B級彼女とS級彼氏

まる。

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第一部 第1章 再会してしまいました

第9話〜慎吾さんのご乱心?〜

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 夜もとっぷりとふけ、時刻は深夜十二時をとっくに過ぎていた。
 白い蛍光灯が点るキッチンのシンクの中、私は自分が汚してしまった慎吾さんの衣服の汚れを取るために、水を張っては揉み洗いをするのを何度も繰り返している。表面上は綺麗に見えても、きっと目には見えないミクロなあれやこれやが残っているだろう。そう思うと手洗いだけで終わらせるのはちょっと心苦しいものがあった。
 とはいえ、「洗濯してしまうと、せっかくいい感じに仕上がってきてる、リィーバイス501が台無しになる」なんて、慎吾さんはみんなの蔑む視線をものともせず、自慢げに語っていたのを知っているだけに洗濯機に入れてしまうのを躊躇してしまう。これを洗濯機にかけたが最後、もうそんな自慢話も出来なくなってしまうだろう。
 自分がやったこととはいえ、そんな慎吾さんが不憫に思えた。
 ジーンズを軽く絞って水気を取ると、雫が垂れて部屋を水浸しにしないよう手近にあったお鍋でガードしながら脱衣所へ向かう。洗濯機に放り込み、ボタンの上に置いた指をじっと見つめた。
 ――慎吾さん、ごめんなさい!
 心の中でもう一度謝罪の言葉を述べてからピッとボタンを押す。そして、すぐに洗濯層はぐるぐると回り始めた。
 額に薄っすらと浮んだ汗を手の甲で拭い、洗濯層の中をじっと見つめる。ぐるぐると同じ動きを繰り返すその様を見つめていると、私の視界はすぐに焦点があわなくなった。

「――こいつの背負ってる過去。それごと全部、お前一人で背負いきれるだけの覚悟があるのかって聞いてんの」

 幾度となく、その言葉が頭の中を駆け巡る。
 自分が眠ってしまっている間に、一体どういった会話が慎吾さんと小田桐の間でなされ、そして、彼は一体どういうつもりでそんな事を口走ったのかもさっぱりわからない。ただ、未だに私の事を気遣う言葉であったことには間違いないのだと思うと、なんとも言えない感情が湧き出てきてしまった。
 最後に会ったあの日。ずっと仲のいい友達だと思ってきたのが、自分が居ない所ではあんな風に陰口を叩かれていたのだと言う事を知り、あの時の私はショックと怒りで身体が小刻みに震えた。小田桐の事を信頼していただけに、裏切られて受けたショックは大きい。
だから、私はあの日以来小田桐をうらみ続け、挙げ句の果てには記憶から抹消したと言うのに、小田桐はまだ私の事を覚えているどころか気遣おうとまでしてくれている。あれほど、店で嫌がらせをしたというのに、何であんなことを言ったのだろうか。

「何なのよ……、一体」

 ポツリと呟いた直後、浴室の扉が開く音が聞こえた。

「――? うぁあっ!」
「あ、慎吾さん。もう上がりました? すみません、今着替え持ってきますね」
「へっ!? あ、う、うん。ありがとう……」

 浴室の扉が開いたことで脱衣所が一気に湯気で一杯になる。私が脱衣所にいた事に驚いた慎吾さんは、慌ててまた浴室へと逃げるようにして戻って行った。
 私は洗濯機の蓋をパタンと下ろすと、片手に鍋を持ち何食わぬ顔でその場を去る。部屋に戻って襖の奥を探り、男物の黒いスウェット地のパンツを探し当て、ひとまずそれを手にしてもう一度脱衣所へ向かい、扉をノックした。

「慎吾さん、入っていいですか?」
「あ、ああ、はい!」

 また慌てて浴室へと逃げ込んだのか、中から浴室のドアが開閉する音が聞こえてきた。音が完全に止んだのを見計らってから脱衣所の中へと入っていくと、慎吾さんが取りやすいように洗面台の上にバスタオルと先程のスウェットパンツを置いた。

「慎吾さん、ここに着替えとタオルを置いてますから」
「あ、はい! あ、あああ、有難う!」

 慎吾さんの声が上擦っている事が気になりながらも、そのまま脱衣所を後にした。
 一人で暮らすには広すぎる2DKの間取り。2DKと言っても、ダイニングはさほど広くないので冷蔵庫や食器棚を置いてしまうと、食事をとるスペースなど無いに等しい。ダイニングのガラス戸を取っ払い、結局一部屋潰して1LDKの様にして使っていた。

「――歩ちゃん?」

 普段、寝起きしている隣の部屋からまるで家捜しをしている様な物音に気付いたのか、私が本当にそこにいるのかを確かめるように慎吾さんが声を掛けてきた。暗闇の中振り返ると、明かりの灯っているダイニングキッチンで首からバスタオルをぶらさげ、湯気を纏った上半身裸の慎吾さんがじっと目を凝らすようにして立っていた。

「……あ、ちょっと待ってくださいね。今、上の服探してるんで」

 再び服を探し始めていると、その内、畳を踏みしめる音が近づいて来るのがわかる。と同時に、パッと部屋が明るくなった。

「電気くらいつけようよ」
「あ、すみません。……あ、あった。これでいいかな」

 さっき慎吾さんに渡したパンツとお揃いの上着。それを広げて慎吾さんの方へと振り向いた。

「……あ」

 座り込んでいる私の目に入ってきたのは、慎吾さんには明らかに丈が長すぎるパンツ。裾を何重にも折り返されているのをじーっと見ていた事に気付いたのか、「これ、僕にはサイズが大きすぎるみたいでさ。……ウエストはぴったりなんだけどね」と、少し恥ずかしそうに自虐的発言をして頭を掻いた。
 唯一、うちの家にあるこの男物の服は、小田桐が学生時代に頻繁にうちの家に出入りしていた頃の名残りで、勝手に持ち込んで置いていったものだった。
 七年もの間後生大事にとっておいたわけでは無かったのだが、慎吾さんが小田桐の着ていた服を身に着けた事でこの服がまるで息を吹き返したかのように思えた。楽しかったあの頃の思い出が脳裏を掠め、それがほんのりと私の心を温めた。



「ほんっと、何から何までご迷惑をお掛けしてしまって……」

 冬になればコタツに早変わりする“一粒で二度おいしい”と、まるでどこぞのチョコレートの様な万能テーブルの上にコーヒーを二つ置くと、私もそのまま腰を下ろした。
 私の左隣に座っている小田桐の服を着た慎吾さんは、胡坐を組み壁に背を預けている。

「いや、本当に大丈夫」

 少し引きつりながらも慎吾さんは笑みを浮かべながら背を起こした。
 二人してマグにふーふーと息を吹きかけてはコーヒーを啜る。シーンとした室内がやけに居心地が悪くて、私は慌ててテレビのリモコンを握り締めた。

「あ、テレビ見ます?」
「え? あ、ああ、うん」

 私の正面にあるテレビに向けてスイッチを押す。もう深夜だから大した番組はやっていなかったが、とりあえず外国の映画がやっていたのでそこでチャンネルを止めた。お互い画面を凝視するも、きっと内容なんて頭に入っていないのがわかる。その証拠に、明らかに笑いを取ろうとしているシーンだと言うのに、慎吾さんはにやりともしなかった。
 まぁ、ただ単に面白くないだけかも知れないけれど。

「……あのさぁ」
「あ、はい」

 顔はテレビ画面に向けながら、慎吾さんが何かを言い出そうとしている。慎吾さんからそこはかとなく溢れ出ている不穏な空気を感じた私は、一体何を言われるのかと思わず背筋をピンと伸ばした。

「歩ちゃんって、今、彼氏とかいるの?」
「へ? な、何で急にそんな事聞くんですか?」

 くるりと私の方を向いた慎吾さんの顔には、いつもの人懐っこい笑顔は全く無く、いつに無く無表情であった。

「いや、だって。なんだかやけに男慣れしてるなーと思って」
「え!? 何処がですか?」

 そう言うと、まるで「言ってもいいのだろうか、どうなんだろうか?」と思っていそうなのが良く分かる。暫く様子を窺っていると、慎吾さんは思い切るかのようにして顔を上げた。

「僕、正直言うと歩ちゃんに家に誘われた時、凄い動揺したんだよ。今まで歩ちゃんの事はかわいい妹みたいな感じで思ってきたし、多分これからもそれは変わらないと思ってた」

 ――ん? 思ってた??

「だけどね? いい歳した健全な男と女が一つ屋根の下にいて、しかも、僕はシャワーまで浴びちゃってるし、普通に考えれば間違いが起きてもおかしくない状況なんだよね。でも、歩ちゃんって今まで全然男の影なんてこれっぽっちも見えなかったでしょ?」
「慎吾さん。今さり気なく酷い事を言われてる様な気がするんですが」
「あ! 歩ちゃんが全然モテないとか言いたいわけじゃないんだよ? その、歩ちゃんは本当に気が利くし、おもしろいし、いい子だし」
「ハイハイ」

 取ってつけたようなお褒めの言葉に、一瞬だとはいえ、自分が変に意識してしまった事を少し恥じた。

「だ、だから僕の勝手な思い込みなんだろうけど、歩ちゃんには彼氏とかはいないって思ってたんだ。――でも、さっき僕が上半身裸でいても全然へっちゃらそうだったし」
「いやだってプールとか海とか行けば、男の人は大抵上半身裸だし」
「それはそうだけど。……あと、さっきの男も何だか歩ちゃんの事良く知ってるみたいだったよね」
「いや、まぁ、あれは、その……」
「あの男は一体誰? もう、“通りすがり”なんて言い訳は通じないから」

「もう」って事は、もしかすると今まではそれで通じてたのだろうか。って、いちいち慎吾さんの言葉尻をとらえている場合じゃ無くなってきた。色々と迷惑掛けてしまったのだし、別に隠す必要は無いと思った私は本当の事を話した。

「や、別に大した事ないですよ。小田桐って言う、単なる高校時代の同級生で……」
「同級生!? って事は、……僕よか年下って事?」
「まぁ、そうなりますか」

 二歳年上の慎吾さんが驚くのも無理は無い。学生時代から大人びてはいたが、歳を重ねた小田桐は同じ二十五歳だと言うのに既に貫禄のようなものさえ感じる。私ですら初めて店で会った時、小田桐に声を掛けられるまで全然気付かなかった位だった。

「でも、単なる同級生レベルであんなムキになるもんなのかなぁ?」
「え?」
「いや、歩ちゃんを『自分が連れて帰る』って言ってやたら食い下がって来るからさ。しかもあんな口調だろ? 僕もついイラッと来ちゃったよ」

 毎日お供え物をして拝みたくなるような、まるで仏様みたいな慎吾さんをイラつかせることが出来るなんて、ある意味、小田桐は凄い奴なのかも知れない。
 しかし結局の所、慎吾さんは何が言いたいのかさっぱりわからなかった。

「あのー。で、結局慎吾さんは何が言い――」

 本人に直接聞こうとしたその時だった。

『……あ、っん』
「!!」
「……」

 突然あられもない声が聞こえてきて、その場の空気が一瞬にして凍りついた。先程までコメディタッチだった映画がいつの間にか場面が切り変わり、男女の情事が映し出されている。チラリ、と横目で慎吾さんを見てみれば、先程まで饒舌だったのが嘘の様にピタリと喋るのを止め、画面を見ていいものか、見ないほうがいいのか迷っている様子だった。

『ああっ!!』

 この上なく気まずくなった雰囲気に、容赦なく喘ぎ声はエスカレートしていく。休日の夜、家族団らんで楽しみながら見ていたテレビで突然濡れ場が発生し、いたたまれなくなった親に「ささ、子供はそろそろ寝なさい」と、強制終了されて不貞寝する子供の光景が思わず頭に浮かんだ。

「え、えーと、慎吾さん? 明日は早番ですよね? 良かったら、もうこのままここで休んで行ってください。今、布団敷きますから」

 私も流石にいたたまれなくなったのと、前回の“首根っこ引き摺られ事件”に続き、やたらと小田桐の話をしたがる慎吾さんの相手に疲れ、さっさと話を切り上げようとテーブルに両手をついて立ち上がろうとした。なのに、慎吾さんはそんな私の言葉に目を見開き、慌てて立ち去ろうとする私の手首を掴む。

「そういうとこが男慣れしてるんだって! 何でサラッとそんな凄い事言えちゃうのかなぁ。何だか僕一人でドキドキしてるみたいじゃんか……」

 ――ええ、間違いなくそうです。
 この期に及んで何を言うのかと思いきや、私を女として扱う気持ちがまだこの人に残っていたのかと、私は逆にその事について驚いてしまいそうであった。

「歩ちゃん。一応、僕だって男なんだよ?」
「はい? 存じ上げております……がっ!?」

 ねっとりとした視線を絡めてきたかと思うと、掴まれていた手首をグイッと引っ張られた。ドサッっと倒れこんで受けた衝撃と共に、背中一面に畳の感触がした。




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