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第一部 『狂犬病』
十話 逃避行
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低い太陽が、陰湿な部屋にも等しく熱を齎した。薄っすらと張り出した胸板が穏やかに波打っている。シャワーを浴びたばかりのさらりと乾いた清潔な肌はまるでビロードのように滑らかで、全身に張り巡らされた筋肉は、どちらかと言えば実用的なもの。しかしながらその精緻な様子は寸分の隙もない。浅い眠りに包まれ腕の中で脱力するその肉体美を眺めながら、村上は湧き上がる感銘の吐息を吐いた。男の肉体を美しいと感じたのは、後にも先にもやはり八雲ひとりだった。
愛おしさを抑えきれず、村上の腕を枕に眠り込む八雲の緩く閉じた瞼に口付けを落とすと、長い睫毛がちいさく震えた。起こしてしまった事を瞬間的に悔いる村上を見上げる瞳は、昨晩の名残をまだ残し濡れている。
「志貴──」
まるで迷子の子供のよう、精一杯に手を伸ばし、掠れたこえで切なげに、八雲はいつもは呼ばぬ村上の名を呼んだ。労わるように唇を重ね、優しく髪を撫でてやる。
「熱は引いたな」
沢山汗をかいたから、と照れ臭そうに微笑む八雲の頬を指先で撫で、村上もまた微笑みを落とす。
何故こうも、八雲に心惹かれてしまったのだろう。村上は自身を見詰め確かめるように素肌に指先を這わせる八雲を眺めながら考える。けれど、理由など分からなかった。八雲がシキを連れて来なければ、ふたりは永遠にこれまでの三年間を繰り返してゆくばかりだったと思う。互いに必要以上の干渉は避け、単なる同居人として生きていただろう。今はもう、そんな妄想にすら悪寒が走る。運命と言う言葉が嫌いだった。理不尽な息子の死が、正当化されてしまうような気がして。ただこの複雑に織り上げられて生まれた愛に関して言えば、それこそ運命に似た何かだったのかも知れない。
鼻先を擦り寄せ微睡む八雲の髪を梳きながら、村上は優しく問い掛けた。
「流には、夢はあるのか」
八雲は少し考えたあとに、静かな声で答えた。
「妹の墓を、作ってあげたい」
悲しい過去を記憶の底から引き摺り出した筈なのに、八雲は微笑んでいる。
「名前はなんて言うんだ」
「名前はないよ」
「流もか」
驚く村上を真っ直ぐに見詰め、八雲はゆっくりと頷いた。
「八雲流って名前はね、貰ったんだ。堺さんの知り合いでね、八雲さんって言って、優しくて、いい人だった。嬉しかったな。初めて名前をもらった時は」
だから、堺は八雲を名前で呼んでやってほしいと言ったのか。八雲が、名前で呼ばれる事に過剰に反応していたのはその為か。村上はそれを知り、胸が圧される思いだった。その八雲と言う人物の事を聞いて良いのか迷っているうちに、八雲は言葉を繋ぐ。
「シキを預けていて本当に良かった。小笠原に見付かれば、俺と同じ道を歩ませてしまう所だった」
それはそうかも知れない。けれどそんな事を口には出せず、村上は押し黙ったまま、八雲の言葉に耳を傾けていた。
「麻希ちゃんはシキを知らなかった訳じゃない。シキは俺と同じ。存在しない、名前のない子供なんだ」
え、と思わず声を漏らす村上の胸に、八雲は顔を埋めた。
「村上さんの事、ずっと想っていて、それで……同じ名前をつけた。貴方のように、優しい人になって欲しくて」
頬を染めた告白に、村上は思わず笑ってしまった。おかしいと思ったのだ。しきと言う珍しい名前がこんな所で奇跡的に出逢うなんて。
「なるさ」
縮こまった裸身を抱き締めて、赤さを増した耳朶に歯を立てる。ちいさな喘ぎとともに硬直した身体をよりきつく抱き締めて、耳元深くに囁く。
「お前を心から愛する、そんな男に──」
幸福な目覚めと眠りを繰り返し、ふたりはいつまでも微睡んでいた。
それから、預けていたシキを無事に連れ帰り、ふたりはこれまで通り、シキに目一杯の愛情をかけて暮らした。読み書きを教えたり、算数を教えたり、箸の使い方を教えてやるのはほぼ村上の仕事となっていた。八雲は小笠原が二人の関係を知った日から帰らない日が増えた。心配ではあるが、これも今直ぐどうにか出来る物ではない。今下手に逆らえばどうなるか。村上だけではない、八雲も。それは、シキの死にも直結する重大な事なのだ。けれど、小笠原の支配を断ち切る術を考えていない訳でもなかった。村上はシキにもう少し体力が付けば、二人を連れて逃げる事を考えていたのだ。
服役中、ひとりの老人と親密になった。親密と言うよりも、一方的に気に入られてしまったのだが。罪状は忘れてしまったが、軽犯罪を繰り返し服役していたのだと記憶している。その男はとある過疎化の進む山間部の農村に土地を持っているらしく、出所したら村上にその山間から覗く朝日や、眩い星空を見せてやると言っていた。会う度に都市部からの行き方を口頭で繰り返されるものだから、今でも憶えていたのだ。どうにか逃げ果せその男の元で匿ってもらえるのなら、希望がない訳ではない。小笠原に握られていない村上のツテはその老人ひとり。堺は信用出来る人物ではあるのだが、当然小笠原は八雲との繋がりを把握しているだろう。全ての関係を断ち切らなければならない。そうしなければ、とてもではないが逃げ切れない。陵辱の傷痕を連れて八雲が帰宅する度に、村上は強くそれを思った。
八雲の部屋のチェーンは撤去し、壁も修復したものの、あの日以来三人は村上の部屋で過ごしている。元々大きめのベッドだから、三人でも大人しくしていれば転げ落ちる事もない。最初は緊張からか寝付きの悪かったシキも、最近では大好きなシベリアンハスキーを抱き締めてよく眠るようになった。沢山食べて、沢山寝て、あとは運動をさせてやりたいのだが、中々それが難しい。八雲が世間から隠せと言うから公園には連れて行けないし、遊具を買ってもいいが、ひとりで留守番をさせる時間が長く、何かがあっては困る。シキの成長に想いを馳せながら、八雲が壁に貼ったたくさんの絵を眺め柔らかい髪を優しく撫でる。
暫くそうしていたが、どうにも落ち着かず、村上はシキを起こさないように布団を抜け出した。何となくリビングのテレビを付け、冷蔵庫から缶チューハイを取り出しソファに腰を下ろす。時刻は間も無く二十三時になろうとしていた。玄関から微かな物音がして、直ぐに八雲がリビングに顔を出した。
「おかえり」
ただいまと返しながら、最近この時間はシキと共に布団の中だからか、嬉しそうに飛び込む八雲を受け止める。
「どうしたの、こんな時間に」
「心配だった」
ふふ、と小さく笑い、八雲は村上の首筋に口付けた。そのまま唇を重ね、舌を絡める。シキがいる手前、やはり余りにも過度な触れ合いは避けていたから、ふたりにとってもあの夜以来である。
八雲を膝の上に乗せ、スーツの上着を落としタイを引き抜く。八雲は村上から与えられる全てを待ち焦がれるように首に腕を回し、あまく濡れた瞳で村上を見下ろす。首筋をなぞるように舌を這わせ、シャツのボタンを外すたび露わになる素肌を追い掛けるように顔を埋めてゆく。汗の滲む素肌からは清潔な石鹸の匂いが香り、高揚する胸に切なさもまた込み上げた。
突然、ニュースが二十三時を告げる音がこれから愛し合おうとする二人の隙間に入り込み、村上は一度八雲を隣に座らせ、リモコンに手を伸ばした。しかし、電源ボタンを押す直前、でかでかと表示されたテロップの文字に思わず身を強張らせた。追い討ちをかけるよう、男性キャスターが原稿を読んでゆく。
「一昨日未明、江東区のアパートで、溝江淳子容疑者と溝江義之容疑者が児童虐待容疑で逮捕されました。また、隣の部屋に住む田宮圭一郎さんが遺体で見付かり、自殺と他殺両方を視野に捜査を行う他、溝江容疑者の関与を調べています。田宮圭一郎さんは自室で首を吊っており、死後三週間ほどと見られ、腐敗が進んでいるものの、指紋から本人のものと断定されました。近隣への聞き込みによりますと、この辺りでは数年前から常に動物園のような異臭が漂っていたとの事ですが、一週間程前からまた違う悪臭に変わった為に通報に踏み切ったとの事。淳子容疑者は、異臭騒ぎで駆け付けた警官に、子供が生まれたが出生届を出さず隠していて、その子供が誘拐されたと自首し、児童虐待の容疑で現行犯逮捕されました。淳子容疑者と義之容疑者は、経済的に子供を育てる余裕がなく、また殺す勇気もなかった為に、十分な食事を与えず、日常的に暴行や浴槽の中に顔を押し付けるなどの虐待を繰り返し、逃げないように服を与えず犬用の首輪をつけ鎖で繋いでいたと供述しており、警察は情報提供を求めるとともに、子供の行方を追っています。尚、溝江容疑者には十九歳になる長女がおり──」
そこでブツリと途切れたテレビ。黒い画面からゆっくり視線を流すと、八雲が真っ直ぐに村上を見詰めていた。未だ追い付かない頭で、村上は必死に考える。
「どうする、警察に──」
いや、違う。警察など以ての外だ。世間は冷たいものだ。当然刑務所にいた男にまともな子育てが出来るはずもないと決め付けられ、戸籍のない八雲に待つものは、制裁だ。狼狽える村上の手を握り締める八雲は、冷静だった。
「ごめん。田宮がアパートで死んだのは予想外だった。小笠原は鼻の利く男だ。田宮を自殺に見せかけて殺した俺が隣の家の虐待に気付き、誘拐したんじゃないかと考えないとも限らない。シキの存在がバレたら終わりだ」
村上は上がる息をなんとか落ち着かせようと八雲の手を握り返し、ゆっくり息を吐く。シキにとっては、二人と離れる事が将来の幸せになるのだろうか。戸籍をもらい、学校に通い、施設で沢山の子供達と生きる。そう言う普通の人生を生きた方が、世間一般にしてみれば幸せなのだろうか。けれど────。
「逃げよう」
村上の言葉を八雲は黙ったまま、しかし真っ直ぐに受け止める。
「三人で、誰も知らない土地に行こう」
脂汗が滲み、息が上がる。それでも村上は必死で伝えた。刑務所で知り合った男の事、ずっと逃亡は考えていた事、八雲を、シキを、心から愛しく思っている事。
この選択は愚かな事かも知れない。世間一般の感覚で見れば、子供の事を思い警察に引き渡す事が最善だ。それは分かる。けれど、かつて息子を失った村上に、世間は何と言ったか。父子家庭だから目が行き届かなかったのだと叱責され、村上に引き取られた事が不幸だったのだと勝手に嘆かれ、父親がアル中だから、息子も落ち着きがなかったのだと言われのない嘲笑を投げ付けられた。それが、〝普通の立派な人間〟の意見だった。シキにはそんな人間の群れる社会に傷付いて欲しくない。社会から逸脱していても良い。例え心無い全てに後ろ指をさされても、愛された事に誇りを持って生きられる人生を生きて欲しい。この愛が紛い物であると言うのなら、この世の全てが紛い物だ。それが、村上の出した答えだった。
二人はその日のうちに必要最低限の荷物を纏めた。刑務所の男の住む県には、早朝発の高速バスがある。なるべく早く東京を離れなくてはとは、八雲の提案だった。
ボストンバッグひとつに全てを詰め込み、シキに八雲が買った麦わら帽子を被せ、村上もまた目深にキャップをかぶり、まだ朝日も出ないうちに三人は家を飛び出した。なるべく人目を避けるには、日が昇ってからでは遅い。それに徒歩で行けば、殆ど時間通りに着くはずだ。高速バスの予約は堺が全て手配してくれた。足がつかないよう、全てに神経を張り巡らせる。
高速バスの発着する駅は繁華街の中にあり、夜は噎せ返る程の熱気を帯びる大通りに人はない。ふと村上は隣を歩く八雲に視線を投げ、思わず眉を顰めた。
「八雲、荷物は」
確かに準備をしていたはずだが、その手には何も握られていない。歩みを止めることもなく口を噤んでいる横顔に酷く嫌な予感がして、何度も呼び掛けるが八雲はやはり答えてはくれない。
発着場を目の前に、遂に我慢がならなくなって村上はシキを地面に下ろし、八雲の肩を強く引いた。
「何だ、何を隠している」
微かに肩を上下させながら、漸く観念したのか。八雲はぽつりと呟いた。
「小笠原は、何も村上さんが俺から手を引く事を望んでいる訳じゃない」
振り返った瞳が、強い決意を持って揺れる。
「殺そうとしていたんだよ」
小笠原が八雲に対して持つ執念は、それ程凄まじいものなのか。村上は恐ろしくなって、思わず身を震わせた。長い指先がそっと村上の頬を撫でる。
「小笠原には俺が始末したと伝える。そうすれば村上さんは追われない」
たった一人、残ると言うのか。そんな事を許す訳がない。そう食い下がろうとする村上の唇を強引に塞ぎ、八雲の腕が首に回る。
「行って、俺は大丈夫」
そう言って身体を離し、八雲は穏やかに微笑んだ。
「片がついたら必ず追うから、待っていて」
覚悟──その言葉だけが村上の頭の中でぐるぐると回る。
「お願い、シキを守って」
ならば一体誰が、八雲を守ると言うのだ。幼い身体で必死に妹を守り、知らぬ所でその身を呈し村上を守り、そしてまだ、何かを守ろうと言うのか。
ふと村上の握り締めた拳に触れるものがあった。驚いて視線を落とすと、シキが、小さな掌では包みきれない拳に触れていた。不安気な瞳に見詰められ、村上もまた覚悟を決める。
「必ず、来るのか」
八雲は深く頷いて、また優しく微笑んだ。
「シキの事は必ず守る。だから──」
「大丈夫。俺はしきを遺しては死なない」
流、と縋るように囁いて、微笑む唇に口付ける。
村上は拳に触れる手を握り、停車するバスに向かい歩き出す。何度も振り返るシキの手を強く握り、真っ直ぐに。
バスに乗り込み、窓の外に視線を投げ、溢れる愛しさが、涙となって頬を伝う。ゆっくりと小さくなる八雲が見えなくなるまで、村上は唯々胸の内で何度もその名を呼んだ。
愛おしさを抑えきれず、村上の腕を枕に眠り込む八雲の緩く閉じた瞼に口付けを落とすと、長い睫毛がちいさく震えた。起こしてしまった事を瞬間的に悔いる村上を見上げる瞳は、昨晩の名残をまだ残し濡れている。
「志貴──」
まるで迷子の子供のよう、精一杯に手を伸ばし、掠れたこえで切なげに、八雲はいつもは呼ばぬ村上の名を呼んだ。労わるように唇を重ね、優しく髪を撫でてやる。
「熱は引いたな」
沢山汗をかいたから、と照れ臭そうに微笑む八雲の頬を指先で撫で、村上もまた微笑みを落とす。
何故こうも、八雲に心惹かれてしまったのだろう。村上は自身を見詰め確かめるように素肌に指先を這わせる八雲を眺めながら考える。けれど、理由など分からなかった。八雲がシキを連れて来なければ、ふたりは永遠にこれまでの三年間を繰り返してゆくばかりだったと思う。互いに必要以上の干渉は避け、単なる同居人として生きていただろう。今はもう、そんな妄想にすら悪寒が走る。運命と言う言葉が嫌いだった。理不尽な息子の死が、正当化されてしまうような気がして。ただこの複雑に織り上げられて生まれた愛に関して言えば、それこそ運命に似た何かだったのかも知れない。
鼻先を擦り寄せ微睡む八雲の髪を梳きながら、村上は優しく問い掛けた。
「流には、夢はあるのか」
八雲は少し考えたあとに、静かな声で答えた。
「妹の墓を、作ってあげたい」
悲しい過去を記憶の底から引き摺り出した筈なのに、八雲は微笑んでいる。
「名前はなんて言うんだ」
「名前はないよ」
「流もか」
驚く村上を真っ直ぐに見詰め、八雲はゆっくりと頷いた。
「八雲流って名前はね、貰ったんだ。堺さんの知り合いでね、八雲さんって言って、優しくて、いい人だった。嬉しかったな。初めて名前をもらった時は」
だから、堺は八雲を名前で呼んでやってほしいと言ったのか。八雲が、名前で呼ばれる事に過剰に反応していたのはその為か。村上はそれを知り、胸が圧される思いだった。その八雲と言う人物の事を聞いて良いのか迷っているうちに、八雲は言葉を繋ぐ。
「シキを預けていて本当に良かった。小笠原に見付かれば、俺と同じ道を歩ませてしまう所だった」
それはそうかも知れない。けれどそんな事を口には出せず、村上は押し黙ったまま、八雲の言葉に耳を傾けていた。
「麻希ちゃんはシキを知らなかった訳じゃない。シキは俺と同じ。存在しない、名前のない子供なんだ」
え、と思わず声を漏らす村上の胸に、八雲は顔を埋めた。
「村上さんの事、ずっと想っていて、それで……同じ名前をつけた。貴方のように、優しい人になって欲しくて」
頬を染めた告白に、村上は思わず笑ってしまった。おかしいと思ったのだ。しきと言う珍しい名前がこんな所で奇跡的に出逢うなんて。
「なるさ」
縮こまった裸身を抱き締めて、赤さを増した耳朶に歯を立てる。ちいさな喘ぎとともに硬直した身体をよりきつく抱き締めて、耳元深くに囁く。
「お前を心から愛する、そんな男に──」
幸福な目覚めと眠りを繰り返し、ふたりはいつまでも微睡んでいた。
それから、預けていたシキを無事に連れ帰り、ふたりはこれまで通り、シキに目一杯の愛情をかけて暮らした。読み書きを教えたり、算数を教えたり、箸の使い方を教えてやるのはほぼ村上の仕事となっていた。八雲は小笠原が二人の関係を知った日から帰らない日が増えた。心配ではあるが、これも今直ぐどうにか出来る物ではない。今下手に逆らえばどうなるか。村上だけではない、八雲も。それは、シキの死にも直結する重大な事なのだ。けれど、小笠原の支配を断ち切る術を考えていない訳でもなかった。村上はシキにもう少し体力が付けば、二人を連れて逃げる事を考えていたのだ。
服役中、ひとりの老人と親密になった。親密と言うよりも、一方的に気に入られてしまったのだが。罪状は忘れてしまったが、軽犯罪を繰り返し服役していたのだと記憶している。その男はとある過疎化の進む山間部の農村に土地を持っているらしく、出所したら村上にその山間から覗く朝日や、眩い星空を見せてやると言っていた。会う度に都市部からの行き方を口頭で繰り返されるものだから、今でも憶えていたのだ。どうにか逃げ果せその男の元で匿ってもらえるのなら、希望がない訳ではない。小笠原に握られていない村上のツテはその老人ひとり。堺は信用出来る人物ではあるのだが、当然小笠原は八雲との繋がりを把握しているだろう。全ての関係を断ち切らなければならない。そうしなければ、とてもではないが逃げ切れない。陵辱の傷痕を連れて八雲が帰宅する度に、村上は強くそれを思った。
八雲の部屋のチェーンは撤去し、壁も修復したものの、あの日以来三人は村上の部屋で過ごしている。元々大きめのベッドだから、三人でも大人しくしていれば転げ落ちる事もない。最初は緊張からか寝付きの悪かったシキも、最近では大好きなシベリアンハスキーを抱き締めてよく眠るようになった。沢山食べて、沢山寝て、あとは運動をさせてやりたいのだが、中々それが難しい。八雲が世間から隠せと言うから公園には連れて行けないし、遊具を買ってもいいが、ひとりで留守番をさせる時間が長く、何かがあっては困る。シキの成長に想いを馳せながら、八雲が壁に貼ったたくさんの絵を眺め柔らかい髪を優しく撫でる。
暫くそうしていたが、どうにも落ち着かず、村上はシキを起こさないように布団を抜け出した。何となくリビングのテレビを付け、冷蔵庫から缶チューハイを取り出しソファに腰を下ろす。時刻は間も無く二十三時になろうとしていた。玄関から微かな物音がして、直ぐに八雲がリビングに顔を出した。
「おかえり」
ただいまと返しながら、最近この時間はシキと共に布団の中だからか、嬉しそうに飛び込む八雲を受け止める。
「どうしたの、こんな時間に」
「心配だった」
ふふ、と小さく笑い、八雲は村上の首筋に口付けた。そのまま唇を重ね、舌を絡める。シキがいる手前、やはり余りにも過度な触れ合いは避けていたから、ふたりにとってもあの夜以来である。
八雲を膝の上に乗せ、スーツの上着を落としタイを引き抜く。八雲は村上から与えられる全てを待ち焦がれるように首に腕を回し、あまく濡れた瞳で村上を見下ろす。首筋をなぞるように舌を這わせ、シャツのボタンを外すたび露わになる素肌を追い掛けるように顔を埋めてゆく。汗の滲む素肌からは清潔な石鹸の匂いが香り、高揚する胸に切なさもまた込み上げた。
突然、ニュースが二十三時を告げる音がこれから愛し合おうとする二人の隙間に入り込み、村上は一度八雲を隣に座らせ、リモコンに手を伸ばした。しかし、電源ボタンを押す直前、でかでかと表示されたテロップの文字に思わず身を強張らせた。追い討ちをかけるよう、男性キャスターが原稿を読んでゆく。
「一昨日未明、江東区のアパートで、溝江淳子容疑者と溝江義之容疑者が児童虐待容疑で逮捕されました。また、隣の部屋に住む田宮圭一郎さんが遺体で見付かり、自殺と他殺両方を視野に捜査を行う他、溝江容疑者の関与を調べています。田宮圭一郎さんは自室で首を吊っており、死後三週間ほどと見られ、腐敗が進んでいるものの、指紋から本人のものと断定されました。近隣への聞き込みによりますと、この辺りでは数年前から常に動物園のような異臭が漂っていたとの事ですが、一週間程前からまた違う悪臭に変わった為に通報に踏み切ったとの事。淳子容疑者は、異臭騒ぎで駆け付けた警官に、子供が生まれたが出生届を出さず隠していて、その子供が誘拐されたと自首し、児童虐待の容疑で現行犯逮捕されました。淳子容疑者と義之容疑者は、経済的に子供を育てる余裕がなく、また殺す勇気もなかった為に、十分な食事を与えず、日常的に暴行や浴槽の中に顔を押し付けるなどの虐待を繰り返し、逃げないように服を与えず犬用の首輪をつけ鎖で繋いでいたと供述しており、警察は情報提供を求めるとともに、子供の行方を追っています。尚、溝江容疑者には十九歳になる長女がおり──」
そこでブツリと途切れたテレビ。黒い画面からゆっくり視線を流すと、八雲が真っ直ぐに村上を見詰めていた。未だ追い付かない頭で、村上は必死に考える。
「どうする、警察に──」
いや、違う。警察など以ての外だ。世間は冷たいものだ。当然刑務所にいた男にまともな子育てが出来るはずもないと決め付けられ、戸籍のない八雲に待つものは、制裁だ。狼狽える村上の手を握り締める八雲は、冷静だった。
「ごめん。田宮がアパートで死んだのは予想外だった。小笠原は鼻の利く男だ。田宮を自殺に見せかけて殺した俺が隣の家の虐待に気付き、誘拐したんじゃないかと考えないとも限らない。シキの存在がバレたら終わりだ」
村上は上がる息をなんとか落ち着かせようと八雲の手を握り返し、ゆっくり息を吐く。シキにとっては、二人と離れる事が将来の幸せになるのだろうか。戸籍をもらい、学校に通い、施設で沢山の子供達と生きる。そう言う普通の人生を生きた方が、世間一般にしてみれば幸せなのだろうか。けれど────。
「逃げよう」
村上の言葉を八雲は黙ったまま、しかし真っ直ぐに受け止める。
「三人で、誰も知らない土地に行こう」
脂汗が滲み、息が上がる。それでも村上は必死で伝えた。刑務所で知り合った男の事、ずっと逃亡は考えていた事、八雲を、シキを、心から愛しく思っている事。
この選択は愚かな事かも知れない。世間一般の感覚で見れば、子供の事を思い警察に引き渡す事が最善だ。それは分かる。けれど、かつて息子を失った村上に、世間は何と言ったか。父子家庭だから目が行き届かなかったのだと叱責され、村上に引き取られた事が不幸だったのだと勝手に嘆かれ、父親がアル中だから、息子も落ち着きがなかったのだと言われのない嘲笑を投げ付けられた。それが、〝普通の立派な人間〟の意見だった。シキにはそんな人間の群れる社会に傷付いて欲しくない。社会から逸脱していても良い。例え心無い全てに後ろ指をさされても、愛された事に誇りを持って生きられる人生を生きて欲しい。この愛が紛い物であると言うのなら、この世の全てが紛い物だ。それが、村上の出した答えだった。
二人はその日のうちに必要最低限の荷物を纏めた。刑務所の男の住む県には、早朝発の高速バスがある。なるべく早く東京を離れなくてはとは、八雲の提案だった。
ボストンバッグひとつに全てを詰め込み、シキに八雲が買った麦わら帽子を被せ、村上もまた目深にキャップをかぶり、まだ朝日も出ないうちに三人は家を飛び出した。なるべく人目を避けるには、日が昇ってからでは遅い。それに徒歩で行けば、殆ど時間通りに着くはずだ。高速バスの予約は堺が全て手配してくれた。足がつかないよう、全てに神経を張り巡らせる。
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「八雲、荷物は」
確かに準備をしていたはずだが、その手には何も握られていない。歩みを止めることもなく口を噤んでいる横顔に酷く嫌な予感がして、何度も呼び掛けるが八雲はやはり答えてはくれない。
発着場を目の前に、遂に我慢がならなくなって村上はシキを地面に下ろし、八雲の肩を強く引いた。
「何だ、何を隠している」
微かに肩を上下させながら、漸く観念したのか。八雲はぽつりと呟いた。
「小笠原は、何も村上さんが俺から手を引く事を望んでいる訳じゃない」
振り返った瞳が、強い決意を持って揺れる。
「殺そうとしていたんだよ」
小笠原が八雲に対して持つ執念は、それ程凄まじいものなのか。村上は恐ろしくなって、思わず身を震わせた。長い指先がそっと村上の頬を撫でる。
「小笠原には俺が始末したと伝える。そうすれば村上さんは追われない」
たった一人、残ると言うのか。そんな事を許す訳がない。そう食い下がろうとする村上の唇を強引に塞ぎ、八雲の腕が首に回る。
「行って、俺は大丈夫」
そう言って身体を離し、八雲は穏やかに微笑んだ。
「片がついたら必ず追うから、待っていて」
覚悟──その言葉だけが村上の頭の中でぐるぐると回る。
「お願い、シキを守って」
ならば一体誰が、八雲を守ると言うのだ。幼い身体で必死に妹を守り、知らぬ所でその身を呈し村上を守り、そしてまだ、何かを守ろうと言うのか。
ふと村上の握り締めた拳に触れるものがあった。驚いて視線を落とすと、シキが、小さな掌では包みきれない拳に触れていた。不安気な瞳に見詰められ、村上もまた覚悟を決める。
「必ず、来るのか」
八雲は深く頷いて、また優しく微笑んだ。
「シキの事は必ず守る。だから──」
「大丈夫。俺はしきを遺しては死なない」
流、と縋るように囁いて、微笑む唇に口付ける。
村上は拳に触れる手を握り、停車するバスに向かい歩き出す。何度も振り返るシキの手を強く握り、真っ直ぐに。
バスに乗り込み、窓の外に視線を投げ、溢れる愛しさが、涙となって頬を伝う。ゆっくりと小さくなる八雲が見えなくなるまで、村上は唯々胸の内で何度もその名を呼んだ。
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「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??
溺愛の加速が尋常じゃない!?~味方作りに全振りしたら兄たちに溺愛されました~
液体猫(299)
BL
毎日AM2:10分に予約投稿。
*執着脳筋ヤンデレイケメン×儚げ美人受け
【《血の繋がりは"絶対"ではない。》この言葉を胸に、クリスがひたすら生きる物語】
大陸の全土を治めるアルバディア王国の第五皇子クリスは謂れのない罪を背負わされ、処刑されてしまう。
けれど次に目を覚ましたとき、彼は子供の姿になっていた。
これ幸いにと、クリスは過去の自分と同じ過ちを繰り返さないようにと自ら行動を起こす。巻き戻す前の世界とは異なるけれど同じ場所で、クリスは生き残るために知恵を振り絞っていく。
かわいい末っ子が兄たちに可愛がられ、溺愛されていくほのぼの物語。やり直しもほどほどに。罪を着せた者への復讐はついで。そんな気持ちで、新たな人生を謳歌するマイペースで、コミカル&シリアスなクリスの物語です。
主人公は後に18歳へと成長します(*・ω・)*_ _)ペコリ
⚠️濡れ場のサブタイトルに*のマークがついてます。冒頭のみ重い展開あり。それ以降はコミカルでほのぼの✌
⚠️本格的な塗れ場シーンは三章(18歳になって)からとなります。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
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