暁の秘薬と森の乙女

もちもち

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第十四話「そして願い香へ」

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 風のない夜だった。
 廬の香棚には、慎重に調合された“和香”が並べられ、カナンはひとつひとつ、蓋を外しては香の変化を確認していた。

 「どれも……静かな香り」

 香草の主張を抑え、芯に残るのは“気配”だけ。
 媚香のような甘く艶めく誘惑はない。けれど――

 「……これなら、“自分の声”が聞こえる」

 カナンがふと振り返ると、背後には静かに座っていたシリウスがいた。

 「今夜も、香を焚くか?」

 「……あなたは、欲しい?」

 カナンがそっと問い返すと、シリウスは小さく頷いた。

 「君の香は、俺に“誰かと向き合う覚悟”をくれる。媚びたくも、逃げたくもない。ただ……君の中に、ちゃんと入っていきたいと思える」

 その言葉に、カナンの胸が少し熱を持った。

 彼の声が欲しい。
 耳ではなく、肌でもなく――心で触れられたい。

 そんな思いが、香に重なる夜が続く。



 そんなある日。

 廬の前に、馬車が止まった。

 森を踏み分け、そこに現れたのは――**レオン公爵家の姫、ティナ・レオン(21)**だった。

 長く黒髪をたばね、翠玉の瞳を伏せた姫は、控えめに名乗った。

 「……魔女カナン殿。わたくし、貴女の“香”を求めて参りました」

 その言葉に、カナンは首を傾げた。

 「媚香なら、もう――」

 「違うのです。媚びるための香ではなく、“確かめる香”が欲しいのです」

 ティナ姫の表情は、決して揺らがなかった。
 けれど、その芯には、何か――“迷いを越えた願い”が潜んでいた。

 「婚姻の話が進んでおります。お相手は年上の宰相家の若君。お優しい方です。……でも、わたくしには、ずっと友として過ごした方がおりまして」

 「その方が……本当に、わたくしを“女”として見てくださっているのか、知りたいのです」

 ――媚びるのではなく、問いたい。
 “わたし”を、“愛しているのかどうか”を。

 そのために、「己を澄ませる香」を求めてきた。

 カナンはしばし、ティナ姫の眼差しを見つめていた。

 やがて、棚の一角から、まだ“名をつけていない香”の小瓶を手に取る。

 「これは、“願い香”と呼びましょう。心の奥にある、あなた自身の願いに、問いかける香です」

 ティナ姫は、瓶を両手で抱いた。

 「……本当に、ただの香ですのね?」

 「ええ。ただの香。あなたを狂わせたり、相手を惑わせたりはしない。でも、自分の願いを誤魔化すこともできません」

 その香を使うのは、他人ではなく、“あなた自身”。



 その夜、ティナ姫は香を焚いた。
 薄く青い煙が天幕の中に広がり、彼女は一通の手紙を、誰にも見られぬように綴った。

 宛先は、友として育った騎士、ユリオ。

 《わたくしが“婚姻を望まぬ”というのは、ただのわがままでしょうか。
 でも、あなたの笑顔の中に、わたくしが“ただの幼馴染”としてしかいないなら――
 どうか、そう教えてください。香が消える前に。》

 彼女の手が震えていた。
 けれど、その目には迷いはなかった。

 香は、問いかける。
 「あなたの心の奥にある、本当の願いは、どこにありますか?」



 翌日。

 森の廬に戻ってきたカナンに、シリウスは声をかけた。

 「……“願い香”の効き目は?」

 「それは、私にも分からない。あの姫が、本当に自分に問いかけられるかどうかに、すべてがかかっている」

 シリウスは笑った。

 「君は、香で“奇跡”を起こしたいんじゃないんだな」

 「……うん。私は、“奇跡”じゃなくて、“選択”を支える香を作りたい」

 “魔女”ではなく、“寄り添う人”として。

 香の力は、願いを叶えるものじゃない。
 でも、自分の想いに正直になりたいとき、そっと背中を押すことはできる。

 ふたりは小さな香棚の前に並び、また新しい調香を始める。

 “和香”も、“願い香”も、まだ名もない香も――
 きっとどこかで、誰かの“問い”に応えていく。
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