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3 母親の失踪

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「ふざけんな! このアマ!」
「なによ!」

 階下から、芙由美と那津男が激しく喧嘩している声が聞こえて来る。
 理由は当然、芙由美の浮気のせいであり、母親が全面的に悪い。
 今度の浮気相手は、先日まで勤めていたパート先の大学生らしい。しかも呆れたことに、那津男と結婚する前から、そして結婚してからも関係が続いていたようだ。
 那津男が浮気に気付いたのは、近所に住む噂好きの中年女性からの『アドバイス』を聞いたからである。それも当然と言えば当然か。那津男の家は古くからこの地にあり、近隣の家々も大体同じだそうで、近所付き合いもそれなりにあった。この家に引っ越してきた時、遥奈は亜紀とともに挨拶回りをしたのだが、那津男と義理の家族になったことを告げると、どの家も気安い雰囲気で接してきてくれたのである。
 そんな環境であったから、芙由美が昼間から男を連れ込んでいれば噂にならないはずもなく、那津男の耳に入るのにそれほどの時間を要する事はなかったのである。
 リビングで罵り合いを続ける二人の声は絶えることなく聞こえてくるが、娘の立場からしても、芙由美の物言いは理不尽極まりなかった。
「一人で寂しかった」「パートを辞めろなんて言うから」「ちょっとの浮気くらいで小さい男ね」「あんただって飲み屋で他の女に色目を使ってたじゃないの」
 これらのセリフがエンドレスに繰り返され、那津男の怒声もまた同じように繰り返された。
 遥奈も亜紀も布団を頭から被り、耳を塞いで眠りの世界へ逃げ込むことしか出来なかった。



 まるで寝た気がしなかったが、一応は眠りに落ちていたらしい。
 母親と義理の父親が、夜遅くまでケンカしていた翌日の朝、妙に静かな空気の中で目が覚めた遥奈は、隣で眠る亜紀を静かに起こし、少し早い目の時間であるが、静かに家を出て学校へ向かった。
 芙由美と那津男がどんな『話し合い』をしたのかは分からない。布団の中で耳をふさいでいた遥奈には、怒号と悲鳴が遠く聞こえていただけである。
 帰りたくない気持ちで授業を受けていたが、そういう日に限って一日は何事もなくあっという間に過ぎてしまう。
 教師の話がまったく頭に入らなかった遥奈は、授業が終わるとクラスメイト達の誘いも断って早々に下校した。念のために亜紀の通う小学校にも寄り、姉妹二人で揃って帰宅する。

「……ただいまー」

 遥奈は恐る恐る家の中へ入ったが、人の気配はまるで無い。
 夫婦喧嘩したとはいえ、何か用事がない限り専業主婦である芙由美は、この時間、家にいるはずである。しかし、遥奈の挨拶にも返事はなく、それどころか薄暗い家の中には明かりもついていなかった。
 どこかへ出かけて、まだ帰っていないのだろうか。

「お姉ちゃん……」

 家の中のただならぬ様子に不安を感じた亜紀が、心細い声を出して姉の服の裾を掴んだ。

「大丈夫。きっとお買い物に行ってるのよ」

 そんな、言った本人も信じていないようなことしか口にできない自分に、遥奈は悲しくなってきた。そして、自分をそんな気分にさせた母親に、苛立ちというには刺々しい気持ちが沸き上がってくる。気持ちが悪い。吐き気がしそうである。
 無理やり作った笑顔を亜紀に向けると、遥奈は妹を二階へと上げ、自分たちの部屋で大人しくしているように言った。
 そこで遥奈は、リビングのテーブルに封筒が置かれているのに気が付いた。今朝、家を出るときには無かったものである。
 ソファを回り込み、封筒の宛名を見て、遥奈は心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。
 宛名は『那津男へ』となっていた。
 芙由美は普段、年下の夫のことを『ナツくん』か『那津男クン』と呼んでいた。遥奈は、再婚する前から芙由美と那津男を見ているが、母親が彼を呼び捨てにしたのは聞いたことがない。
 イヤな予感がどんどん膨らんできて、止めることが出来ない。今、遥奈を針で刺したら、弾けて飛んでしまいそうになるくらいだ。
 封筒を握りつぶしそうになって、遥奈は慌てて封筒をテーブルに放り出した。そして逃げ出すように、妹の待つ二階へと階段を駆け上がって行った。



 誰も帰ってこないまま日が暮れた。
 ほとんど無言で夕食を食べた二人の姉妹は、大人のいない家の中で不安に囲まれて過ごしていた。しかし、いつまで待っても芙由美が帰ってくる気配は無い。
 亜紀を先にお風呂に入れた遥奈は、妹を二階の部屋へ上げ、自分はリビングでテレビを点けたまま、漫然と両親の帰りを待っていた。
 と、遥奈の耳に玄関の扉が開く音がした。しかし、すぐには身体が動かない。芙由美かもしれないと一瞬思ったが、時間的に考えて、それ以上に可能性の高いのが仕事の終わった那津男である。そして、案の定、仕事帰りの那津男が胡乱な目つきでリビングに入ってきた。
 反射的に身体をビクリと振るわせる遥奈。しかし、那津男は、そんな義理の娘にまるで興味が無いといった風にキッチンへ向かおうとした。

「あ、あの……」
「ああん?」

 これまでの、義理の父親たろうと優しい雰囲気でいた頃とまるで違う、ヤクザのように剣呑な反応をみせる那津男に遥奈は身体が震えたが、勇気を振り絞って母親が残した封筒を義理の父親に差し出した。

「これ……、多分、お母さんから……」
「……」

 封筒と遥奈の顔を三回往復させた那津男は、義理の娘からひったくるようにして封筒を受け取った。そして、乱暴に封を開け、中に入っていた手紙を読み始める。
 遥奈は手紙を凝視している那津男の顔から目が放せなかった。そして、見ていたことを遥奈は激しく後悔した。
 那津男の顔は無表情から不信、そして憤怒へ至り、わずか数秒で目を背けたくなるような鬼の形相に変化したのだ。手紙を力いっぱい握り締め、くしゃくしゃに丸めて遥奈に投げつける。

「きゃっ!」
「あ……んの……、クソアマあああぁぁぁっ!」

 驚いた遥奈は身を縮め、それでも気を確かに持って那津男に問いかけた。

「て、手紙には……、なんて?」
「あのアマ、テメーらを捨てて逃げやがった!」
「……え? あ、あの、それって……、どういう……」
「一々聞き返すな! うぜぇ! あのクソアマ! クソアマ! クソアマあああっ!」

 クソアマと怒鳴るたびに、那津男は壁を殴りつけた。古い日本家屋の家が振るえ、壁に拳大の窪みがいくつもできる。

「ひっ!」

 それに驚いた遥奈は小さく悲鳴を上げた。
 それがさらに癇に障ったのか、那津男は遥奈をギロリと睨むと、ツカツカと歩み寄ってきた。そして義理の娘の胸倉を両手で掴み、ギリギリと締め上げる。

「あうっ!」
「いいか、よく聞け。あのクソ女はな、お前ら二人を捨てて男と逃げやがったんだ。クソが! 器が小さいだぁ?! 縛り付けるなだぁ?! お前は俺の女房だろうがっ!」

 遥奈の顔立ちは芙由美とそっくりである。そのまま大人になって女らしい身体になれば、瓜二つになるくらいによく似ている。
 だからだろうか。那津男は芙由美に対する怒りを、その娘に叩きつけた。

「く、苦しい……。やめて……」

 だが、逃げた妻に似てはいるものの、相手が幼い少女であることを思い出したのか、那津男は首を絞める手を緩めた。しかし、優しさからでないのは、次のセリフで明らかだった。

「失せろ」
「え……?」
「クソアマのクソガキは! とっと失せろって言ってんだよ! 家族ごっこも終わりだ!」

 那津男は、突き飛ばすように遥奈を苦しめる手を離した。
 よろけた遥奈は、ソファの背もたれに寄り掛かって手をついたものの、力が入らずに倒れてしまった。その拍子にスカートが大きくまくれ上がり、年頃の少女らしい下着が見えてしまう。

「……!」

 それが予想外に淫らな姿に見えたのだろうか。那津男の視線は一瞬、義理の娘の下半身に向けて好色そうな光を放った。
 僅かに見せた那津男のケモノじみた視線から目をそらし、慌ててスカートの裾を抑えた遥奈は、そのまま流れで床に頭をこすりつけた。そう、土下座の態勢である。

「お、お願いです! 私たちを、ここにおいてください! お母さんがいないのに、追い出されたら行くとこがありません!」

 それは、悲痛な叫びであった。横で聞く者がいれば、同情し、哀れみ、思わず手を差し伸べてしまう。そんな声音であった。
 だが、妻に裏切られた男の声は冷淡を極めた。

「知るか! あの女……、あの女の……っ」

 激情が再び甦ったのか、那津男の口からは意味のある言葉が出てこなかった。身体を震わせ、唇をわなわなとさせても、言葉が出てこない。目の前で惨めに土下座する少女に叩きつける言葉が出てこないが、それは哀れみからではないであろう。何故なら、その目には抑えがたい憎しみが宿っていたからだ。
 少し顔を上げて那津男の目を見た遥奈は、慌てて再び額を床に擦り付けた。

「お願い、します……! お金なら払います! 働いて、私と亜紀の分は稼ぎます! ……なんでも……しますから! だから! ここに……、居させてください……」

 床に向けて話しているわけではないであろうが、懇願する間、遥奈は額を床に擦り付けたまま、一瞬も離すことが出来なかった。
 追い出されたら、行くところが無い。
 追い出されたら、食べることも出来ない。
 生きるか、死ぬか。
 遥奈にとって、今、この瞬間が、自分と妹の生死の分かれ目であった。
 だが。

「……明日まで待ってやる。明日中に、ここから出ていけ……」

 さっきまでの激情はどこへ行ったのか、穏やかとさえ言える声で、那津男は無慈悲に告げた。

「ま、待って! お願い! 待って下さい!」

 遠ざかる気配を感じた遥奈は、ここで初めて頭を上げたが、目の前に見えたのは、芙由美と那津男の寝室への扉が閉まる光景であった。



「お姉ちゃん。あたし達どうなっちゃうの? お母さんはどこ行ったの?」
「大丈夫。亜紀は私が守るから、大丈夫、だいじょうぶ……」

 不安げな妹を抱き締めて、遥奈は大丈夫という言葉を呪文のように呟いた。

「荷物はまとめてあるでしょ? これまでと同じよ。ただ、お母さんが、いないだけ。大丈夫よ、大丈夫……」
「怖いよ……、お姉ちゃん、怖いよ……」
「大丈夫だから、ね? 今は、もう寝なさい」

 寝るにはまだ早い時間であったが、起きていても嫌な事しか考えられない。夜のうちに出来る事など無いのだから、とりあえず遥奈は亜紀を寝かせる事にした。明かりを消して布団に入り、目を瞑る。
 不思議と、母親の行方の事は頭に浮かんでこなかった。
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