サトリ

マスター

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第1章

3.うるさい

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「-ましろ、帰るぞ」

 声のした方に恐る恐る顔を向けると、その人物と目が合った。
 明らかに怒っている。絶対に怒っている。
 やはり、あそこを勝手に抜け出してきたのはまずかっただろうか。ぬいぐるみをギュッと抱き締めた。
 しかし、白には確かめないといけない事があった。

「ねぇ、シュラ。かなめの記憶消したりは-」

「消したぞ」

 修羅しゅらと呼ばれた女性は、冷たい声で言い放った。

「そんな…なんで…」

 絶望的だ。折角たくさん話をしたのに全て忘れてしまったのだろうか。泣きたくなった。

「ひどいよ、ひどいよ!シュラ!」

 立ち上がって怒った。先に悪いことをしたのはこちらだが、いくらなんでも記憶を消すなんて酷い。

「煩い。自業自得だろうが」

 頭上からゾッとする程冷たい声が降ってきた。

「だって…だって…うぅ…シュラなんて…キライだよう」

 涙声になりながら、呟いた。
 修羅がキレているのが顔を見なくても分かった。それでも、悲しかった。

「…煩い。お前が脱走なんてするから、私は…」

 修羅は途中で言葉を止め、歩き始めた。

不知火しらぬいのジジイにも報告しなきゃいけない。帰るぞ」

 そう、背中越しに白に言った。

「……」

 修羅が言葉を途中で止めた時の顔を白は見ていた。

「…ごめんなさい。シュラ、ごめんなさい」

 修羅のコートの裾を引っ張って、涙声のまま言った。
 修羅は振り返ると溜息を吐いた。

「…消したのは私との会話だけでお前の記憶は消していない」

 そう、俯く小さな頭に言った。

「…!え、ホント?」

 白は顔をバッと上げた。涙はもう止まっていた。

「ああ」

 修羅のその言葉を聞くと、白は要の方を振り返った。そして、要がこちらの方を向いているのに気づくと、ブンブンと手を振った。

「…いいから、帰るぞ。今日の事は無かった事にはならないからな」

 後ろから釘を刺された白は、一瞬落ち込んだが直ぐに嬉しそうに修羅の後ろをついて行った。

      ************

 これは、要と白が出会う少し前の出来事。

「-何の用だ。ジジイ」

 昼過ぎの事、修羅は不知火しらぬいという眼鏡をかけた五十前後の男性に呼び出されていた。
 修羅はジジイと呼んでいるが、大抵はこの男性からの指示で動いている。

「白さぁ、今どこにいるか知ってる?」

「は?あいつなら朝は自分の部屋にいたが」

 修羅は不知火の唐突な質問に眉じわを寄せる。

「それがさぁ、脱走?しちゃったみたい」

 不知火が笑いながら言った。

「は…今、何て」

「だからね、白、脱走しちゃったみたいで、街にいるんだわ。探してきて」

 テヘッと年に似合わない事をする不知火を見て、修羅の目が見開かれた。

「はぁ!セキュリティは?何であいつ脱走なんか」

「外に出たかったんじゃない?」

 不知火は能天気にコーヒーを飲んでいる。

「外になら偶に連れ出してるだろ」

「なんか、『偶には一人で出てみたいー』みたいな?『新しい出会いが欲しい』みたいな?感じかな。だから、『頑張って脱走してみればー』って言ったらホントに脱走しちゃったね。…あ、修羅もコーヒー飲む?」

 全く悪びれもせずコーヒーのポットを差し出しながら、事の元凶は自分だという様な事を不知火は言った。

「殆どの原因はお前じゃないか。だったら、お前が連れ戻してこいよ」

 修羅は差し出されていたポットを受け取ると、不知火の頭上でひっくり返した。

「おおぅ。お怒りだね、修羅」

「当たり前だろ」

 修羅は空になったポットを不知火に投げつけた。

「いいの?ボクが探して?そうなると、円楽えんらくに行ってもらうことになるけど」

 不知火は数メートル後ろに立っている銀髪の青年を指差した。青年は無表情のまま突っ立っている。微動だにしないので、パッと見はマネキンのようだ。

「そりゃあ、円楽に行かせた方が早いとは思うよ。でもさぁ、それでいいの?修羅は」

 不知火はハンカチで頭を拭きながら笑っている。ハンカチなどでは到底拭ききれないが…。

「別に…」

「今なら、上にもバレずに済むと思うんだよね。円楽出しちゃうとさほら…あんま良くないよ」

 不知火は意地の悪そうな目で修羅を見つめた。

「チッ…わかった。行ってくる」

 修羅は舌打ちをすると不機嫌そうな声で言った。

「あ、たぶん。あそこらへんじゃないかな?あの賑やかな通りの方」

 踵を返して部屋から出て行く修羅の銀色の背中に不知火が言った。

「クソジジイが…お前の所為だろうが」

 悪態をつきながら修羅は雪の中へと消えていった。

 --それから何時間か経って修羅は白を連れ戻した。

 修羅と白はとある高層ビルの地下にいた。このビルは白の祖父にあたる人物が所有している物だ。祖父が社長をしている大手企業の研究機関がこのビルの地下に存在している。
 二人はこのビルの上の階の方に住んでいた。

「わー。良かったね。白見つかったね」

 部屋にイラッとする不知火の能天気な声が響く。
 すぐ後に修羅の舌打ちが響いた。

「あれ、そのぬいぐるみどうしたの?白」

 昼頃に修羅に汚された服からすっかり綺麗になった不知火は、白の持っているぬいぐるみを見て言った。

「…ゲームセンターで取ってもらったの」

 少し元気のない声で白が呟く。

「修羅に…じゃないよね。いい人に出会えて良かったね。誘拐されたかと思って、ボクは気が気じゃなかったよ」

 修羅が凄い目で不知火を睨んでいる。目で「どの口が言うんだ」と言っている。

「…怒らないの?」

 白がおずおずと訊いた。

「え、怒んないよ。その様子だと修羅にこってり絞られたみたいだし…修羅ーあんま小さい子を苛めちゃだめだよー」

 修羅は怒りを通り越して軽蔑の目になっていた。

「う…修羅の視線がイタイよ」

「白」

 いきなり修羅に名前を呼ばれた白はビクッとした。

「な、何?」

「部屋に戻ってろ。おい、円楽。扉を開けてやれ」

 修羅は不知火から目をそらす事なく言った。
 円楽は「わかった」と言うと扉の方に歩いて行った。

「…ほら、行け」

 立ったままの白に修羅が言った。
 白は一度修羅を見上げると、小走りで扉の方へと行った。

「相変わらず、つっぱねるねー修羅。白がかわいそう」

 不知火はカップにコーヒーを注ぐと修羅に差し出した。

「煩い」

 今度は修羅はカップを素直に受け取った。

「白ちゃん楽しそうだった?良かったね無事に見つかって。ぬいぐるみまで持って帰ってきて」

 不知火は微笑ましそうな顔をしている。

「全部、お前が原因だろうが。あいつが自分でここのセキュリティを突破できると私が思っているとでも?」

 コーヒーを飲みながらカップ越しに不知火を睨んだ。

「えー。なんかの偶然で偶々、外に出ちゃったんだよ。たぶん」

「何かあったらどうするつもりだったんだ?」

 修羅はイライラしている。今にもコーヒーを不知火の頭にぶっかけそうだ。

「大丈夫だったでしょ。ちゃんと対策はしてたんだから」

 ニカッと不知火は笑ってみせる。

 その言動に行動に修羅の機嫌はより一層悪くなる。何かを言おうとして口を開いたが、結局言葉にはしなかった。白を見つけた後の電話でも散々文句を言ったので、これ以上は意味がないと思った。

 不知火はその様子を愉しそうに眺めながら気になっていた疑問を投げかけた。

「でさ、結局、電話で言ってた白が一緒にいた青年はどうしたの?」

「……消した」

「え?殺したの?修羅ってば恐-」

「私と話した内容の記憶だけ消した」

 ちゃかそうと意気込んでいた不知火だったが、修羅の言葉を聞いて真顔に戻った。

「…えらく、温和に済ませたね。どうしたの?ていうか、よくそんな短時間だけ消せたね。器用だね。白があの青年に要らない事を話してないならそれでいいけど」

「煩い」

「えー。修羅さぁ二言目には『煩い』って言ってない?おじさん傷つく」

 コーヒーを飲み終えた修羅はカップを不知火のデスクの上に置いた。
 何も言わずに部屋から出て行こうとする修羅に不知火は言った。

「上には一切バレてないから安心しなよ」

「…もし、バレてたらその時はお前から殺してやる。ジジイ」

 修羅が扉を開けようとした時、向こうから扉が開いた。

「-そろそろな気がするのよ!」

 開いた扉の向こうからたのしそうな声がした。
 赤毛に長身でどこかの学校の制服を着たその学生は細い目を開けて微笑んだ。

「…あかね

 修羅がその学生の名前を呼んだ。

      ************

「ー-ハァ…」

「あら、要。何、溜息なんかついてるの?幸せが逃げちゃうわよ」

 そう言ったのは、台所に立っている彼の母親だった
 もう、既に逃げた気がすると思う。
 そう、口にするのは止めた。
 リビングのソファに座って、今日の出来事にどう整理をつけようかと悩んでいると母親が話しかけてきた。

「そういえば、今日は学校早く終わったそうじゃない。なのに、内の息子ったら陽が落ちてから帰ってきて…何してたのかしら。デートかしら」

 母親がニヤニヤしながら要の方を見てくる。
 母親っていうのは本当に変な方向に勘が働く。強ち間違えでもないが、あれはとてもじゃないがデートなどではないと思った。

「そんなわけないだろ。…友達の買い物に付き合ってたんだよ」

 言った後に友達でも決してないと思った。

「あらぁ、残念だわ。要はいつになったら母さんに可愛い彼女を紹介してくれるのかしら」

「あんまり、そういう事にがっついてると嫌われるんだよ。母さん」

 要はテレビのチャンネルをころころと変える。

「--首のない男性の遺体が発見されました。まだ、身元特定には至っておらず--」

 殺人事件のニュースが流れてきた。

「また、あの殺人鬼?物騒ね。お父さん今日飲み会よね。大丈夫かしら?要、今何時?」

「…十一時前かな。父さんはちゃんとタクシーで帰ってくるって言ってたから大丈夫だと思うよ」

 殺人現場はここからそう遠くない場所で起こったようだった。

「そう、それなら大丈夫かしら…本当に最近は危ないわ。要も陽が落ちてからは人気のない所を歩かないでよ」

「ハイハイ」

 要は既にニュースの内容も母親の言葉も殆ど聞こえていなかった。
 今日の事を考えていた。
 あの時、白という少女を背中から下ろす時、少女が言ったのだ。「今日の事は内緒だよ」と。
 要が頭を抱えていると玄関の方で声がした。

「ただいま~」

「あら、お父さんが帰ってきたわ」

 少ししてリビングのドアから父親が現れた。
 呑んでいるのでテンションが高い。「お土産だぞー」と言ってコンビニの袋を掲げている。

「あれー沙耶はどうしたんだ?」

 酔っ払った父親が千鳥足で歩いてくる。明日が休みだから結構呑んでいるようだ。
 沙耶というのは、要の姉の事だ。

「姉ちゃんは今風呂だよ」

 要が言った時だった。

「もう、あがったわ」

 大学生の姉が首にタオルを巻いて、父親の後ろに立っていた。

「あら、早いのね」

「当然。お父さんがお土産を買って帰ってくることは分かってるんだから」

 そう言って沙耶はコンビニの袋をガサガサと探った。

「この、シュークリームは貰った!」

「しまった。沙耶に先を越されたわ」

 母親と姉が何を食べるかを争っているのを見ながら、あの少女といいどうして女の人って甘い物が好きなのだろうかと思った。
 今日の事をどうしようか。もう、いっそ忘れてしまおうか。
 要は父親が買ってきた塩豆大福をかじった。

      ************

「ねー。シュラはどこに行ったのー?」

 要が「白の事を忘れてしまおうか」とか思っている時、白はぶすくれていた。

「ねー。茜ってばー」

 白の部屋には先程、シュラと不知火の元に現れた茜がいた。
 白と茜の関係を簡単に言っておくと、従姉妹関係にらある。茜はこのビルではなく、普通の家で家族と暮らしている。

「んー。仕事頼んだからねー。たぶんもう、帰ってきてるはずたから…不知火のおじさんの所じゃないかなー」

 茜はテレビのニュースを見ている。
 白の部屋は1LKの造りになっていて、二人がいるのはテレビのあるリビングだった。もう、一つの部屋は寝室になっている。

「えー。じゃあ、もう一回下に行ってこようかなー」

 要に取ってもらったぬいぐるみを抱えたまま、白は絨毯の上をゴロゴロと転がっている。

「止めとけば。だいたい、あんたの部屋と修羅の部屋は別なんだから、どうでもいいじゃない」

「だってー」

「それに、仕事頼む代わりに白の事、見張っとけって言われてんの。今日は大人しく部屋にいて」

 白は相変わらず茜の周りをゴロゴロとしたまま言った。

「ねぇ、茜、聞いてよ。今日良い人に会ったの」

「ああ、そのぬいぐるみ取ってくれた人?白、あんた脱走したんだってね。バカね」

「たまには外に一人で行ってみたかっただけだもん」

 頬を膨らませて白は茜の顔を見上げた。

「…事の重大さが分かってないのね、おバカさん。次、誘拐されたら逆戻りよ。あんた」

「わかってるよぉ。わかってるから私の話も聞いてよ。っていうか、私の方が年上なのにどうして茜はそんなに上から目線なのー」

 白はまたゴロゴロと転がる。

「年だけでしょ。白が上なのは。聞いてあげるから、早く話して」

 茜は白の顔を覗き込んで言った。
 白は起き上がると、楽しそうに今日の事を話し始めた。
 暫く白の話を聞いていた茜が口を開いた。

「ねぇ、その人どこの学校かな?」

「なに!茜、かなめの事ねらってるの?ダメだよ」

 白は凄い剣幕で茜に詰め寄る。

「違うから、落ち着いて」

 そもそも、白の事は彼の眼中にはないだろうという事は言わないでおいた。

「…そう?学校はどこか分かんないよ。…あ、年きくの忘れてた」

 白は残念そうに髪をクルクルと弄んでいる。

「いや、だいたいは判るよ。白が脱走した頃には既に学校が終わっているという事は、たぶん高校だね。この辺の中学校で早く終わった所なんて聞いてないから。制服だったんでしょ?」

「うん。ゲームセンターでマフラー外してるときコートこ間から見えたよ。…ってあれ、茜どこ行くの?」

 茜はドアの方へと歩いていた。

「ちよっと修羅の所に行ってくる。仕事の結果聞かないとね。私から行かないと修羅はすっぽかす気だわ。私に面倒事を押し付けて」

「え!ズルい。私も行く!」

 白は急いで茜の後を追う。
 自分が面倒事だと言われているのには気づいていない様だ。

「え、あんたが来たらできる話もできないじゃない。煩いからここで留守番してて。あ、そうそう。明日は土曜日だから、学校休みだからあんたの部屋に泊めてね」

「ヤダ、私も行く!」

 白は茜の服を掴んで離さない。

「ちょ…制服破けるから、白。…離しなさいよっ!」

「うっ…!」

 --その頃、修羅は茜に言われた仕事を終え、自分の部屋で一息ついていた。
 ソファに座っていると、ドアをノックする音がした。

「修羅ー、茜だけど、ちょっと良い?」

 修羅は立ち上がると、ドアの方に向かった。

「何の用だ?」

 ドアを少し開けて言った。

「ちょっとー。ちゃんと結果報告してよね」

 茜は開いている隙間に手を入れて、グイッとドアを開けた。

「報告するような事はないだろう。…白はどうしたんだ?一人で来れたのか?」

 白の性格は修羅が一番知っている。素直に部屋にいるとは思えない。直ぐに部屋から出たがるのだ。

「まさかー。ついて行くって煩かったわよ」

「で?」

「あんまりにも煩いから-」

 茜は拳を握って前に突き出した。

「-これ、してきた」

 茜は得意気に微笑わらう。
 ようは、鳩尾に一発入れてきたのだ。

「で、成功したの?」

 茜は拳を引っ込めて訊いた。

「ああ、問題ない。だいたい、ニュースであってるから知ってるだろ。ほら、さっさと、白の所に戻れ。目が覚めてここに来たらどうするんだ。どうせ、泊まっていくんだろう」

「はーい、分かりましたよー。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

 修羅はドアを閉めると、鍵を閉めた。

 茜は白の部屋に戻った。ドアを開けるとそこには、白がまだ倒れていた。

「まだ、気絶してるかー。ちょっと、手荒だったかなー。まぁ、死ぬ事もないしいっか」

 茜はズルズルと白を引きずっていく。
 修羅ならヒョイと抱えてしまうのだが、意識のない人間というのは案外重くて抱えるのはちょっとキツイ。

「よいしょっと」

 なんとか、白をベッドに引き上げた。

「気絶させちゃったからなー。自分で布団出しますか」

 茜はクローゼットから布団を出すと、ベッドの隣に敷いた。

 次の日、目を覚ますとベッドの上から白がとても恨めしそうな目で見ていた。
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