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ボリジの章
⑲ それぞれの使命
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ヨルズが放った声色は、まるで成熟した女性のようであった。
『この国の方言がどうだとかなんて、全然知らないのです』
「…………」
短剣の切っ先が光る。
身体のどこかに隠し持っていたそれを、目にも留まらぬ早業で取り出し私に向けたのだった。
「やっぱり……あなただったのね」
胸元で逆手に短剣を握る彼女を、私は哀しく見上げ、睨みつけた。
『お命いただきます、センセイ』
その刹那、疾風のごとし身のこなし。かまいたちが襲い掛かってくる。
なら……
私は机の引き出しに隠しておいたクッションを、瞬息の間に取り出した。
彼女の狙う一点はこの首筋。両手で掴んだ柔らかいクッションでそこを守る。
……だめよ、こんなものでは木盾にもならない。あっさり貫通してしまう。
ただし、
────彼女が、短剣を突き出すことができたなら。
『! …………』
「…………」
この命に突き刺す短剣は、私の喉元、正しく言えばクッションの寸でのところでその刃先をぴたりと止めた。
そうよね。
だってこのクッションの絵柄は……、“虎”だから。
『あなたがエリヴァーガル国から送られた刺客だったのね』
彼女の表情が険しくなった。それはもはや、いっぱしの刺客の目であった。
『気付いていたのですか』
『だって、あなたのゲームプレイに違和感があったんだもの……』
私はあの椅子取りゲームのあいだ、みんなを満遍なく見ていた。早くひとりひとりの性格を把握しなくてはと、神経を研ぎ澄ませて観察していたわ。
するとだんだん見えてくる。
音楽がふっと止まると、椅子の真ん前に立ち止まりでもしない限り、人は「右に座ろうか左に座ろうか」と迷うもの。
なのに、この子だけ即座に、躊躇なく、たまに遠めの椅子にも腰かけた。まるで常に、どの椅子に座るかを決めていたかのように。
そして彼女が立ち上がった後の椅子には、必ず狼のクッション。
『あなたはどうしても虎の椅子に座るわけにいかなかったのね』
国では“虎神の生まれ変わり”と崇められている王を信仰するがゆえに。
『そして、席が少なくなって明らかに狼に座れなくなったら、あっさり譲って退場していた』
『…………』
彼女の瞳に悔恨の色が浮かんだ。
『あなたの王は、為政者として優れたお人なの?』
『王は人ではありません。神です』
その声に揺るぎはない。
彼女はクッションの向こうの、私の喉元に刃を向けたまま、語り始めた。
『私は幼少から密偵の英才教育を施され、9つで王宮に出仕しました。そこで神との邂逅を果たしたのです』
『邂逅?』
『誇り高きアリアドネ様……あの方こそ神の化身。あのように神々しい存在は、幼い私には眩しすぎました』
彼女は恍惚とし、幸福な信者の顔を覗かせた。
『女王のお役に立てるなら、いくら手を汚しても本望。3年前、女王より勅命をいただき、諜報部隊と共にこの国に上陸……』
たった12ほどで……。そんな幼い少女に過酷な使命を?
『私の責務はこの国の貴族になりすまし、無垢を装い国の中枢に忍び込むこと。そして機密情報を入手、または要人の暗殺。そのためターゲットを探すことに1年を費やしました』
淡々と話す彼女。その間の惨苦は想像に難くないけれど……。
『この、私が成り代わったヨルズ・フォーゲンは、実家の伯爵家で冷や飯食いの娘でした。彼女は両親が認めてくれることを夢見て勉学に打ち込み、学院入学の切符を手に入れた。実際、家族は厄介払いができ、しかも家名には富、名声を運んでくれるだろうと手放しで喜んだわけですが』
……どこかで聞いた話ね……。
『その学院入学のため馬車で王都へ向かう道中に、私は彼女を襲いました。亡骸の、親指以外はその場に埋め、親指で指紋照合。私は無事、学院に巣食いました』
むごい仕打ちに絶句してしまう。本物のヨルズにはきっと輝かしい未来が待っていたのに。
『家族は王都へ進学した娘に一切関心なく、参観でやってくることもない。正体を暴かれる恐れもなく2年が過ぎ……。慎重を期した甲斐あり、こたびの大使育成クラスに選抜されて。逸る気持ちを抑えられませんでした。ウルズの人間に接近できる。この仕事は女王へのいい土産になると』
『でも……あなたは南の人間である私の前に、このクラスの生徒を……』
『そう。しくったわ。だってあの男、クラス編成からこっち、絶えず私をじろじろ見てくるのだもの。人の目は密偵にとって天敵。気が焦ってやってしまった。しかも病死に見せかけることもできなかった……』
『彼はたぶん、あなたとお友達になりたかったのよ……』
『友達? いりません』
ここで彼女は固く握る私の手にそっと触れ、次の瞬間、ぐっと力を入れクッションを取り払った。
『さぁ、あなたを葬って、罪をヨルズ・フォーゲンに押し付けたら、私は姿をくらまします』
腕っぷしで敵うわけない。同じ女性でも訓練された人間に。
彼女が逆手に持っていた短剣を持ち替え、大きく振りかざした。
そこまではじっと見ていた、彼女の悦に入った表情も。それは神に一層近付けたという恭悦の微笑み。
生まれて初めて対峙する、生命の危機という恐ろしさのあまり私は、声も上げられず、ぎゅっと目を閉じて。
そうしたら、ほぼ観念したつもりだった。
最後の祈りを唱えようとした時、ふっと脳裏に浮かんだのは……
「助けて……」
────ダインスレイヴ様────!
『う゛っ……!??』
剣が風を切る、微かな音を聞いた気がする。しかし私を意識づけたのは、この目前の少女の、かすかな呻き声。
彼女は剣をかざしたまま微動だにせず、しかし身体を巡る力の流れが止まったことで、ついにバタンと横に倒れこんだ。
『うっ……ううっ……』
背に深く刺さる剣……。
「ダイン……スレイヴ様……」
大きな影が私を覆う。
そびえたつ高山のように存在感を放って止まない彼は、憤りや焦りといったものをその大きな背丈に押し込んでいるよう。
『怪我はないかユニヴェール?』
どうしてここが……。
『殿下! こちらですね!?』
『ご無事ですか先生!?』
少年たちが慌てて入室してきた。10名ほどだろうか、前列にいるのは先ほどゲームで優勝した男子や、他もみんな体格のいい子たち……。
『俺たち武官勢が殿下の補佐をいたします!』
彼らが口々に説明するには、文官の家の者とは違い彼らは殿下の顔を見知っていたので、レイ=ヒルドの正体を見破ったことで、配下としての役目を与えられたそうだ。この場では殿下と共に私の捜索を。
『さすがは殿下、頭が下がります。素性を隠し密偵の侵入するクラスへの潜入、そしてこのように見事、標的を見つけられて!』
生徒たちは殿下を近くに見え、心酔している様子。
『うっ……』
ダインスレイヴ様はまず片足でヨルズを踏みつけ、動きを牽制した。
『急所は外した。剣を引き抜かず、このまま宮廷の医務室へ運べば、命だけは助かる可能性がある』
次に彼はヨルズを、背中に剣を刺したまま左腕で抑えつけたが、寄ってきた生徒たちがそれを請け負った。
今は殺しはしないだろう。むしろ生かしておいて、拷問にかけ情報を吐かせるのだろう。
『なんて酷い……』
無意識にこの一言がこぼれた。決して彼を、国を責めているわけではない。けれど、本音がつい……。
『ここでやらなければ君がやられていたぞ』
『でも、この子はまだ15の子どもでっ……』
『15歳であろうと使命を帯びた者は戦場に立つ。それが戦時下の常識だ』
彼が冷たく恐ろしい狼に見える。彼を取り巻き包む、凍てついた風が見える。
でもこの存在が、この争いの絶えない状況下で生きる姿。それに比べて私は……。
おびき寄せられて、訓練された人間と分かっていて、「話せば分かる。相手は子どもなのだ」とノコノコ付いてきてこの始末。
なんて浅はかなの……。
「え?」
私が絶句したこの短い間のことだった。抑えつけられ瀕死の彼女は、自身の落とした短剣を右手で拾い、
「待っ……」
残された力の限りを尽くし、
「だっ、だめ……」
自身の首筋に刃を立て、引いたのだった。
「いやっ……いやああああ!!」
赤い血しぶきが舞う。
私の左半身に飛び散る鮮血。生臭くて、温かい……。
『ああ、美しい……アリアドネ様……』
彼女が目を閉じた瞬間、私もふっと気を失った。
『ユニヴェール!?』
『『『先生っ!』』』
気を失う直前の一瞬、私の目に、はたりと過った。
ここ美術倉庫の壁に立てかけられた、ひとつのキャンバス。
掛けられた布がはらりと落ちて。
そこに描かれていたのは……
真紅に染まるドレスの、慈愛深い微笑みをたたえた、女神のような女性であった────。
『この国の方言がどうだとかなんて、全然知らないのです』
「…………」
短剣の切っ先が光る。
身体のどこかに隠し持っていたそれを、目にも留まらぬ早業で取り出し私に向けたのだった。
「やっぱり……あなただったのね」
胸元で逆手に短剣を握る彼女を、私は哀しく見上げ、睨みつけた。
『お命いただきます、センセイ』
その刹那、疾風のごとし身のこなし。かまいたちが襲い掛かってくる。
なら……
私は机の引き出しに隠しておいたクッションを、瞬息の間に取り出した。
彼女の狙う一点はこの首筋。両手で掴んだ柔らかいクッションでそこを守る。
……だめよ、こんなものでは木盾にもならない。あっさり貫通してしまう。
ただし、
────彼女が、短剣を突き出すことができたなら。
『! …………』
「…………」
この命に突き刺す短剣は、私の喉元、正しく言えばクッションの寸でのところでその刃先をぴたりと止めた。
そうよね。
だってこのクッションの絵柄は……、“虎”だから。
『あなたがエリヴァーガル国から送られた刺客だったのね』
彼女の表情が険しくなった。それはもはや、いっぱしの刺客の目であった。
『気付いていたのですか』
『だって、あなたのゲームプレイに違和感があったんだもの……』
私はあの椅子取りゲームのあいだ、みんなを満遍なく見ていた。早くひとりひとりの性格を把握しなくてはと、神経を研ぎ澄ませて観察していたわ。
するとだんだん見えてくる。
音楽がふっと止まると、椅子の真ん前に立ち止まりでもしない限り、人は「右に座ろうか左に座ろうか」と迷うもの。
なのに、この子だけ即座に、躊躇なく、たまに遠めの椅子にも腰かけた。まるで常に、どの椅子に座るかを決めていたかのように。
そして彼女が立ち上がった後の椅子には、必ず狼のクッション。
『あなたはどうしても虎の椅子に座るわけにいかなかったのね』
国では“虎神の生まれ変わり”と崇められている王を信仰するがゆえに。
『そして、席が少なくなって明らかに狼に座れなくなったら、あっさり譲って退場していた』
『…………』
彼女の瞳に悔恨の色が浮かんだ。
『あなたの王は、為政者として優れたお人なの?』
『王は人ではありません。神です』
その声に揺るぎはない。
彼女はクッションの向こうの、私の喉元に刃を向けたまま、語り始めた。
『私は幼少から密偵の英才教育を施され、9つで王宮に出仕しました。そこで神との邂逅を果たしたのです』
『邂逅?』
『誇り高きアリアドネ様……あの方こそ神の化身。あのように神々しい存在は、幼い私には眩しすぎました』
彼女は恍惚とし、幸福な信者の顔を覗かせた。
『女王のお役に立てるなら、いくら手を汚しても本望。3年前、女王より勅命をいただき、諜報部隊と共にこの国に上陸……』
たった12ほどで……。そんな幼い少女に過酷な使命を?
『私の責務はこの国の貴族になりすまし、無垢を装い国の中枢に忍び込むこと。そして機密情報を入手、または要人の暗殺。そのためターゲットを探すことに1年を費やしました』
淡々と話す彼女。その間の惨苦は想像に難くないけれど……。
『この、私が成り代わったヨルズ・フォーゲンは、実家の伯爵家で冷や飯食いの娘でした。彼女は両親が認めてくれることを夢見て勉学に打ち込み、学院入学の切符を手に入れた。実際、家族は厄介払いができ、しかも家名には富、名声を運んでくれるだろうと手放しで喜んだわけですが』
……どこかで聞いた話ね……。
『その学院入学のため馬車で王都へ向かう道中に、私は彼女を襲いました。亡骸の、親指以外はその場に埋め、親指で指紋照合。私は無事、学院に巣食いました』
むごい仕打ちに絶句してしまう。本物のヨルズにはきっと輝かしい未来が待っていたのに。
『家族は王都へ進学した娘に一切関心なく、参観でやってくることもない。正体を暴かれる恐れもなく2年が過ぎ……。慎重を期した甲斐あり、こたびの大使育成クラスに選抜されて。逸る気持ちを抑えられませんでした。ウルズの人間に接近できる。この仕事は女王へのいい土産になると』
『でも……あなたは南の人間である私の前に、このクラスの生徒を……』
『そう。しくったわ。だってあの男、クラス編成からこっち、絶えず私をじろじろ見てくるのだもの。人の目は密偵にとって天敵。気が焦ってやってしまった。しかも病死に見せかけることもできなかった……』
『彼はたぶん、あなたとお友達になりたかったのよ……』
『友達? いりません』
ここで彼女は固く握る私の手にそっと触れ、次の瞬間、ぐっと力を入れクッションを取り払った。
『さぁ、あなたを葬って、罪をヨルズ・フォーゲンに押し付けたら、私は姿をくらまします』
腕っぷしで敵うわけない。同じ女性でも訓練された人間に。
彼女が逆手に持っていた短剣を持ち替え、大きく振りかざした。
そこまではじっと見ていた、彼女の悦に入った表情も。それは神に一層近付けたという恭悦の微笑み。
生まれて初めて対峙する、生命の危機という恐ろしさのあまり私は、声も上げられず、ぎゅっと目を閉じて。
そうしたら、ほぼ観念したつもりだった。
最後の祈りを唱えようとした時、ふっと脳裏に浮かんだのは……
「助けて……」
────ダインスレイヴ様────!
『う゛っ……!??』
剣が風を切る、微かな音を聞いた気がする。しかし私を意識づけたのは、この目前の少女の、かすかな呻き声。
彼女は剣をかざしたまま微動だにせず、しかし身体を巡る力の流れが止まったことで、ついにバタンと横に倒れこんだ。
『うっ……ううっ……』
背に深く刺さる剣……。
「ダイン……スレイヴ様……」
大きな影が私を覆う。
そびえたつ高山のように存在感を放って止まない彼は、憤りや焦りといったものをその大きな背丈に押し込んでいるよう。
『怪我はないかユニヴェール?』
どうしてここが……。
『殿下! こちらですね!?』
『ご無事ですか先生!?』
少年たちが慌てて入室してきた。10名ほどだろうか、前列にいるのは先ほどゲームで優勝した男子や、他もみんな体格のいい子たち……。
『俺たち武官勢が殿下の補佐をいたします!』
彼らが口々に説明するには、文官の家の者とは違い彼らは殿下の顔を見知っていたので、レイ=ヒルドの正体を見破ったことで、配下としての役目を与えられたそうだ。この場では殿下と共に私の捜索を。
『さすがは殿下、頭が下がります。素性を隠し密偵の侵入するクラスへの潜入、そしてこのように見事、標的を見つけられて!』
生徒たちは殿下を近くに見え、心酔している様子。
『うっ……』
ダインスレイヴ様はまず片足でヨルズを踏みつけ、動きを牽制した。
『急所は外した。剣を引き抜かず、このまま宮廷の医務室へ運べば、命だけは助かる可能性がある』
次に彼はヨルズを、背中に剣を刺したまま左腕で抑えつけたが、寄ってきた生徒たちがそれを請け負った。
今は殺しはしないだろう。むしろ生かしておいて、拷問にかけ情報を吐かせるのだろう。
『なんて酷い……』
無意識にこの一言がこぼれた。決して彼を、国を責めているわけではない。けれど、本音がつい……。
『ここでやらなければ君がやられていたぞ』
『でも、この子はまだ15の子どもでっ……』
『15歳であろうと使命を帯びた者は戦場に立つ。それが戦時下の常識だ』
彼が冷たく恐ろしい狼に見える。彼を取り巻き包む、凍てついた風が見える。
でもこの存在が、この争いの絶えない状況下で生きる姿。それに比べて私は……。
おびき寄せられて、訓練された人間と分かっていて、「話せば分かる。相手は子どもなのだ」とノコノコ付いてきてこの始末。
なんて浅はかなの……。
「え?」
私が絶句したこの短い間のことだった。抑えつけられ瀕死の彼女は、自身の落とした短剣を右手で拾い、
「待っ……」
残された力の限りを尽くし、
「だっ、だめ……」
自身の首筋に刃を立て、引いたのだった。
「いやっ……いやああああ!!」
赤い血しぶきが舞う。
私の左半身に飛び散る鮮血。生臭くて、温かい……。
『ああ、美しい……アリアドネ様……』
彼女が目を閉じた瞬間、私もふっと気を失った。
『ユニヴェール!?』
『『『先生っ!』』』
気を失う直前の一瞬、私の目に、はたりと過った。
ここ美術倉庫の壁に立てかけられた、ひとつのキャンバス。
掛けられた布がはらりと落ちて。
そこに描かれていたのは……
真紅に染まるドレスの、慈愛深い微笑みをたたえた、女神のような女性であった────。
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