナは微笑み、手を解いた。
「ありがとう。……これで、私は“母”になれる」
王妃としてではない。
誰かに“選ばれなかった女”としての痛みを超えて、次へ進む。
ふたりの影が重なり、また静かに離れていく。
⸻
その夜、シリウスは廊下でカナンと出会った。
「会ってきたのですね」
彼はうなずいた。
「……これで、本当に終わった」
「……いい“終わり方”でしたか?」
シリウスは少しだけ笑った。
「いい“始まり方”だった」
ふたりは無言で歩く。
香に導かれた者たちは、それぞれの愛と記憶を胸に――
ようやく、自分の意思で、前へと歩き始めていた。
誰も表立って語らぬが、すべての者がその“香”の効果を噂し合った。
王弟シリウスのもとには、貴族からの書状が日に何通も届く。
曰く、「その香の再調合を」「民に開放を」「我が家の嫁に与えよ」――
だがシリウスは、その一通も返事をしなかった。
「……こんなはずじゃなかった」
庭園の奥、石造りの泉の縁で、シリウスは額に手を当てていた。
カナンは隣に座り、黙って空を見上げていた。
夏の兆しは濃く、風に香の残り香が揺れる。
「おそらく……王妃様が、あなたに会いに来ます」
その言葉に、シリウスは顔を上げた。
「……王妃がなぜ?」
「懐妊のきっかけを与えたあなたと……いま、一度だけ向き合わねば、きっと王妃様は、母になれません」
そう――カナンは分かっていた。
あの目の奥にある“未練”と“矛盾”を。
そしてその根底に横たわる、かつての“想い”を。
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王妃リアナがシリウスを訪ねたのは、陽が落ちた直後のことだった。
淡い藤色の衣に身を包み、侍女を伴わずに、ひとりで。
誰もいない王弟の書斎。
蝋燭の灯りだけが、ふたりの間を照らしていた。
「……香を作らせたのは、あなたでしょう?」
リアナは、低く静かに言った。
「そうだ」
シリウスもまた、真正面から答える。
「……でもそれは、兄上と貴女のためだった」
「本当に?」
問い返され、シリウスは目を細めた。
「……何が言いたい」
リアナは小さく笑った。
「王宮に来たばかりの私を、寒い回廊で見つめたあなたの目は、たしかに“女”を見ていた。……覚えているかしら」
沈黙が落ちる。
やがて、シリウスは吐息を落とした。
「……忘れてなど、いない」
それは、初めての――そして最後の告白だった。
「でも、あの時点で分かっていた。君は“兄のもの”になると」
「私も分かっていたわ。だから、何も求めなかった。……でも、だからこそ、あなたが“香”を運んできた時、少しだけ――夢を見たの」
その“夢”とは――
たった一晩でも、自分という存在を「誰かの記憶」に残したいという、ささやかな願い。
「……リアナ。君は、間違っていない」
「分かっているわ。私は、王妃であり、これから母になる。あなたと交わる資格も、立場も、もうない」
だから――これが最後。
「ただ、ひとつだけ。私の“わがまま”を許してちょうだい」
リアナはそっと手を伸ばし、シリウスの手に触れた。
指先だけが、わずかに重なる。
「……あなたの熱を、ひとときだけ、思い出として残しておきたいの」
それは、肉体ではない。
唇も、肌も交わらぬ。
ただ――あの夜、自分を“誰かとして見た目”を、胸に刻みたい。
シリウスは目を閉じた。
そして、彼女の手を、包むように握った。
「……なら、俺も忘れない」
「ふふ、どうせ……すぐに忘れるわ。あなたの隣には、魔女がいる」
「――だが、俺が“君をひとりの女性として見た”あの記憶は、俺の中の真実だ」
それだけは、誰に奪われるものでもない。
言葉では、叶わぬものだった。
けれど、目をそらさず交わされた“本心”は、偽りではなかった。
リアナは微笑み、手を解いた。
「ありがとう。……これで、私は“母”になれる」
王妃としてではない。
誰かに“選ばれなかった女”としての痛みを超えて、次へ進む。
ふたりの影が重なり、また静かに離れていく。
⸻
その夜、シリウスは廊下でカナンと出会った。
「会ってきたのですね」
彼はうなずいた。
「……これで、本当に終わった」
「……いい“終わり方”でしたか?」
シリウスは少しだけ笑った。
「いい“始まり方”だった」
ふたりは無言で歩く。
香に導かれた者たちは、それぞれの愛と記憶を胸に――
ようやく、自分の意思で、前へと歩き始めていた。
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