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誘惑①
しおりを挟むそれから暫く、四方を山々に囲まれたこの辺りには気の早い雪がちらつくようになった。冬は突然ぐっと近付き、そしてまた少し離れてゆく。そうしているうちに、気付けば山から下りる凍った風が間も無く吹き出すだろう。
リシュは相変わらず子供たちが駆け出した後の寂しい部屋の片隅、大きな絵の前で熱心に別れの祈りを続けていた。けれどそれも一時の事で、薄い瞼に覆われた双眸が揃って睫毛の隙間から覗くと、教本を鞄に詰め込みその様子を見守っていた准教に頭を下げた。しかし足早に教会を去ろうとする背中に、准教は慌てて声を掛ける。
「ああ、待ちなさいリシュ」
リシュが呼び掛けに素直に足を止めた事を見届け、彼は教卓の引き出しを開き、一冊の古びた本を取り出した。
「これを持ってお行き」
恐る恐る受け取り、リシュはずっしりと重い本をじっくりと眺めた。燕脂の表紙には、掠れた文字で『頽廃の王』と書かれているだけである。一見しただけでもリーベルがたまに買って来るような易しい絵本などではない。リシュが読むに、その分厚い本はまだ早すぎる事は、彼自身も感じていた。
「君が毎日祈りを捧げているこの絵の作者、ポルトーの書いた小説だから、きっと君は喜んでくれると思うのだけれど」
准教はそう言って壁に掛けた絵の中に息衝く、カディアの大樹に祈りを捧げるリマ族達を仰いだ。リシュもまたその視線の先を追って、そして想いを馳せた。
巨大な塔のように太い幹に絡み付く蔓草の躍動。悠々と拡がる枝は低く、青々と茂る若葉はまるで風に揺れているかのよう。跪く己と同じ黒髪の人々の中心、腕を拡げる上裸の男の頬に、木洩れ日が一線差している。薄らと膨らむ筋肉に覆われた細い身体、深緑の中に於いては余りに透けるような白い肌。漆黒の髪は森を撫でる風にたなびき、引き絞った唇は、苦しみに堪えているようにも見える。
この絵を遺したポルトーと言う画家の男は、リマ族ではないらしい。だが彼はテラー教の教えを受け、テラー神を崇めていながら、リマ族の持つ美しさに魅入られリマ族に材を取った作品を多く遺している。これはその中でも最も有名な一枚であり、最も評価の高いものである。邪教を題材にしているこの絵画が評価されている理由はやはり、全てを凌駕する程の美しさに他ならないのではないかとリシュは考えていた。宗教思想も何もかもを呑み込む程の力が、その絵には込められているように思われた。だがこれは写しだとメガラが嘗て言っていた。本物は、もっと息を呑む程に美しいのだろうか。
放っておけば何時までも絵を眺めているリシュに、准教は穏やかに声を掛けた。
「引き止めてすまなかったね、急ぐのだろう。私もそろそろ、夕暮の礼拝の準備をしなくてはいけないからね」
その言葉を受け、リシュはちいさな頭を深く下げた。
「御本、有難うございます。さようなら、准教様」
不自由な右脚を引きながら、リシュは教会を後にした。
メインストリートを通り、パン屋と酒屋の間の路地を抜けた先、用水路にかかる橋の小脇に一本立ち竦む細い木の下。其処には、リシュがリーベルにも明かしていない小さな秘密が隠されているのだ。
「やあ、コルシェ。今日は随分とご機嫌だな」
心地の良い低く澄んだ声が、木陰からリシュの鼓膜へと真っ直ぐに伸びた。その瞬間、終始曇天のようにくすんでいるリシュの表情に光が射した。
「こんにちは、鳥使いさん」
弾んだ声に、あの鳥使いの青年も口元だけで笑った。
ひと月前に出逢った彼はあれ以来何時もこの橋の袂に座り込んでいる。厚い瓶底の眼鏡と目深に被った帽子によって、通った鼻筋と形の良い薄い唇の印象だけが際立つその青年の肩には、いつも尾の長い珍しい純白の鷹がとまっている。
彼はリシュの事を『カディアの賛美』に描かれている族長の名、コルシェと呼ぶ変わり者。だがその所作も、透き通った低い声も、そして彼の紡ぐ言葉も、まるで草原を撫でる風のように心地が良く、警戒心の強いリシュが初めて会った時から心を委ねられる不思議な魅力に溢れる青年であった。彼は知に長け、全てを見透かしているようで、その話方には独特のリズムがある。急く事なく一言一言を染み入らせるようにゆっくりと、言葉に強弱を付けて話すのだ。リシュは初めて彼と話して以来、その語り口調の虜となり、教会へと向かう朝と帰路に着く夕暮れ前にこうして会うようになった。名も明かされてはいないが、そもそも奴隷として生きていたリシュにとってそれを重要視した事はなかった。彼は今やリシュの唯一の友人である。
「なにか良いことでもあったのか」
今日も耳心地の良い声が、囁くように微笑している。
「今日、准教様に御本を頂いたの」
そう言ってはにかみながら、リシュはふと視線を落とした。それはほんの一瞬、燕脂の色を確認した程度の物だった。
「こんな僕が、他者に何か与えてもらって良いのだろうか──」
唐突な言葉に思わず間の抜けた声を上げるリシュを見て青年は微かに微笑すると、小さな鼻頭を指先で押し上げた。
「顔に書いてあるよ」
そんなつもりは毛頭なかったのだが、否定出来る筈もなかった。
この三月で随分と変わったが、やはりリシュは相変わらず卑屈で、リーベル以外に何かを与えられる時、必ずその対価を思ってしまうのだ。それを見透かしていた青年は、努めて穏やかにそれを否定した。
「准教は君の美しさへの讃美としてその本を贈ったんだ。有り難く貰っておきな」
「美しさ」
未だ自身に対するその概念に馴染みのないリシュは、思わず眉を顰めた。
「そう、君は美しい。この街の、君の友人でさえ持たぬ美しさをその瞳の中に内包している」
一体それが何であるか、リシュに分かるはずもない。
「その本を書いた君の敬愛するポルトーは、美は罪だと説いているけれど、美しき事それ自身が罪では無い。罪は、その美を自分の手柄だと自惚れる事さ。よく覚えておいで」
青年はそう言うと、少しもの悲しそうに、口角を引き締めた。
初めて出逢った日に身体の奥深く、本能が叫んだ言葉をリシュは思い出していた。あれが間違いではなかったと、彼と逢瀬を重ねる度に実感する。リシュがこの青年に心惹かれた理由。それは、上っ面の事ばかりに囚われるリシュとは違う彼の思考の深さのほかに、彼が己の心をまるで全て見透かしている所でもあった。事実リシュは美を崇拝する気持ちが未だよくわからなかったのだ。確かに、教会の壁に掛けられた『カディアの讃美』は美しい絵画である。自身も時を忘れその絵に祈りを捧げる事も稀ではなくある。だが罪深きは美だと感じた事は、一度ならず覚えがある。ガレー船に於いて、奴隷である己が令嬢に眼を奪われたのも、また奴隷では無くなる前、リーベルに見惚れてしまったのも。そして──。
「さあ、お帰り。今日は旦那が早く帰ってくるのだろう」
青年はリシュが深みへと陥ろうとするのを阻むかのように、そう言って彼の頼りない肩を叩いた。肩でじっとリシュを見詰めていた純白の鷹がその動きに羽を微かに擦り合わせた音がリシュに不気味な予感を齎した。
この青年と対峙する時、微かに感じる刹那。明日も彼がここにいる事の確証がまるで持てぬ不安。リシュが彼が己の心を見透かし諭すその度、朝方窓辺に立ち寄る小鳥たちのように、何時か彼は飛び去ってしまう気がしていた。
「明日……また、明日」
その先を言い淀み、今にも泣き出してしまいそうなリシュに、青年は口元だけで微笑した。
「また明日、ここで」
その言葉で、どれ程に安堵がこの胸を満たしてゆくか。泣いてしまうより先に、リシュは短い別れの言葉を贈りその場を離れた。
この三月、准教やリーベル、そしてあの青年により、リシュは様々な事を知った。ここはルクスエヴァンスと言う宗教国である事や、この地がかつては己の先祖の物だった事。そして、長きに渡り大地には血が流れていた事。風に乗って耳に届くばかりだった微かな知識が形となり、学ぶ喜びも知った。そしてこの僅かの間、リーベルと共に暮らし、鳥使いの青年と逢瀬を重ね、文字を学び、歴史を学び、そして自身が疑う事のなかった奴隷と言う立場を初めて外界から正視した。なんと哀れな命であったか。生への渇望にのみ生きる事を亡くしてから、不思議と奴隷であった頃の自分は、何処か忘れてしまった。
だが、忘れられない。足を引くたびに、小さな胸には針が落とされる。幸福を知れば知る程、ユリウスの美徳が蘇るのだ。この身の代わりとなり、果てた聖者。誰を責めるでも無く、あくまで美しく満足のゆく微笑を湛えたあの死相。輝かしいその美徳が齎した、この身がある限り永劫逃れられぬ枷。
臙脂色の本をきつく抱き締め、リシュは不穏な心を振り払うかのように、出来得る限り早足で駆けた。足が縺れる。この肩に課せられた命に、ゆっくりと押し潰されるような心地がした。
その日は珍しく早く帰還したリーベルと食事を共にし、リーベルが湯を浴びている間、リシュはベッドに腰掛け昼間准教に貰った本に目を通した。だがやはり是迄読んできた本とまるで違い、挿絵も無く、難しい言葉ばかりが羅列されている。ひとりで読む事はとても難儀だ。
それでも必死に目だけを滑らせていると、漸くリーベルが部屋に戻った。彼はリシュの手元に視線を落とし、自分が買った物でもない見掛けぬ古い本に首を傾げる。
「それはどうしたの」
「准教様が下さったの」
リシュはどこか嬉しそうにそう言うと、直ぐに眉を下げた。
「でも、難しい言葉ばかりで」
悲し気なリシュの髪を撫でながらリーベルはその手から本を取り、そして小さく頷いた。
「頽廃の王か……僕も昔読んだけれど、確かに今の君には少し難しいものだね。今日はもう遅いから、触りだけ読もうか」
そう言って、リーベルは本の頁を捲った。 ベッドの端に腰掛け肩を寄せ合いながら、リシュはリーベルの透き通る甘いテノールが紡ぐ、まるで唄のような美しい言葉に耳を傾ける。
「鏡の中に存在する影に問うた。美と言う剣を持つ事は、罪であるのか、と。私は美しく生まれたいと願った事はなく、だが神に与えられしこの美貌を、恩恵と信じ是迄生きてきた。然しこの悲劇的な現実は、私が美を持たねば引き起こされる事は無かった筈である。やはり、美くしきは此の世に於ける最も醜悪な罪ではないか」
『頽廃の王』は、都会に生きる貧しくも類稀なる美貌を持つ髪結いの少年の物語のようだ。序章はその少年が鏡に向かい苦悶する所から始まっている。リシュはその美貌の少年にリーベルを重ね、瞼を閉じて聴き入った。
そして序章の終わり、その一節をリーベルが読み上げた時の事だった。
「人々は愛の為に生きる活力を漲らせ、また愛の為に死への根拠無き恐怖を乗り越えるのだ」
リシュは思わずあっと声を漏らした。当然リーベルは本から視線を離し、驚くリシュの顔を覗き込む。
「どうしたの」
「ぼく、この本を知っているよ」
リーベルは不思議に思い、思わず眉を顰めた。字も満足に読めぬこの少年が、何故この古く難解な小説を知っているのだろうか。
「どうして」
「採石場にいた時、いつも──」
リシュの奥底、遥か遠い、あの採石場の、岩壁に反響する音の記憶に触れた時、背筋を悪寒が駆け抜けた。
この本を読み聞かせてくれた者は、間違いなくベイルである。それなのに、その顔は記憶の中で融けて、別の者に成り代わろうとしている。あの野太い男の声も、足を組み、踏ん反り返るあの怠惰な姿勢も、陽に焼けた健康的な肌、赤い髪も、見る影もない。リシュの記憶の中で、ユリウスの美貌だけが輝きを放つ。
どうして、何故彼を思い出すのか。その恐怖に突如震え出したリシュに何かを悟ったリーベルは、小さな額に熱い唇を落とす。
「君は何も知らない、何も。この家に来るまで、君は幸せに暮らしていたよ。けれどそれを忘れてしまった。君は何も知らない、だから大丈夫。僕に身を委ねてごらん」
リーベルはこうして何時も過去に蝕まれてゆくリシュを守っていた。奴隷であった頃の記憶に喰われ、この幸福の時を罪と感じ、何時リシュの脆い心が壊れてしまうかも知れぬ。だからこうして全てを塗り替えてしまおうと。それは少なくともリーベルの中では全てリシュの為であった。
しっとりと濡れた柔らかな感触が離れるまで、リシュは今日の一日を感謝するのだ。あの絶望的に普遍であった奴隷と言う命は、全てが夢泡沫。今この身の未来に見える物が全て希望である事、それは全て、リーベルが与えてくれたものだから。リーベルの為に忘れてしまおう。人生の全てを。慈しみを与えてくれる彼の為に、食事を与えてくれる彼の為に、いつでもその深い胸に痩せた身体を抱き込んで、安らかな眠りを与えてくれる彼の為に──そう生きなくてはならない。それは信仰にも、しかし脅迫にも似た感情だった。
目を覚ますとリーベルは既に発った後であった。最近は何時もそうである。冷えたシーツにそっと触れ、リシュはリーベルの心労を労わるように浅い溜息を吐いた。
最近どうやらいつにも増してアセリアが騒がしいらしく、毎日毎日レイチェル嬢からの手紙が屋敷には届くのだ。使用人達の噂話によるとその内容は、どうしてこんな時に側にいてくれないのだと、大まかに言えばそう言う類の物らしい。リーベルは誠実な青年であるが故に、恋人の為、馬車を飛ばしても片道三時間は掛かる道程を文句ひとつ零す事もなく毎日往復している。更には、その身を案じたウィドーがアセリアに泊まってはどうかと提案したものの、今度はリシュが眠れない事を心配し、どれ程遅くなったとしても必ず帰ってくる。但しそれはレイチェル嬢が未だリシュを毛嫌いしている要因にもなっている事に彼は気付いてはいない。リーベルがリシュの腰に腕を回すだけで機嫌を損ねてしまうのだから、彼女の嫉妬深さは相当なものだ。リシュはそんなリーベルを想いながらも、自分の事は心配せずとも良いと、その一言が言えずにいた。
何処か沈鬱な面持ちで何時も通り教会へ行く準備を終え、リシュは使用人達の大袈裟な見送りを背に街へと歩き出した。その足は迷う事もなく何時もの場所へと向かう。狭い路地裏の、用水路に掛かる橋。鳥使いの青年がいる筈である、あの木の根元。
「おはよう」
今日も鳥使いの青年が口元だけで微笑んでいる。リシュは弾む胸を隠す事もなく、照れ臭そうに瞳を伏せ目覚めの言葉を復唱した。青年は肩からぶら下がる教本の詰まった鞄を指差し口を開いた。その瞬間、まるで水面に波紋が拡がってゆくように、低く澄み通る声が路地裏に拡がる。
「どうだ、もう随分と文字が読めるようになったのではないか」
「少しだけ」
「書く方は」
「それも、少しなら」
控え目に視線を落とすリシュの頭上、青年は嬉しそうに笑った。
「それは良いな。是非俺に手紙を書いてくれよ」
リシュは当然、これまで手紙を貰った事もなければ、書いた事もないのだ。だが鳥使いの青年はその全てを知っている風な様子である。
「手紙って、なにを」
「何でもいい。君の思うまま、例えば難しければ、今日あった出来事でも良いんだ」
それならば、自分にも出来るかも知れない。リシュの胸に希望が満ちた時、遙かで鐘の音が響き渡った。教会が開いた事を告げる、目覚めの鐘。間も無く学び舎が開く事を告げるものだ。
「さあ、そろそろ行かないと」
鳥使いの青年の言葉にリシュは一瞬思案した。何時もなら、また後でと言う言葉で締めくくるのだが、しかし、ふと頭を擡げた好奇心故にリシュは俯いたままぽつりと呟く。
「さよなら」
「さようなら、幸福のコルシェ」
青年はそれ以上の言葉を発しようとはしない。沈黙が迫り来る。リシュの言葉を待っているのでもなく、青年はリシュを見送ろうとしている。
「また、後で」
「ああ、この場所で」
その返答を受け安堵と共に押し寄せた切なさに、リシュは耐え切れず走り出した。
青年は決して自ら未来の約束をしようとはしない。リシュがそれを望めば応えてはくれるが、もしせずに別れたとしたら、きっと彼はもうこの木の下にいる事はないだろう。リシュが望む以上に彼は決して踏み入ろうとはして来ない。かと言って、全くの無関心を装っている訳ではない。リシュを快く想っていない訳ではないのにも関わらず、初めて会った時から変わらぬこの決して触れる事はなく、けれど手を伸ばせば届いてしまうこの距離に、リシュは微かなもどかしさを覚え始めていた。
何時も通りの時間に教会に着き、准教の読み上げる教えの言葉を浴びながら祈りを捧げている時。リシュは自身の中に此れ迄無かった感覚が燃えている事に気が付いた。自分が何かを思う事に意味が出来たのだ。それは紛れもなく、鳥使いの青年の望みが誘因に他ならない。
そもそも学ぶ事は好きだ。知らぬものに触れる事は楽しいし何より、こうして人として生きてゆく準備をする事は、リシュの内に未だ潜む奴隷としての命を追いやっているのだ。だから周囲の子供達の中でも取り分けてリシュは准教に気に入られたし、リシュは勉学に夢中になれていた。だが今朝からリシュの頭はあの鳥使いの青年に書く手紙の事で埋め尽くされており、今目の前にある全てが、覚えたての文字となり紙を踊る錯覚にさえ陥った。
准教の平坦な声が聖典を読み上げ始まるこの学び舎での一日。准教の目を盗み繰り広げられる周りの子供たちの悪戯の数々。今日は歴史を学ぶ日で、今は丁度大陸で宗教弾圧を受けた後、遂にこの三日月型の広大な島ルクスエヴァンスにテラー教徒が上陸し、原住民であったリマ族と争いを繰り広げ、そしてその果てに此の地を宗教国として建国した辺りを教わっている。
リシュは今厳粛なテラー教徒であるリーベルの世話になり、こうしてテラー教の教会で教育を受けている。その事について後ろめたさを覚えない訳ではない。どちらに、と言うよりも、どちらにも。
自身の民族は嘗てテラー教徒に迫害を受け、そして今や家畜と同等、もしかするとそれ以下の奴隷として生きている。だがそれを憎む事は、リーベルへの裏切りに他ならない。あの永遠に続く死と言う恐怖にのみ支配された地獄の日々から救い出してくれたものは、誰でもないリーベルである。だがまたそれに感謝の念を抱く事は、民族への裏切りだ。そもそもこれまで自身の民族について深く考える事はなかった。だがリシュはセイルで暮らすようになり、様々な知識を得てからは強く民族を意識する事となったのだ。濡羽色の瞳と髪は、その血が邪教徒のものである証。この血は、幾ら足掻こうとも決して塗り替える事は出来ないのだ。
リシュはこの時、決して准教やリーベルには言えぬこの感情のその全てを、知に長けたあの青年にぶつけてみようと考えついた。このようにしてリシュが傍受する全てが、鳥使いの青年への手紙にしたためる為に呼吸を始めた。学ぶ事に意味が出来た──それはリシュにとっては、生きる意味にも繋がる、何にも代え難い幸福であった。
この微かな変化は周囲から見ればかなりの物で、何時も俯きがちに暗い瞳で教本の文字ばかりを追っているリシュが、初めてその漆黒が深く美しい双眸を輝かせ世界を品定めするかのように辺りに神経を配っている様子は、彼に何がしかの変異を伴う事柄が訪れた事を誰の胸にも予感させた。准教は微笑まし気にそんなリシュを見守っていたが、しかしそれは、決して喜ばしい事ばかりではなかったのだ。
「それでは、今日は此処まで」
准教が授業の終わりを告げた瞬間、子供達が高い声を上げ走り出す。宥める准教の事などそっちのけで、彼等はこの後日没まで何をして過ごすかに既に頭を切り替えている。リシュは手紙に書く出来事を探そうと、知れずそんな彼等の小さな背中を見詰めていた。それに気付いたひとりの少年が、准教の意識がこちらに向いていない事を注意深く見定め、低く吐き捨てた。
「おい、野良犬が物欲しげにこっちを見ているぞ」
周囲もまたその声にリシュを振り返り、一様に厭らしい笑みを浮かべた。
リシュは驚いていた。言われた言葉の残酷さではなく、初めて言葉を交わした彼等が、馴染みある瞳をしていたからだ。これ迄このように他者に意識を向けた事はなかったが、だが、それでも彼等の印象は悪いものではなくて、この街に似た柔らかい存在であった。それなのに、小さな顔たちそのどれも、まるで奴隷であった自身が常に向けられていた物なのだ。軽蔑と嫌悪の中に後ろ暗い欲望が燻っている、あの陰湿な墓穴のような顔付き。
当惑するリシュに向かい、再び少年が無邪気な唇を震わせた。
「仲間に入れて欲しかったら、街外れに行ってきな。そこからジラを一冊持ってこられたら、一緒に遊んでやっても良いぜ」
彼等は楽しそうに高い声を上げて、教会を飛び出して行った。残されたリシュは呆然とその後ろ姿を見送り、やがては肩を落として帰路に着いた。
日課である鳥使いの青年との短い逢瀬を終え、お屋敷に戻って直ぐにリシュはリーベルの部屋で机に向かった。ウィドーに頼み手に入れた紙に、今日あった出来事をまずい字とたどたどしい言葉で素直に書き綴ってゆく。
きょうのあさごはんはゆでたたまごをすりつぶし、うすくきったパンではさんだものだった。おいしかった。れきしをならった。このちに国ができたところまで。なぜだかとてもくるしいきもちになった。ぼくはじゃきょうとの血をひいているから。はじめてまなびにきている子どもたちにはなしかけられた。ジラをもってくれば仲間にしてくれるといわれたけれど、ジラとはなにか分からなかった。きょうリーベルにきいてみたい──。
そこまで書き終えリシュはふと手を止めた。最後の一文が思い浮かばないのだ。何でも良いとは言いつつも、一体誰が自身の一日を箇条書きで記しただけの紙を貰って嬉しいものか、このままただの日記を渡すに少し忍びない。そう思えば書き出しも、これで良いのかわからなくなってくる。書き終えた筈の手紙を眺めながら、まるでこれは自身の投影だとリシュは哀しい気持ちになった。
ふと磨き上げられた硝子窓から射し込む紅の光が頬を刺し、リシュは我に帰ったかのように顔を上げた。時間経過を感じた途端に、リシュはまた哀しくなった。燃えるような夕陽は、このお屋敷に初めて足を踏み入れた日を思わせる。どうして、リーベルはこんな自分を救ったのか──何度目か、リシュは心の内で答えのないその疑問を投げ掛けた。
奴隷と言う命から解放され、セイルでリーベルに守られ生きるうち、彼には深く思考する癖が付いていた。リーベルがリシュを過去から遠ざければ遠ざける程に、この癖はリシュの神経に深く根を張った。思考は毒だと擦り込まれてきた彼は、常に思考を許された悦びと、それが幸福だと感じる己の卑しさとの合間でもがき苦しんでいる。未だ、長年奴隷として生きて来た彼のその卑屈さを取り除く事はリーベルをもってしても不可能であった。
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