暁の秘薬と森の乙女

もちもち

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第十三話「新たな香を」

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 森の奥深く。
 再び戻った廬(いおり)で、カナンは静かに香草を撫でていた。

 手元には、蒸した香木と、初夏にしか採れぬ白銀花(びゃくぎんか)の根。
 どちらも、刺激ではなく鎮めの作用をもたらす――「心に触れる香」を調合するための材料。

 「媚香の力は、“熱”じゃなく、“想い”を導くものだと思っていたのに」

 カナンは独りごちる。
 あの夜、王妃が子を宿したという報は、彼女の胸を喜びではなく、複雑な痛みで満たした。

 媚香は“恋”のために在るはずだった。
 欲のためではなく、名誉や血の継承のためでもない。

 「……香に頼るのではなく、香が背中を押すだけでいい。そんな“寄り添う香”を作りたいの」

 彼女は、火を灯す。

 小さな香炉に、ふわりと白煙が立ちのぼる。

 そこに足音が近づいてきた。

 「――嗅ぎ慣れない香りだな」

 声の主は、王弟シリウスだった。

 「……できたの。まだ試作だけれど」

 カナンは目を伏せながら香炉を差し出す。
 香は熱を帯びていない。
 それなのに、胸の奥がじんわりと緩むような、優しい甘さ。

 シリウスは、静かに目を閉じて香を吸い込んだ。

 「……落ち着く。火照るんじゃなくて……心が、ほどける」

 「そう。これは、媚香じゃない。“和香(わこう)”と呼ぶの」

 “和す”――心を合わせる香。

 カナンは続けた。

 「それでも、効果があると思うの。……愛し合いたいと思うふたりの間なら、媚びずとも、熱に呑まれずとも、きっと届くはず」

 シリウスは目を開けた。

 その瞳の奥に、かつての“熱”はなかった。
 代わりに宿っていたのは――尊さ。

 「君は、やはり“導く者”だな」

 「……私はただ、自分の想いを込めて香を調えただけ。シリウス様が……私を守ってくれたから、逃げずに向き合えたの」

 ふたりの視線が交差する。

 それは、熱でも焦がれるような欲でもない。
 ただ、ひとつの魂が、もうひとつに手を差し伸べるような静けさ。

 けれど。

 「……試してみるか」

 不意に、シリウスが言った。

 「“和香”が、ふたりの間にどれだけ作用するか」

 「え?」

 「――俺は、君と……触れ合いたい。熱ではなく、想いのままに」

 カナンは言葉を失った。

 それは、告白ではない。
 でも、どこまでも誠実な“提案”だった。

 香に頼らず、心で寄り添いたいと――そう、申し出られたのは初めてだった。

 「……私で、いいの?」

 「君だから、だ。媚香の夜、君が俺の身体に触れたとき……俺は、香以上に、君に動かされていた」

 カナンの指が震えた。

 彼女は、ふっと頷いた。

 「……じゃあ、この香の中で。私たちで、確かめてみましょう」



 小さな寝室。
 窓の外には、蛍がひとつ、ふたつ。

 布団の上、ふたりは衣を脱ぎ合い、慎重に重なっていった。

 何の薬効もない。
 ただ、心が香に包まれているだけ。

 だからこそ、カナンは初めて、彼の身体を“自分の意思”で撫でることができた。

 指が、胸を。
 頬が、肩を。
 唇が、鎖骨を。

 彼の吐息は、静かに喉奥から漏れる。

 「……ああ……カナン……」

 それは媚香のせいではない。

 彼女の名を、真に欲した心から呼んだ声音だった。

 カナンは、彼の指が自分の背に回るのを感じた。
 彼女の肌を、恐るように、けれど確かに求めてくる。

 やがて、彼女は彼の胸に額を預けた。

 「……私、怖かったの。媚香があれば、あなたは私を求めてくれるって。……でも、本当は、何もなくなったときに……それでも見つめ合えるかが、ずっと不安で」

 シリウスは、そっと頷く。

 「俺もだ。……あの夜の熱が、本当のものだったか、香の幻だったか。ずっと確かめたかった」

 ふたりの肌が、静かに重なる。

 彼が、彼女の腰を引き寄せる。
 けれどそこには、荒々しい“征服”の気配はなく――ただ、寄り添う“確かさ”だけがあった。

 彼女の心が、そっと開いた。
 媚香では開かなかった場所が、ゆっくりと自らの意志で開かれていく。

 シリウスは、その奥へと導かれていく。

 香も薬もいらない。
 “今”だけが、ふたりの真実だった。
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