頽廃の王

鴻上縞

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船底のアフロディーテ②

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 雨季の過ぎた海面は、相変わらずに穏やかだ。船底から轟く呻き声は、打ち付ける波に紛れて砕け散る。反して小さな船室の一つからは、休憩中の船員達の高い笑い声が響いていた。
 未だお呼びのかからないベイルは、読み飽きた小説を片手に、もう片方の手にはトランプを数枚挟み込み、気怠げな様子でその一群に紛れ込んでいた。辺りが皆深緑色の軍服に包まれている中、薄汚れた麻のシャツは良く目立つ。雇われの漕ぎ手がこんな所にいるなど普通では考えられない事ではあるが、波立つ喧騒はそんな物を微塵も気にしてはいない。彼等の興味は落ちぶれた旧友などではなく、夕飯のメニューを掛けたゲームのみ。身分が違うのだから、ベイルにとってゲームの勝敗はなんら関係の無いものである。故に熱くもなれず、単なる長い航海の暇潰しとしてはもう親しみ過ぎたこの惰性に内心うんざりとしていた。とは言えこれ以外娯楽は一切無い。唯一の楽しみである奴隷の少年は殆どの時間を船底で呻いているのだから、甘んじるしかないのだけれど。退屈だ、と漏らしてしまわぬよう、ベイルは口元に咥えた煙草を噛んだ。
 ふと端の縒れたトランプ片手に握り締めたまだ血気逸る青年兵が、脈絡もなく顰めた声で囁いた。
「なあ、聞いたか。またアセリアで暴動だってよ」
 間も無く到着する港の情勢が思わしく無いと言うニュースは、狭い部屋に詰め込まれた誰の眉をも歪める程の物であった。
「おいおい、せっかく羽でも伸ばそうと思っていたのに、どう言う事だよ」
「ホラ、いただろう。トルキア派の……なんて言ったか、忘れちまったが、聖都で神童と呼ばれた男が。あいつがどうもセイルに潜伏しているんじゃないかってな。それでトルキア派がアセリアで息巻いているそうだ」
 青年兵はそう言うと、必死にその人物の名を捻り出そうと眉根を寄せた。部屋の中に十数人いる誰かしら、もしかすれば青年兵以外は、その名を思い浮かべていたのかもしれない。しかし誰の顔も皆白々しく乾いていて、視線は不自然にも揃って手元のトランプに落ちている。
「レイ……違うな、ラー……なあ、なんだっけ」
 遂に根を上げた青年兵が、隣のこちらも年若い兵の肩を叩いた。しかし彼は空惚けたように、小さく肩を竦めるばかり。
「嫌だねえ。せっかくの休戦だってのに」
 それっきり、この部屋にいる全員がその話を打ち切ろうと躍起になっている事実をベイルは静かに見守っていた。ここにいる誰の気持ちもベイルには良くわかる。例え仲間内の適当な世間話だったとしても、下手を言って密告でもされようものなら、この微温湯のような生活は一瞬にして剥奪されてしまう。青年兵の危うい好奇心を誰もが危惧していた。
 しかしそんな心配をよそに、彼はテーブル代わりの酒樽にずいと身を乗り出した。
「なあ、でも実際、最近の教皇はどうなんだ。聖騎士団解散だって、まともじゃあないぜ」
「やめとけよ。俺たち軍人は一応にも教皇側だって事になっているんだからさ」
 それ以上はみなまで言うなと止めに入る隣の兵を押し退けて、青年兵の狙いは不特定多数から、遂には絞り込まれて牙を剥いた。
「おい、ベイル。おまえはどうなんだよ」
 一瞬、不自然に場が凍り付いた事をベイルは肌で感じた。直ぐに態とらしく奇声を上げる群衆の優しさにうんざりしながら、煙草を揉み消し、ベイルは殊更ゆっくりと青年兵の瞳を覗き込む。彼の瞳は少年のように残酷な光で煌めいていた。
「レイトル、おまえ、俺みたいになりたいのか。一時代を築き上げた名うての傭兵が、今のおまえみたいにほんのちょっと軽口を叩いたらこのザマだ。毎日毎日汚ねえ奴隷の尻叩いて身銭稼いで、使えなくなったそいつ等を有無も言わせずブチ殺して、挙句今度はガレー船の雇われ漕ぎ手だぜ。落ちぶれたもんよ」
 思わず漏らした掠れた笑いは、意図せずとも何処か悲壮感を漂わせる。それを振り払うように、ベイルは口端を卑屈に歪めて見せた。
「悪い事は言わねえ。今はまだ、バカの振りしてんのが得策よ」
 今はまだ、と強調する事で、安堵が拡がってゆく。兵達は何事も無かったかのように、揃って手元に視線を落とした。

 それからベイルは直ぐに休憩室を出て、デッキへと上がった。木張りの板の上でなんとなしに彷徨く兵達は、相変わらず日に焼けた黒々とした肌を光らせている。平和を望み戦に馳せ参じた筈が、いざ不本意にその最前線から蹴落とされ、剰え世界が休戦と言う名の束の間の安らぎの時を迎えてみると、どうにも歯痒くてならない。この歯痒さは何から来るものか、それを考える事こそが罪な気がして、ベイルが大きな身体を震わせた時だ。仄暗い船底からひょっこりと顔が覗いた。途端に何やら全てが馬鹿らしくなり、ベイルはゆったりと手を仰いだ。
「よう、どうだ調子は」
 何時もの如く糞壺の処理に出向いていたリシュは、濡れたデッキからゆっくりと視線だけを上げ、強張った笑みで目の前の男を迎え入れた。
「相変わらずさ」
 その口ぶりは軽やかで、随分と慣れたものだとベイルは感心したと共に、ある種恐怖にも似た寒気を覚えた。慣れたと言うより、彼の変化は劇的なものだった。リシュはベイルが最上の罰を与える存在でなくなったと言う現実を受け入れるのに、まるで時間を要さなかった。そしてこれまでの貧弱な表面を一蹴するかの如く軽やかに思考を切り替え、ベイルを唸らせて見せたのだ。
 しかし余計な思想を剥奪された奴隷の少年は、そう言ったっきり視線を何処に置くのか逡巡して見せた。無言が彼を殺すのを、ベイルはゆったりと流れる紫煙の行方と同じ面持ちで見詰めていた。例え彼の中で己の存在が恐怖の玉座から降りたとしても、やはりリシュにとって他人とは忌々しい物体でしかない事をベイルは深く感じた。何時か彼が、誰かを想う日が来るのだろうか。自らの手で死の船に乗せた癖に、ベイルの心はそんな感傷に満たされる。そしてそんな日が来る筈も無いと思う事が、驚く程に心地良いと感じる心に愕然とした。

 不意に、ほんの数日前の記憶が閃光のように瞼の裏側で瞬いた。純白の日傘を翻し、デッキに迷い込んだ令嬢の姿。美しい金髪、ふくよかな頬、艶やかな唇から発せられる小鳥の囀りに、毒を含ませたあの美しい令嬢。リシュはあの時、我を忘れ見惚れていた。長く付き合った自分でさえ打ち破る事の出来なかった硬い心の扉を、あの令嬢は造作もなく開いたのだ。あれは確かに、性の目醒めの瞬間だったであろう。まるで捕えた筈の小鳥が、知らぬ間に鳥籠を抜け出し、また知らぬ間に何食わぬ顔で餌を求めに舞い戻っているような。そんな心地がして、ベイルは知れず咥えていた巻煙草を噛み切った。微かな音を立て落ちた火種は、デッキが含む水分に呑まれ忽ち消え失せた。
 去りゆく背中に縫い付けられた瞳は、小さな後姿が消え去っても尚、その姿を映し出していた。それは確かな予感だったのだろう。彼が、決して捕らえる事の叶わぬ存在であることの──。

 数日前に癇癪を起こした一番漕ぎ手の青年が死んだのは、その日の夜更け過ぎだった。日没と共に遥かな大地から訪れた季節外れの北西風が平らな水面で吹き荒び、大蛇のような波が黒い船体を大きく揺らした。船底は四方から波が打ち付ける轟音と、より重くなった櫂を握る男達の野太い悲鳴とで混沌とした騒めきに満ちていた。
 そんな中で、リシュの受け持つ櫂の一番漕ぎ手の青年は、その粗野な口ぶりが災いし、昼間に鞭で打たれたばかりであった。燃えるように痺れた背には潮が酷く沁みて、彼は終始低い唸り声を上げ、1時間毎に与えられる五分程度の休憩など何の意味もなさず、自らに与えられた職務を全うする事もできず櫂にしがみ付いていた。そうなれば此れ幸いと、容赦の無い鞭が飛ぶ。結局青年は朝陽を見る事もなく、無残な物体となっても尚、夜明けまで櫂座に放置された。当然残された漕ぎ手の負担は相当なものである。主軸の欠員、荒波、そして、戦力にならぬ足の悪い奴隷の存在。お陰でリシュの櫂の誰もが幾度も後ろの櫂に頭をぶつけ、前の櫂に押し戻された。気力などとうに失せた筈の彼等をそれでも奮い立たせるものは、櫂座で息絶えた徒刑囚の存在であった。濡れて重みを増した革鞭に打たれた彼の身体からは鮮血が滴っていた事だろう。だが襲い来る飛沫や、船底の暗闇がそれも全て覆い隠してくれた。
 リシュは血の赤に、何時も忌々しい採石場の事故を思い出す。どれ程に時を経たとしても、石の礫のような雨や、人々の断末魔にも似た絶叫。何より悪いのは、あの恐怖であった。死と言う確固たる終焉。この世の何より深い絶望。そして、小さな肩に喰い込む、命の重み。赤い血を目にした途端、それが荒波のように押し寄せるのだ。

 高い笛の音が響き渡る。漕ぎ手がその休息の合図を受け漸く手を止める頃には、海面は昨夜の暴挙を微塵も感じさせぬ程穏やかに流れていた。燃える太陽が水面を辿る時刻だけ、船底には朝日が射し込む。薄っすらと訪れる光の筋に煌めく潮に荒れた黒髪が、少しの身動ぎできしきしと音を立てた。隣では一つの試練を乗り越えた徒刑囚が、地獄の一夜を生き抜いた安堵から嗚咽を漏らし泣いている。リシュは痛む身体を摩りながら、酷い気怠さに身を任せ、彼の言葉をぼんやりと聞いた。
 譫言のように呟かれる故郷の名。神への祈りのように叫ばれる女の名。彼はつい先日二番漕ぎ手の男が死んだ事で補填された徒刑囚で、嵐が初めてであった。まだ幼い横顔には、望郷の他に深い罪の意識が滲み出ていた。こう言う人間は、残念ながら長くは持たない。身体よりも先に神経が磨り減り、挙句は狂って殺されるのがオチだ。哀れな末路を想像し、リシュはゆっくりと重い瞼を閉じた。
 中央を走る通路では、監視兵達が死体を運び出している。誰も皆口の中で文句を噛みながら、それでもあと僅かで訪れる休息に胸を躍らせている様子があった。漕ぎ手達にもその恩恵は与えられるのだが、それよりも今は痛みきった身体を何も考えずに休めたい。誰の心も等しく同じものであった。

 しかしその日は余りにも唐突な嵐故に死者が多く、遂に音を上げた監視兵の一人が、徐にリシュの名を呼んだ。反射的に立ち上がった奴隷に向けて、男はぞんざいに顎をしゃくった。その僅かな動作だけで全てを察したリシュは、疲れ切った身体に鞭打って、おずおずと手枷を差し出す。ここでもまた、リシュは死体の処理を任される事があるのだ。それが良い時もあれば、今日のように僅かな休息を貪る事も許されぬ日もある。だがやはり彼は優秀な奴隷故に、微塵もその落胆を見せず、重さを増した男の身体を不自由な足で器用に引き摺り船底を出た。
 慣れているとは言え、大人の男を引き摺り足場の悪い階段を上るのは重労働だ。加えて昨晩の嵐は想像以上に酷いもので、全身が鉛のような気怠さを纏っている。これを何往復もするのかと思うと、リシュでさえ気が滅入りそうになった。

 やっとの思いでデッキに上がると、何やら騒ぎが起こっているようだった。揃いの軍服に身を包んだ黒山の人だかりは、口々に何かを叫んでいる。波の騒めきと、余りの人の多さに内容は聞こえないが、大方良くある客との揉め事なのだろう。そう決め込んだリシュは、伺うように共に死体を運んでいた監視兵に視線を投げた。客の眼前での死体処理は禁止とされている。故に今ここで何時ものように海へと投げ込む事は出来ない。そもそも客がデッキに出る事は基本的には許されないのだが、退屈な船内でジッとしていろと言って素直に従う者は少ない。旅の行商人ならまだしも、貴族ならば尚のこと。
 丁度その時、黒山の一人がこちらに気付き、慌てた様子で手招いた。
「おい、すまないが手を貸してくれ」
 勿論、それはリシュではなく、監視兵に向けられた言葉である。隣の男は軽い溜息を吐き出してから、担いでいた死体をぞんざいに投げ捨てた。
「あとはやっておけよ」
 その言葉だけを残し、数人いた兵達は、死体の処理を放り出し、黒山に混ざり合っていった。これで全てを一人で片付けなくてはならなくなったのだが、リシュの頭にはそんな恨言など微塵も浮かばず、ただ従順に死体を引き摺り船尾へ向かった。
 船尾に普段あるはずの兵の姿は無かった。大方船首の方での騒動に出向いているのだろう。一体何があるのかは知らないが、そもそも興味もない。リシュは与えられた仕事を黙々とこなしながら、こっそりと空を仰いだ。
 昨晩の嵐がやはり嘘のように晴れ渡った空を、鳶が悠々と泳いでいる。陸地が近い証拠だ。風も心なしか土の匂いを含ませているようで、リシュは随分と長い航海をしている気になった。前の港を出たのはもう、一月も前の事だ。
 丁度その時、遠い下部から暗く鈍い音が躍り上がった。そこで我に帰ったリシュは、海面に浮かぶ男の姿に思わずと言った様子で飛び上がって驚いた。放り出したのは他でもないリシュだが、海風と蒼天が彼の思考を遙かへ持ち去っていたようだ。こんな事ではいけないと心の中で喝を入れはしたものの、目の前に唯々悠然と手を拡げて待ち受ける死に、足は竦むばかりであった。それでも彼はやはり優秀故に逃げ出す事もせず、黙々と船底と船尾を往復した。

 最後の死体を船尾に連れて来た頃には、海面を撫でていた太陽は既に頭上にまで昇っていた。昨日の嵐のお陰で損傷した所がないか確認しているのか、随分と長い休息を取ったらしい。船底を何度か往復したが、監視兵にせっつかれる事も、死んだように眠る漕ぎ手達が起き上がる気配も無かった。夜通し櫂を漕ぎ、挙句この重労働を一人でやり終えた身体はやはり、想像以上の疲労が蓄積されている。先程から足の震えは止まらず、冷や汗ばかりが顎を伝う。この暑さの中、全身が凍ったように温度を持っていない。今にも倒れそうになりながら、リシュはそれでも最後の死体を海へと放り投げた。
 息を吐く暇もなく、与えられた仕事を終えた事を監視兵に伝えに行かなくては。そう思い振り向くと、視界の隅に人影が淀んだ。何かが反射しているかのようにその人物は輝いて見え、全貌はいまいち掴めない。疲れから来るものだったのかも知れないが、リシュの内に眠る本能が、どうやら青年らしいその人物に近付いてはならないと警鐘を鳴らしていた。
 軽い目眩にフラつきながら、リシュは身を屈め足早にその場を去ろうと試みた。
「ちょっと君」
 そんな声も聞こえたが、どうやら兵士ではない人物に、奴隷の自分がこの身を見せる事さえ罪深い。立ち止まるどころか、リシュの不自由な足は、限界の速さで動く。しかし──。
「ねえ、君だよ」
 荒げられた声に、小さな心臓が悲鳴を上げた。どうやら最善と思っての行動が、彼を怒らせてしまったようだ。リシュは直ぐさま地に伏せって、額を湿ったデッキに擦り付けた。相手がどう出るか気が気ではない。この事を兵にでも伝えられたら、手酷い仕置きが待っている事だろう。
 だが青年は酷く驚いた様子で慌てて目線を合わせるように膝を付き、震える少年の顔を慎重に覗き込んだ。
「すまない、驚かせてしまったかな」
 今数度聞いたその声が質を変えて押し寄せた瞬間、リシュはハッとして思わず顔を上げた。
 間近に飛び込んだ青年の瞳は、丁度今日の海のように澄みきった青緑色であった。緩やかに目尻が垂れた瞼を縁取る睫毛も、海風に揺れる柔らかな前髪も、目の醒めるような白金色。その年齢では凡そ不可能に近い、幼気な純潔の色を持っていた。彼はまるで、姿形がその高貴な精神の化身であるかの如き造形をガレー船のデッキと言う似付かわしくもない場所に惜しげも無く晒している。なんと、美しい青年だろうか。その感銘に、リシュの痩せた身体は大いに震えた。しかしその声は、恐ろしい悪夢を呼び覚ます。
 彼こそが何時かベイルが嘲笑混じりに漏らした人物、リーベルと言う名の青年である事は、聖人の持つ穏やかな自尊心に溢れる声質によりリシュの知る事となった。決して関わってはいけない。そう本能が悲鳴を上げるも、元来の隷属性はこの場から逃げ去る事を許してはくれず。リシュは促されるまま、美貌の聖人の前に無防備を晒し立ち竦む事となった。しかしリーベルもまた、石のように固まる奴隷の少年をどう扱ったら良いのか少しの間思案するように眉尻を下げていた。が、その困惑の表情さえ輝かしい光に満ちている事にリシュは愕然とした。眩しい。眩し過ぎるが故に、リシュは小さな身体を更に縮こめるように背を曲げた。
 意を決するように口を開いたものは、当然にも美貌の青年であった。
「少し手を貸して貰えないかな」
 リシュは酷く狼狽えた。彼は自分を所有する主人では無く、その命令に従うには許しがいる。かと言って無下にする事の叶わぬ人物である事はよくよく理解している。彼は行商人でも無ければ、金の無い旅人でも無い。沈黙がするどい棘を持ち襲い来る。酷く息苦しくて、リシュは二、三度深く息を吸い込んだ。
 そこへ丁度現れた兵士があった。それなりに年を重ねた、聡明そうな男である。男はこの不穏な空気を素早く察し、リシュを一瞥してから伺うようにリーベルに頭を下げた。
「アルド様、嵐が去ったと言えどデッキは危険です。どうぞ船室にお戻り下さい」
 その媚びるような声は、リシュの救いにさえ思えた。これで仕事に戻る事が出来ると言う安堵は、痩せた肺に力を与えた。
 しかしそのリシュの細やかながら大いなる安堵は、たちどころに吹き飛ばされてしまう。他でも無い、美しい聖人の手によって。
「彼、徒刑囚ではないのだろう。少し貸しておくれ。船は、まだ動かないだろう」
 ほんの少し、と念押して、リーベルは強引にリシュの手を引いた。

 手を引かれるまま、リシュは一年この船に繋がれていて、初めて見る景色を目の当たりにした。鈍い淀みを抱いたデッキとは似ても似つかぬ、光沢のある木目の床。まだ陽の高い時刻でも何処もかしこも薄暗いガレー船の印象を払拭するように、等間隔で壁に掛けられた橙黄色のカンテラが照らし出す、眩い光に満ちた世界。煌めきが、瞳を貫くように後頭部へと抜けてゆく。
 そこは嘗てガレー船が軍船として扱われていた頃、来賓を泊める為の部屋があり、休戦を迎えてからは客室として使われている場所である。それも商人ではなく、今リシュの手を引くこう言った上流階級の為に、近年手を入れられたものだ。当然、奴隷の身である彼は足を踏み入れた事もなければ、このような場所がこの船にあった事すら想像も出来なかった。
 まるで別世界。そう認識するや、リシュは己の手を握る手肌のきめ細やかさや、塵一つ入り込む余地のない桜色の爪。真っ直ぐに伸びる背筋に、頭上で軽やかに踊る白金色の髪が恐ろしいもののように感じた。それと共に、その命まで全てに美を染み込ませたこの青年から目を離すことすら出来なかった。奴隷の身である自分が、幾ら背中と言えども紛う事なき貴族を直視するなど許されるはずもない。どれ程の重い罰がこの身に降りかかるだろうか。それでもリシュの深い瞳は、煌々とした光を放つ青年から逸れる事は無かった。
 彼は薄々と気付いていたのだ。美しきは、罪なのではないだろうか、と。純白の令嬢のように、この青年もまた人の瞳に鋭い光を投げ掛ける。無垢な瞳を縫い付けてこそ輝ける彼等は、この世の何よりも罪深いのではないか。

 幾許も行かぬうち、青年は一つの扉の前で一度振り返り、少し身を屈めてリシュの汚れた顔を覗き込んだ。
「僕はリーベル。リーベル・アルドと言うんだ。君の名前は」
 壁に反響し押し寄せた包み込むような甘美なテノールに、リシュの全神経が逆撫でされたように震えた。それは未だリシュが出逢った事のない音であり、また、一番縁遠い柔らかさを持っていた。例えるならば、春先の雪解け水が運ぶせせらぎの音のような。花園を撫でる、南風のような。陽だまりの中で母が唄う、子守唄のような。だがリシュはそれら全てを知らない。未知は目にも留まらぬ速さでその小さな身体の全てに恐怖を染み込ませた。故に慌てて視線を足元に落とし、彼は念じるように繰り返す。彼は主人ではない。だが主人の客人である。口をきくなど、あってはならない禁忌だ。
 リーベルは暫く黙って返答を待っていたが、頼りない肩が震えているのを見て、ゆっくりと上体を起こした。振り向きざま、上質な絹が潮で傷んだ黒髪に少し触れてから離れてゆく。同時に扉を開く音が聞こえ、再び引かれた手の強さに、リシュは思わず視線を上げた。そして広がる景色に閉口した。
 彼が船底の奴隷を導いた部屋は、確かに長い航海の間貴族を運ぶには申し分のない場所であった。広さも、装飾も、設備も、どれを取っても。だがその煌びやかな船室は、散乱した書類や衣服で埋め尽くされ、足の踏み場もない様子である。大凡この青年に似つかわしくない乱雑な部屋を見渡すリシュに、リーベルははにかんで見せた。
「昨日の嵐でこんな有様さ。実を言うとね、片付けが苦手なんだ」
 リシュはその幼気な表情に、再び己の立場も忘れ、思わず見入っていた。
 なんと美しい青年なのだろうか。これはこんな薄汚れた自分が触れてはならない物だ。その罪悪感からふと落とした視線の先、小さな指は、何時のものか知れぬ垢に纏われ黒々としている。清流に晒された白魚のような彼の指と同じものとは到底思えない。リーベルもまた俯いたリシュの視線を追って、塵芥の詰まった指先を眺めた。
「随分と汚れているね」
 そしてそう言うと、何の躊躇もなく、一度は離したその手を優しく握りしめたのだ。
「おいで、拭いてあげよう」
 未だ嘗てリシュが出逢った事のない柔らかな微笑を湛え、美貌が俄かに輝きを増した。触れてはならない。関わってはならない。踏み込んではならない。分かっている。だがどうして、輝く髪、薄紅の頬、金色の羽根に覆われた美しい瞳の色に囚われた視線は、逃れる術を知らなかった。酷い仕置きが待ち受けていようとも、例え、その先で死が手招いていようとも。

 洗い立ての純白のタオルが、汚れた指先をすっぽりと覆った。この指は船底で喘ぐ漕ぎ手達の糞壺を毎日運んでいるものだ。波に洗われはしても、汗で流れたとしても、その穢れはこびり付いて離れはしない。奴隷ではない彼が、何故何の躊躇もなくそんな汚れたものに触れる事が出来るのか。リシュはその驚きにピクリとも動く事が叶わなかった。
「何故、そんな顔で僕を見る」
 唐突なリーベルの言葉に我に帰ったリシュは、酷く狼狽えた。そしてどんな顔をしてこの美の化身たる青年を見詰めていたのかを考え、その恐ろしさに大きく身震いをした。それでもリーベルは穢れたその身を濡れたタオルでゆっくりと拭ってゆく。伏せった睫毛をじっと見詰めながら、浅黒い己の指先が白く変わってゆく様子に、リシュは生まれて初めて、これが触れた事のない、優しさというもの、慈しむと言うものなのだろうと感じた。哀れな奴隷の汚れた身体を、こんなにも優しく拭ってくれる。不思議な心地がした。嫌悪は無い。だが、高揚してゆく気持ちだけは、不愉快に鼓動を揺らす。

 美しい指が、痩けた頬に触れた。青緑色の瞳が、真っ直ぐにこの身を映し出した。その一瞬は、時が全て動くのを止め、世界にはたった二人。奴隷も、貴族も、男も女もない。二人はその瞬間、最果てにて出逢ったのだ。

 桜色の唇がゆっくりと囁く。
「教えておくれ。君の名を──」
 涸れた喉が震え、意思なき言葉が唇を通り過ぎようかとしていた。リシュは慣れ親しんだ禁忌さえ忘れ去り、知らぬ誰かに与えられた名を伝えようとしていた。しかしそれは叶わなかった。二人の時を悪戯に進めたものがあったのだ。
「お客さん、困るんですよね。それはそう言う用途の奴隷じゃないんで」
 何時の間にか開け放った扉に凭れ二人を見下ろし、努めて不躾な態度で割り入った者は、誰でもない。ベイルであった。彼もまた、本来ならばこの場に足を踏み入れる事の叶わぬ立場にある。数多の兵達とは異なった質素な服装は、誰が見ても旅商のものでも、勿論貴族のものでもない。故にリーベルは一度爪先から頭の天辺まで見回した後、訝しげに柳眉を顰めた。
「君が主人か」
「はあ?」
「この子の主人は君なのかと聞いているのだが」
 意図せず粗野な口ぶりになっていた事を、リーベルは自ら恥じたように一度瞼を伏せた。そしてこの場の、おそらくは本人さえも思い及ばぬ言葉が放たれた。
「この子を引き取りたい。必要ならば金は言い値で良い」
 一瞬にして沈黙が刃を持って満ちていった。リシュを連れに来ただけであったベイルも、まさかこんな事態になるとは露ほども思ってはおらず、見開いた瞼の間に、深い溝が刻まれている。リシュは最早自分の事とも考えられず、ぼんやりと流麗な輪郭を視線でなぞっていた。
 波が船を押し上げ、微かに起こった揺れで漸く我に帰ったベイルは、眉間に寄せた皺をそのままに、皮肉な笑みを漏らした。
「……お客さん、人の話を聞いていますか。こいつは奴隷としては優秀だ。だがそう言う用途ではてんで素人だ。あんたみたいな色男にゃあ退屈だぜ」
 そんな盛大な皮肉にも動じず、リーベルは再びリシュの瞳を覗き込む。
「君はどうしたい。このままこの船で、死ぬまでこき使われて、他人の排泄物を運んでいたいか」
 それは何よりもリシュを困らせる問い掛けであった。どうしたいかだなんて、彼が考えられる筈が無いのだから。ベイルはその言葉で今度は勝ち誇ったかのように口端を持ち上げて見せた。
「奴隷の扱いを分かってねえな、未来の公爵どの」
「よしてくれ。僕は君たちと同じく何の後ろ盾もない人間だ」
「休戦と言っても拡がる格差に憤慨して各地でトルキア派が拳振り上げてるってこのご時世、庶民が貴族の令嬢連れて船旅かよ。いい御身分だぜ全く」
 ベイルのその言種には酷く鋭い棘があった。言う通り、今優雅な船旅を楽しめるものがいるとすれば、由緒正しい本物の貴族か、武器商上がりや炭鉱を所有する成り上がりの貴族。そしてそれに上手く取り入った者位なものだ。故に、これまで凛とした態度で対峙していたリーベルは、その意図を汲んだ上で鼻先を上げ不躾な男に凄んで見せた。勿論、ベイルは蚊に刺されたとも感じなかったが。
「奴隷の扱いとは、どう言う意味だ」
 その言葉は、リーベルが如何なる環境に於いて育ったかを露呈しているようなものだった。
 下層階級の人間、例えばベイルのように他者に雇われ日銭を稼ぐ人種は、奴隷に慣れ親しんでいる。採石場や炭鉱に監督官として雇われれば、毎日奴隷と顔を合わせるのだから当然だ。だがリーベルのような上層階級の人種にしてみれば、奴隷の存在を認知はしていても、関わる事が殆どないのだ。彼等が召使いとして使う者は、例え下働きだとしても身元健やかな人種である。それを雇う財があるのだからこれもまた当然の事である。
 ベイルは目の前の世間知らずに苛立ちを覚え、軽い舌打ちを口の中で噛み潰しながらも、努めて平静を装った。
「そいつらはな、自我を捨て去るように仕込まれている。特に孤児奴隷はその色が他の奴隷より強い。分かるか。こいつに自分の未来を自分で決める能力は皆無なんだよ」
 ベイルの手厳しい言葉に、リシュは知れず、胸を撫で下ろしていた。この青年の側にいると、これまで十数年で築き上げて来た何もかもを打ち砕かれてしまう気がしていたのだ。生き抜く為身に付けて来た全て、剥ぎ取られてしまう。そうなればもう、リシュにはどう生きて行けば良いのか分からなかった。このまま引いてくれればいい。
 そんな二人の願いを打ち砕くよう、リーベルはふいと澄んだ瞳を投げ掛けた。
「だったら決まりだ。この子は僕が引き受けた。主人にそう伝えておいてくれ」
 その声には、抗えぬ強さがあった。何よりベイルに、それを止める権限などある筈も無かった。

 二人は脱力した肩を並べ、デッキまでの短い道程を歩んだ。初めてこの場所に踏み入れた時の、まるで別世界を見た感動など最早ない。煌めく世界は、嫌味にも取れるほど痛々しく視界で蠢いている。
「おいおい、なんて顔をしてんだ。もっと嬉しそうに出来ないのかねえ」
 長い時を共に過ごした男は、そう言って無理のある笑みを浮かべた。
「あれは間違いなくイイ男だ。幸せになんな」
 幸せとは、一体何だろうか。リシュは漠然とした疑問を抱いたまま、意味もなく頷いて見せた。
「俺もおまえに何か一つくらい、教えてやりたかったな」
 寂し気にそう呟いたベイルは、それっきり二度とは声を上げなかった。 

 運命と言う不確かな力に導かれるようにして美しい貴族に見初められ死の船を降りる事となった一人の奴隷の噂は、瞬く間にガレー船を駆け抜けて行った。漕ぎ手達は揃ってリシュに訪れた幸運に嘆いた。だが奴隷は徒刑囚とは立場が違う。暫くすれば誰もそれを自ら思い起こし、船が港に到着するまで何時もと変わらず櫂座で卑屈に背を丸めるリシュに捻くれた祝福の言葉を送った。リシュはぼんやりと、与えられる言葉を聞いていた。
 どうやら彼等にとってみれば、次の港で貴族に連れて行かれるこの身は幸福らしい。だがリシュは必ずしもそれが幸福とは思わなかった。彼はこの陰鬱な人生が鮮烈に照射され、変貌を遂げる事を望んではいなかった。彼が望んでいたものは、唯々拡がる惰性である。永劫変わらぬ安息の服従の中にいる事が、何より心地が良い。船底に打ち付ける波の音に心を傾けながら、リシュは迫り来る陸地の匂いに人知れず身を震わせた。
 予感がするのだ。全てが崩れ落ちゆく、予感が。 
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「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」 不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。 待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。 しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。 「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」 記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。 ----------------------------------------- 0時,6時,12時,18時に2話ずつ更新

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