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33.愛猫のノヴァ・魔族の始祖
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※動物が虐待されるシーンがあるので、苦手な方はご注意ください。
◆◆◆
硬いアスファルトを叩く雨音が響く。
ザァァァァ、ザザァァ、ザァァァァァァ――
車が時おり行き来する車道の横、薄暗い路地裏の奥。
白衣を着た怪しい男達が声を荒げる。
「――いったいどこに隠れたんだ!」
「せっかく成功した実験体だぞ。逃がしたなんて知れたら、ただじゃ済まされない……」
「なんとしても、早く探し出すんだ!!」
慌ただしく何かを探している男達は、その場に見切りをつけ、足早に立ち去っていった。
「………………」
男達がいなくなったのを見計らい、物陰に隠れていた黒い影が動きだす。
(……あいつらの思い通りになんて、なってたまるか…………だけど……)
黒い影の足取りはおぼつかず、よろめいてその場に倒れる。
もはや、立ち上がる力すら残っておらず、倒れたまま動けない。
傷を負っている体に冷たい雨が打ちつけられ、体温が奪われていく。
(……もう一歩も動けない……このまま……ここで死ぬのか……)
黒い影は達観した気持ちで、雨の降りしきる暗い空を見上げていた。
ふと気づくと、パシャパシャと小さな水音を立て、何かが近づいてくる。
「……わぁ! 猫ちゃんが大変だ!!」
雨で滲む視界に、ぼんやりと駆けてくる小さな人影が映った。
駆け寄ってきた人影は、黒い影――黒猫を優しく抱きかかえる。
(……あいつらより小さい……子供か? ……まあ、いいか……もう死ぬんだから、どうでもいい……)
人影は子供特有の高めの声で小さく囁く。
「もう大丈夫だよ。僕が絶対助けるからね」
黒猫の意識はそこで途切れた――
――何も感じないほど冷えていた体が、しだいに温もりを感じはじめる。
(……なんだか、いい匂いがする……それに、ふわふわで暖かくて、心地いい……)
まどろみから意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開くと、そこには心配そうに見つめている子供の顔があった。
そして、子供の表情がパァッと明るくなる。
「よかった。温まって震えも落ち着いてきたね」
黒猫は飛び上がって驚き、毛を逆立てて威嚇する。
フシャーーーー!
(なんだ、なんなんだ、こいつは?! あいつらの仲間なのか?!!)
黒猫が動けるようになったのを見て、子供は嬉しそうに微笑み、優しく穏やかな声で話しかける。
「あぁ、ごめんね。急に知らないところにきて、ビックリしたよね。でも、大丈夫だから安心して。病院でお薬も貰ってきたからね」
そう言いながら、包みから塗り薬を取り出し、後ずさる黒猫に近づいていく。
「まだ、お薬塗り終わってなかったから、塗らせてね」
ウ゛ゥーーーー!!
(嫌だ、触るな! 触るな!!)
黒猫がいくら威嚇しても、子供は怯む様子がなく、お構いなしに手を伸ばしてくる。
(嫌だ! 嫌だ! 痛いのも、苦しいのも、もう嫌だ!!)
ガリッ!
高ぶる黒猫が、伸ばされた手を鋭い爪で引っ掻いた。
「痛っ!」
思わず子供が手を引っ込め、その手に血が滲む。
子供は血の滲んだ手を見つめ、次いで黒猫に視線を向ける。
黒猫は、激昂した人間に、また痛めつけられると怯え、身構えた。
(嫌だ、嫌だ! また殴られて、蹴られて、痛めつけられる……それで、最後には切り刻まれるんだ!)
怯えて縮こまる黒猫にゆっくりと歩み寄っていき、子供は身をかがめて話しかける。
「……ごめんね、急に触ろうとして。怖かったんだよね……でも、そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ……ここには君を傷つける人なんていないから……」
子供は眉尻を下げ、怖がらせないように小さな声で囁きかけた。
「ほら、怖くないよ……」
害意はないのだと、ゆっくりとした動きで両手を開き、黒猫の前で床につけて見せる。
(人間なんて苦痛を与えてくるだけの存在……その薬もきっとそうだ……やめろ、来るな! 近づくな!!)
「ただ、手当がしたいだけだから、少しだけ触らせてね……」
ウ゛ウ゛ゥゥゥゥ!
威嚇し唸り続ける黒猫に、子供はさらにゆっくりと手を伸ばす。
(また痛めつけられるために生かされるなんて、絶対にごめんだ!!)
ガブッ!!
黒猫は子供の腕に思いきり噛みついた。
「う゛っ!」
子供が痛みに呻くが、黒猫は弱った体で力の限り食い縛る。
ウ゛ウ゛ゥゥゥゥゥゥ!!
(もう、殺されたってかまわない、死ぬまで抗い続けてやる! 弱りすぎて“能力”は使えないが、人間の思い通りにはさせない!!)
子供は黒猫を振り払うこともなく、痛みに耐えながら、できるだけ優しい声で言う。
「怖くないよ……何があっても僕は君を傷つけたりしない……だから、大丈夫だよ…………ほら、ね?」
噛まれる腕をそのままに、もう片方の手で黒猫を優しく撫で、手早く傷薬を塗り終える。
穏やかに微笑みかけてくる子供に唖然とし、黒猫は噛んでいた腕を放した。
(…………なんで……なんでそんなことが言えるんだ? こんなに引っ搔いて、噛みついて、深い傷までつけたのに……なんで、そんな風に笑えるんだ?)
黒猫は子供の言動が理解できず、狼狽えながら後ずさり、いつ襲いかかってくるかもしれない暴力に怯え、ただ震えていたのだった。
それから何日もそんなことが繰り返され、黒猫は触れられるたびに暴れて傷を増やし、餌にも口をつけず、衰弱していった。
日に日に弱っていく様子の黒猫を、必死に世話しながら子供はなおも話しかける。
「ご飯、少しでもいいから食べて……このままじゃ、傷も治らないし、元気になれないよ……」
子供は黒猫の痛々しい姿を見るたびに胸を痛め、涙を浮かべた目で見つめた。
「お願いだよ……君に生きていて欲しい……元気になってもらいたいんだ……」
そう言って、子供は本当に辛そうに涙をこぼし、声を殺して泣きじゃくる。
(わからない……これは何か目的があって、信用させるために演じているのか……?)
黒猫が傷つき弱っていくのが耐えられないのだと訴える、そんな子供の姿を見ていれば、黒猫も胸が打たれた。
(そこまでするなら、少し様子を見てやってもいい……見定めてやる……)
黒猫は恐る恐るキャットフードに鼻を近づけ、匂いを嗅ぎ、小さく舌を出して舐め、少しずつ食べはじめる。
「わぁ……食べてくれた! 嬉しい……嬉しいな! ありがとう」
泣きじゃくっていた子供が、表情を明るくして、本当に嬉しそうに泣き笑う。
そうして、子供の世話を受け入れるようになり、黒猫は徐々に回復していった。
「傷もだいぶ良くなってきたね。偉いね、よく頑張ったね。あともう少しだから、一緒に頑張ろうね――ノヴァ」
嬉しそうに微笑む子供は黒猫を褒め称え、愛猫に名前をつけた。
その後、共に暮らしはじめた黒猫は、子供から大切にされながら、内心で独りごちる。
(一緒に暮らしてみて、少しずつわかってきた……)
「ノヴァ、今日のご飯は特製ササミのスペシャルコースだよ! さあ、た~んと召し上がれ~♪」
(この子供――真人は、白衣の研究員とはまったく関連がないこと……)
「ノヴァ、新しいネズミのオモチャを作ってみたよ! ほらほら、見てみて~、フリフリフリ~♪」
別の日も、お手製の猫用オモチャをたくさん抱えて、ルンルン気分でやってくる。
(それと、無類の動物好きで、特に自分のことが――愛猫・ノヴァのことが大好きだということ……ようは、ただの猫バカだということだ!)
「ノヴァ、見てみて、僕のこだわり抜いた大傑作、スーパー・キャットタワー! じゃじゃ~ん♪」
また別の日も、段ボールでドデカい遊び場を作って見せ、ソワソワしながら聞いてくる。
「わぁ~、気に入ってくれたんだね。嬉しい~♡」
黒猫のちょっとした反応にも、真人は大はしゃぎして喜んだ。
これでは、どちらが喜ばせているのだか、わからないくらいに。
「ふわ~ん、ノヴァ可愛いすぎる~♡ お目々真ん丸にして驚いてるお顔も最高にキュ~ト♡ モッフモフに逆立った尻尾も、ピンと立った三角お耳も、たまら~ん♡ もうもう、好き好き大好き、ちゅっちゅっちゅ♡」
黒猫を抱きしめて、大歓喜してキス攻めする真人。
う゛ぅぅぅぅぅ……。
(ああ、もう! しつこいのは嫌いだ!!)
機嫌を損ねた黒猫が肉球でキス攻めを拒否し、するりと腕から抜け出して逃げる。
「うわぁ~ん、ノヴァに嫌われたぁ~……しくしくしくしく」
黒猫はそっけなくしつつも、泣いている真人の横にぺったりとくっつき、尻尾を絡めてさりげなく甘える。
「ノヴァ♡♡♡」
それだけで、泣きべそをかいていた真人は表情を明るくし、幸せそうに微笑むのだ。
そんな平穏な日々が何年か続き、黒猫は研究員にも見つかることもなく過ごしていた。
このまま真人の飼い猫として、穏やかで幸せな一生を終えるのだと、思っていたが――
――しかし、不運は突如として訪れる。
「ノヴァ、いつも通りお留守番お願いね。それじや、行ってきます」
「ニャー」
「って、あれ? ……どこからか、雛の鳴き声聞こえない?」
家から出てすぐのところ、鳥の巣から落ちた雛鳥に気づいて、巣に戻そうとする真人の姿を、黒猫は見守っていた。
それは、偶然なのか必然なのか、錆びた看板が突風に吹き飛ばされ、真人を目掛けて落ちていった。
通行人が看板に気づき、悲鳴をあげる。その瞬間――
「きゃあ! 危ないっ!!」
――黒猫は考える間もなく、“特殊な能力”を使っていた。
看板が宙に浮かぶ。
物理法則を完全に無視した動作をし、看板は地面に落ちて粉々に砕け散る。
「なに……今の?」
真人は己の目を疑い、呆然とした。
「な、なんだ……今、変な動きしなかったか?」
「浮いてたよな? そんで曲がって落ちていった……」
ほんの僅かな時間ではあったが、通行人も多く、目撃者は多数いた。
その一件がきっかけで、黒猫は研究員に特定され、捕らえられてしまった。
ガシャンッ!
堅牢な檻に入れられ、厳重な拘束具までつけられて、逃亡することは叶わない。
「ようやく見つけたぞ……実験体・アルファ」
白衣の初老の男。研究員局長が不気味な笑みを浮かべ、黒猫を見下ろす。
「成功した実験体は、アルファしかいなかったんだ……これでやっと、研究が進展する……ふふふ」
黒猫は必死に逃げ出そうとした。
何度も何度も脱走を図り、真人の元へ帰ろうとしたのだ。
(嫌だ、嫌だ! ……痛い、苦しい! ……ああ、真人! 真人、助けて!! ……帰りたい! 真人のところに帰りたいんだ!!!)
黒猫の体は日々少しずつ切り刻まれ、実験の合成素材として使われていった。
「……また駄目か……また失敗……これも不完全……どれもこれも、出来損ないの失敗作ばかりだ……」
また逃げられないように、黒猫は手足まで焼き切られていた。
(……痛い、痛い……体が切り刻まれていく……もう嫌だ! こんな苦しいのは、もう嫌だ! …………だけど、死にたくない……死んだら、真人が悲しむ……)
黒猫はなけなしの思いで、なんとか生きていたのだ。
「アルファを超える個体はできないのか! これでは、アルファを刻んで合成した意味がないではないか!! ぐぬぬ、次こそは成功させる……最終手段だ。アルファをすべて投入し、合成する――」
長年の研究の集大成、合成生物の素材として黒猫は使われる。
黒猫は死の間際まで、真人の名を叫び、会いたいと強く願った。
(嫌だ! 死にたくない! 真人が待ってるんだ!! 真人に会いたい! 帰りたい、真人! 真人!! 真人っ……真人に、会いたい……)
意識が途絶えるその瞬間まで、それだけを願い続けて――
――長い長い時間を経て、自我が目覚めると、聞き覚えのある嫌な男の高笑いが聞こえる。
「は……ははは、ついに成功したぞ! これこそが完全体だ! 我々の研究もついに報われる時がきたのだ!!」
(……生きてる? 死んだはずなのに……体がうごく……だけど、何かおかしい……)
無くなったはずの手足の違和感に気づき、黒猫は自分の体に目を向ける。
(これは?! ……人の手? ……猫の体じゃない……人間みたいな体? いや、違う……)
研究所のガラスに映る自分の姿は、黒猫の姿ではなかった。
作り物みたいな人間の子供の顔、髪も肌も真っ白で、目だけが赤い。
さらに動物の脚に尻尾の生えた、まさに合成生物――化け物の姿だったのだ。
「さあ、完全体・アルファよ、その力を見せてみろ!」
研究員達が近づいてきて、迫りくる手に黒猫は恐怖し、絶叫した。
キイヤアアアアァァァァ!
耳を劈く叫声がこだますれば、極めて強固なはずのガラスや壁がひび割れて砕け、決壊していく。
「なっ! これは、想像以上の破壊力!! はは、はははははは――」
決壊していく研究室の中で、男の狂気的な笑い声が響く。
黒猫は一心不乱に逃げだし、研究施設から脱走して街中へと隠れた。
だが、逃走する途中で、決壊する瓦礫の下敷きになりかけ――
ガラガラガラガラガシャアァァァァンーーーー……
――駆けてきた何者かに、黒猫は身を挺して庇われ、命を救われたのだ。
黒猫は、その優しく抱きしめる腕の温もりを知っていた。
「良かった。無事みたいだね……」
聞き馴染のある、だけど少し大人びた声。
(会いたかった! 会いたくてたまらなかった! ようやく会えたんだ、真人!!)
歓喜する黒猫は腕から抜け出し、真人へと振り返る――
「っ、……ごふっ!」
――そして、絶望した。
吐血する真人は瓦礫に半身が埋まり、致命傷を負っていた。
直感的に、もう助からないとわかってしまったのだ。
(……今の自分には、すべてを破壊する力はあっても、傷を癒す力はない……)
茫然と立ち尽くしていた黒猫は、真人の呼吸が弱まる姿を見て、瞬時に決断する。
(今できないなら、癒せる力を持った未来の自分に、自分の分身に託そう……そうするしか、真人を助けられる方法がない……)
黒猫は持ちうる全魔力を込め、未来へと繋がる魔法陣を出現させ、真人の頬に触れて転移させた。
魔法陣の眩しい光りが消えれば、そこにはもう真人の姿は跡形もなく消えている。
「……マ、ナ……ト……」
掠れたたどたどしい声で、その名前を呟いた。
黒猫の空虚を見つめる瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
(ただ、会いたかったんだ……どんなに醜い姿でも、出来損ないの化け物になったとしても……真人は愛してくれるって、知っていたから……)
目を閉じれば思い出せる。
優しい温もりも、穏やかな声も、明るい笑顔も、愛情に満ちた眼差しも、何もかも全部。
(会いたい……会いたい……真人……)
黒猫は、真人の挫けない真っすぐな笑顔を思い出し、目を開け、顔を上げる。
(いや、会える……必ず会える。何度、体が変わっても、何度、生まれ変わったとしても、この魂は真人を求め続けるから……遠い未来、きっとまた出会える――)
――黒猫は時をかけた。遥か遠い未来に、想いを馳せて――
◆
◆◆◆
硬いアスファルトを叩く雨音が響く。
ザァァァァ、ザザァァ、ザァァァァァァ――
車が時おり行き来する車道の横、薄暗い路地裏の奥。
白衣を着た怪しい男達が声を荒げる。
「――いったいどこに隠れたんだ!」
「せっかく成功した実験体だぞ。逃がしたなんて知れたら、ただじゃ済まされない……」
「なんとしても、早く探し出すんだ!!」
慌ただしく何かを探している男達は、その場に見切りをつけ、足早に立ち去っていった。
「………………」
男達がいなくなったのを見計らい、物陰に隠れていた黒い影が動きだす。
(……あいつらの思い通りになんて、なってたまるか…………だけど……)
黒い影の足取りはおぼつかず、よろめいてその場に倒れる。
もはや、立ち上がる力すら残っておらず、倒れたまま動けない。
傷を負っている体に冷たい雨が打ちつけられ、体温が奪われていく。
(……もう一歩も動けない……このまま……ここで死ぬのか……)
黒い影は達観した気持ちで、雨の降りしきる暗い空を見上げていた。
ふと気づくと、パシャパシャと小さな水音を立て、何かが近づいてくる。
「……わぁ! 猫ちゃんが大変だ!!」
雨で滲む視界に、ぼんやりと駆けてくる小さな人影が映った。
駆け寄ってきた人影は、黒い影――黒猫を優しく抱きかかえる。
(……あいつらより小さい……子供か? ……まあ、いいか……もう死ぬんだから、どうでもいい……)
人影は子供特有の高めの声で小さく囁く。
「もう大丈夫だよ。僕が絶対助けるからね」
黒猫の意識はそこで途切れた――
――何も感じないほど冷えていた体が、しだいに温もりを感じはじめる。
(……なんだか、いい匂いがする……それに、ふわふわで暖かくて、心地いい……)
まどろみから意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開くと、そこには心配そうに見つめている子供の顔があった。
そして、子供の表情がパァッと明るくなる。
「よかった。温まって震えも落ち着いてきたね」
黒猫は飛び上がって驚き、毛を逆立てて威嚇する。
フシャーーーー!
(なんだ、なんなんだ、こいつは?! あいつらの仲間なのか?!!)
黒猫が動けるようになったのを見て、子供は嬉しそうに微笑み、優しく穏やかな声で話しかける。
「あぁ、ごめんね。急に知らないところにきて、ビックリしたよね。でも、大丈夫だから安心して。病院でお薬も貰ってきたからね」
そう言いながら、包みから塗り薬を取り出し、後ずさる黒猫に近づいていく。
「まだ、お薬塗り終わってなかったから、塗らせてね」
ウ゛ゥーーーー!!
(嫌だ、触るな! 触るな!!)
黒猫がいくら威嚇しても、子供は怯む様子がなく、お構いなしに手を伸ばしてくる。
(嫌だ! 嫌だ! 痛いのも、苦しいのも、もう嫌だ!!)
ガリッ!
高ぶる黒猫が、伸ばされた手を鋭い爪で引っ掻いた。
「痛っ!」
思わず子供が手を引っ込め、その手に血が滲む。
子供は血の滲んだ手を見つめ、次いで黒猫に視線を向ける。
黒猫は、激昂した人間に、また痛めつけられると怯え、身構えた。
(嫌だ、嫌だ! また殴られて、蹴られて、痛めつけられる……それで、最後には切り刻まれるんだ!)
怯えて縮こまる黒猫にゆっくりと歩み寄っていき、子供は身をかがめて話しかける。
「……ごめんね、急に触ろうとして。怖かったんだよね……でも、そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ……ここには君を傷つける人なんていないから……」
子供は眉尻を下げ、怖がらせないように小さな声で囁きかけた。
「ほら、怖くないよ……」
害意はないのだと、ゆっくりとした動きで両手を開き、黒猫の前で床につけて見せる。
(人間なんて苦痛を与えてくるだけの存在……その薬もきっとそうだ……やめろ、来るな! 近づくな!!)
「ただ、手当がしたいだけだから、少しだけ触らせてね……」
ウ゛ウ゛ゥゥゥゥ!
威嚇し唸り続ける黒猫に、子供はさらにゆっくりと手を伸ばす。
(また痛めつけられるために生かされるなんて、絶対にごめんだ!!)
ガブッ!!
黒猫は子供の腕に思いきり噛みついた。
「う゛っ!」
子供が痛みに呻くが、黒猫は弱った体で力の限り食い縛る。
ウ゛ウ゛ゥゥゥゥゥゥ!!
(もう、殺されたってかまわない、死ぬまで抗い続けてやる! 弱りすぎて“能力”は使えないが、人間の思い通りにはさせない!!)
子供は黒猫を振り払うこともなく、痛みに耐えながら、できるだけ優しい声で言う。
「怖くないよ……何があっても僕は君を傷つけたりしない……だから、大丈夫だよ…………ほら、ね?」
噛まれる腕をそのままに、もう片方の手で黒猫を優しく撫で、手早く傷薬を塗り終える。
穏やかに微笑みかけてくる子供に唖然とし、黒猫は噛んでいた腕を放した。
(…………なんで……なんでそんなことが言えるんだ? こんなに引っ搔いて、噛みついて、深い傷までつけたのに……なんで、そんな風に笑えるんだ?)
黒猫は子供の言動が理解できず、狼狽えながら後ずさり、いつ襲いかかってくるかもしれない暴力に怯え、ただ震えていたのだった。
それから何日もそんなことが繰り返され、黒猫は触れられるたびに暴れて傷を増やし、餌にも口をつけず、衰弱していった。
日に日に弱っていく様子の黒猫を、必死に世話しながら子供はなおも話しかける。
「ご飯、少しでもいいから食べて……このままじゃ、傷も治らないし、元気になれないよ……」
子供は黒猫の痛々しい姿を見るたびに胸を痛め、涙を浮かべた目で見つめた。
「お願いだよ……君に生きていて欲しい……元気になってもらいたいんだ……」
そう言って、子供は本当に辛そうに涙をこぼし、声を殺して泣きじゃくる。
(わからない……これは何か目的があって、信用させるために演じているのか……?)
黒猫が傷つき弱っていくのが耐えられないのだと訴える、そんな子供の姿を見ていれば、黒猫も胸が打たれた。
(そこまでするなら、少し様子を見てやってもいい……見定めてやる……)
黒猫は恐る恐るキャットフードに鼻を近づけ、匂いを嗅ぎ、小さく舌を出して舐め、少しずつ食べはじめる。
「わぁ……食べてくれた! 嬉しい……嬉しいな! ありがとう」
泣きじゃくっていた子供が、表情を明るくして、本当に嬉しそうに泣き笑う。
そうして、子供の世話を受け入れるようになり、黒猫は徐々に回復していった。
「傷もだいぶ良くなってきたね。偉いね、よく頑張ったね。あともう少しだから、一緒に頑張ろうね――ノヴァ」
嬉しそうに微笑む子供は黒猫を褒め称え、愛猫に名前をつけた。
その後、共に暮らしはじめた黒猫は、子供から大切にされながら、内心で独りごちる。
(一緒に暮らしてみて、少しずつわかってきた……)
「ノヴァ、今日のご飯は特製ササミのスペシャルコースだよ! さあ、た~んと召し上がれ~♪」
(この子供――真人は、白衣の研究員とはまったく関連がないこと……)
「ノヴァ、新しいネズミのオモチャを作ってみたよ! ほらほら、見てみて~、フリフリフリ~♪」
別の日も、お手製の猫用オモチャをたくさん抱えて、ルンルン気分でやってくる。
(それと、無類の動物好きで、特に自分のことが――愛猫・ノヴァのことが大好きだということ……ようは、ただの猫バカだということだ!)
「ノヴァ、見てみて、僕のこだわり抜いた大傑作、スーパー・キャットタワー! じゃじゃ~ん♪」
また別の日も、段ボールでドデカい遊び場を作って見せ、ソワソワしながら聞いてくる。
「わぁ~、気に入ってくれたんだね。嬉しい~♡」
黒猫のちょっとした反応にも、真人は大はしゃぎして喜んだ。
これでは、どちらが喜ばせているのだか、わからないくらいに。
「ふわ~ん、ノヴァ可愛いすぎる~♡ お目々真ん丸にして驚いてるお顔も最高にキュ~ト♡ モッフモフに逆立った尻尾も、ピンと立った三角お耳も、たまら~ん♡ もうもう、好き好き大好き、ちゅっちゅっちゅ♡」
黒猫を抱きしめて、大歓喜してキス攻めする真人。
う゛ぅぅぅぅぅ……。
(ああ、もう! しつこいのは嫌いだ!!)
機嫌を損ねた黒猫が肉球でキス攻めを拒否し、するりと腕から抜け出して逃げる。
「うわぁ~ん、ノヴァに嫌われたぁ~……しくしくしくしく」
黒猫はそっけなくしつつも、泣いている真人の横にぺったりとくっつき、尻尾を絡めてさりげなく甘える。
「ノヴァ♡♡♡」
それだけで、泣きべそをかいていた真人は表情を明るくし、幸せそうに微笑むのだ。
そんな平穏な日々が何年か続き、黒猫は研究員にも見つかることもなく過ごしていた。
このまま真人の飼い猫として、穏やかで幸せな一生を終えるのだと、思っていたが――
――しかし、不運は突如として訪れる。
「ノヴァ、いつも通りお留守番お願いね。それじや、行ってきます」
「ニャー」
「って、あれ? ……どこからか、雛の鳴き声聞こえない?」
家から出てすぐのところ、鳥の巣から落ちた雛鳥に気づいて、巣に戻そうとする真人の姿を、黒猫は見守っていた。
それは、偶然なのか必然なのか、錆びた看板が突風に吹き飛ばされ、真人を目掛けて落ちていった。
通行人が看板に気づき、悲鳴をあげる。その瞬間――
「きゃあ! 危ないっ!!」
――黒猫は考える間もなく、“特殊な能力”を使っていた。
看板が宙に浮かぶ。
物理法則を完全に無視した動作をし、看板は地面に落ちて粉々に砕け散る。
「なに……今の?」
真人は己の目を疑い、呆然とした。
「な、なんだ……今、変な動きしなかったか?」
「浮いてたよな? そんで曲がって落ちていった……」
ほんの僅かな時間ではあったが、通行人も多く、目撃者は多数いた。
その一件がきっかけで、黒猫は研究員に特定され、捕らえられてしまった。
ガシャンッ!
堅牢な檻に入れられ、厳重な拘束具までつけられて、逃亡することは叶わない。
「ようやく見つけたぞ……実験体・アルファ」
白衣の初老の男。研究員局長が不気味な笑みを浮かべ、黒猫を見下ろす。
「成功した実験体は、アルファしかいなかったんだ……これでやっと、研究が進展する……ふふふ」
黒猫は必死に逃げ出そうとした。
何度も何度も脱走を図り、真人の元へ帰ろうとしたのだ。
(嫌だ、嫌だ! ……痛い、苦しい! ……ああ、真人! 真人、助けて!! ……帰りたい! 真人のところに帰りたいんだ!!!)
黒猫の体は日々少しずつ切り刻まれ、実験の合成素材として使われていった。
「……また駄目か……また失敗……これも不完全……どれもこれも、出来損ないの失敗作ばかりだ……」
また逃げられないように、黒猫は手足まで焼き切られていた。
(……痛い、痛い……体が切り刻まれていく……もう嫌だ! こんな苦しいのは、もう嫌だ! …………だけど、死にたくない……死んだら、真人が悲しむ……)
黒猫はなけなしの思いで、なんとか生きていたのだ。
「アルファを超える個体はできないのか! これでは、アルファを刻んで合成した意味がないではないか!! ぐぬぬ、次こそは成功させる……最終手段だ。アルファをすべて投入し、合成する――」
長年の研究の集大成、合成生物の素材として黒猫は使われる。
黒猫は死の間際まで、真人の名を叫び、会いたいと強く願った。
(嫌だ! 死にたくない! 真人が待ってるんだ!! 真人に会いたい! 帰りたい、真人! 真人!! 真人っ……真人に、会いたい……)
意識が途絶えるその瞬間まで、それだけを願い続けて――
――長い長い時間を経て、自我が目覚めると、聞き覚えのある嫌な男の高笑いが聞こえる。
「は……ははは、ついに成功したぞ! これこそが完全体だ! 我々の研究もついに報われる時がきたのだ!!」
(……生きてる? 死んだはずなのに……体がうごく……だけど、何かおかしい……)
無くなったはずの手足の違和感に気づき、黒猫は自分の体に目を向ける。
(これは?! ……人の手? ……猫の体じゃない……人間みたいな体? いや、違う……)
研究所のガラスに映る自分の姿は、黒猫の姿ではなかった。
作り物みたいな人間の子供の顔、髪も肌も真っ白で、目だけが赤い。
さらに動物の脚に尻尾の生えた、まさに合成生物――化け物の姿だったのだ。
「さあ、完全体・アルファよ、その力を見せてみろ!」
研究員達が近づいてきて、迫りくる手に黒猫は恐怖し、絶叫した。
キイヤアアアアァァァァ!
耳を劈く叫声がこだますれば、極めて強固なはずのガラスや壁がひび割れて砕け、決壊していく。
「なっ! これは、想像以上の破壊力!! はは、はははははは――」
決壊していく研究室の中で、男の狂気的な笑い声が響く。
黒猫は一心不乱に逃げだし、研究施設から脱走して街中へと隠れた。
だが、逃走する途中で、決壊する瓦礫の下敷きになりかけ――
ガラガラガラガラガシャアァァァァンーーーー……
――駆けてきた何者かに、黒猫は身を挺して庇われ、命を救われたのだ。
黒猫は、その優しく抱きしめる腕の温もりを知っていた。
「良かった。無事みたいだね……」
聞き馴染のある、だけど少し大人びた声。
(会いたかった! 会いたくてたまらなかった! ようやく会えたんだ、真人!!)
歓喜する黒猫は腕から抜け出し、真人へと振り返る――
「っ、……ごふっ!」
――そして、絶望した。
吐血する真人は瓦礫に半身が埋まり、致命傷を負っていた。
直感的に、もう助からないとわかってしまったのだ。
(……今の自分には、すべてを破壊する力はあっても、傷を癒す力はない……)
茫然と立ち尽くしていた黒猫は、真人の呼吸が弱まる姿を見て、瞬時に決断する。
(今できないなら、癒せる力を持った未来の自分に、自分の分身に託そう……そうするしか、真人を助けられる方法がない……)
黒猫は持ちうる全魔力を込め、未来へと繋がる魔法陣を出現させ、真人の頬に触れて転移させた。
魔法陣の眩しい光りが消えれば、そこにはもう真人の姿は跡形もなく消えている。
「……マ、ナ……ト……」
掠れたたどたどしい声で、その名前を呟いた。
黒猫の空虚を見つめる瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
(ただ、会いたかったんだ……どんなに醜い姿でも、出来損ないの化け物になったとしても……真人は愛してくれるって、知っていたから……)
目を閉じれば思い出せる。
優しい温もりも、穏やかな声も、明るい笑顔も、愛情に満ちた眼差しも、何もかも全部。
(会いたい……会いたい……真人……)
黒猫は、真人の挫けない真っすぐな笑顔を思い出し、目を開け、顔を上げる。
(いや、会える……必ず会える。何度、体が変わっても、何度、生まれ変わったとしても、この魂は真人を求め続けるから……遠い未来、きっとまた出会える――)
――黒猫は時をかけた。遥か遠い未来に、想いを馳せて――
◆
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おはぎ
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起きるとそこは見覚えのない場所。死んだ瞬間を思い出して呆然としている優人に、騎士らしき人たちが声を掛けてくる。何で頭に獣耳…?とポカンとしていると、その中の狼獣人のカイラが何故か優しくて、ぴったり身体をくっつけてくる。何でそんなに気遣ってくれるの?と分からない優人は大きな身体に怯えながら何とかこの別世界で生きていこうとする話。
知らない世界に来てあれこれ考えては心配してしまう優人と、優人が可愛くて仕方ないカイラが溺愛しながら支えて甘やかしていきます。
2度目の異世界移転。あの時の少年がいい歳になっていて殺気立って睨んでくるんだけど。
ありま氷炎
BL
高校一年の時、道路陥没の事故に巻き込まれ、三日間記憶がない。
異世界転移した記憶はあるんだけど、夢だと思っていた。
二年後、どうやら異世界転移してしまったらしい。
しかもこれは二度目で、あれは夢ではなかったようだった。
再会した少年はすっかりいい歳になっていて、殺気立って睨んでくるんだけど。
勇者になるのを断ったらなぜか敵国の騎士団長に溺愛されました
雪
BL
「勇者様!この国を勝利にお導きください!」
え?勇者って誰のこと?
突如勇者として召喚された俺。
いや、でも勇者ってチート能力持ってるやつのことでしょう?
俺、女神様からそんな能力もらってませんよ?人違いじゃないですか?
神様の手違いで死んだ俺、チート能力を授かり異世界転生してスローライフを送りたかったのに想像の斜め上をいく展開になりました。
篠崎笙
BL
保育園の調理師だった凛太郎は、ある日事故死する。しかしそれは神界のアクシデントだった。神様がお詫びに好きな加護を与えた上で異世界に転生させてくれるというので、定年後にやってみたいと憧れていたスローライフを送ることを願ったが……。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
世界を救ったあと、勇者は盗賊に逃げられました
芦田オグリ
BL
「ずっと、ずっと好きだった」
魔王討伐の祝宴の夜。
英雄の一人である《盗賊》ヒューは、一人静かに酒を飲んでいた。そこに現れた《勇者》アレックスに秘めた想いを告げられ、抱き締められてしまう。
酔いと熱に流され、彼と一夜を共にしてしまうが、盗賊の自分は勇者に相応しくないと、ヒューはその腕からそっと抜け出し、逃亡を決意した。
その体は魔族の地で浴び続けた《魔瘴》により、静かに蝕まれていた。
一方アレックスは、世界を救った栄誉を捨て、たった一人の大切な人を追い始める。
これは十年の想いを秘めた勇者パーティーの《勇者》と、病を抱えた《盗賊》の、世界を救ったあとの話。
異世界転移して出会っためちゃくちゃ好きな男が全く手を出してこない
春野ひより
BL
前触れもなく異世界転移したトップアイドル、アオイ。
路頭に迷いかけたアオイを拾ったのは娼館のガメツイ女主人で、アオイは半ば強制的に男娼としてデビューすることに。しかし、絶対に抱かれたくないアオイは初めての客である美しい男に交渉する。
「――僕を見てほしいんです」
奇跡的に男に気に入られたアオイ。足繁く通う男。男はアオイに惜しみなく金を注ぎ、アオイは美しい男に恋をするが、男は「私は貴方のファンです」と言うばかりで頑としてアオイを抱かなくて――。
愛されるには理由が必要だと思っているし、理由が無くなれば捨てられて当然だと思っている受けが「それでも愛して欲しい」と手を伸ばせるようになるまでの話です。
金を使うことでしか愛を伝えられない不器用な人外×自分に付けられた値段でしか愛を実感できない不器用な青年
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